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四神足 四神足法解說 欲神足法

四神足

四神足法解說

欲神足法

人間の生命力の、とくに肉体上における根源的諸条件を、完全なものにする修

行法。

勤神足法

欲神足法で得た能力をベースに、肉体上の基本的諸条件を、さらに飛躍的に向上させる修行法。

心神足法

親神足法

肉体的能力の向上発達を基に、精神的能力を充実させ、さらに段階的にこの量力を飛躍向上させていく。

すなわち、脳の欠陥部分を補強するための準備段階として、古い脳を人に進化させる修行法である。ワニとウマの獣性の脳を霊性の脳に変えていくのである。

新しい脳である新皮質を向上させるとともに、霊性の場である間脳を開く。

同時に、間脳に付属する視床下部と、古い脳辺縁系との神経回路を補充強化する修行法である。知性と霊性の完全なる融合だ。

以上が、四神足法の概略である。

四神足法を成就したとき、その修行者は、仏陀に準ずる大聖者となる。『業を超え、因縁を解説し、生者、死者ともに解脱成仏させる大聖者である。

七科三十七道品の釈尊の成仏修行法は、大きく分けて、「教え」と「法」の二種に分類できる。

「法」の中心は、四神足法である。

いや、中心というより、法は、四神足法のみである。

五力法も修行法であるが、これは、四神足法の補助のようなもので、四神足法に対し、つぎのように付随される。

(四神足法)(五力法)

欲神足 精進力(信力)

動神足念力

心神足定カ

親神足慧力

四神足法、五力法以外の道品、すなわち、四念住、四正断、七覚支、八正道

クンダリニー・ヨーガと成仏法の直督「地

 

 

は、「教え」である。これらの教えは、四神足法について、つぎのように付随される。

(なお、五根法は、五力法のベースとなる瞑想と実践である)

四念住欲神足

四正断勤神足

七党支心神足

八正道視神足

ただし、観神足を体得した聖者には、もはや教えは不要であって、八正道は、 他の三神足修行者にすべて対応される教えである。

四神足法とクンダリニー・ヨーガ

さて、以上の四神足法の修行は、どのようになされるのであろうか?

 

それは、クンダリニー・ヨーガのチャクラの開発からはじまるのである。

その関係はつぎのとおりである。

ムーラーダーラ・チャクラ

欲神足

スヴァーディシュターナ・チャクラ

動神足マニプーラ・チャクラ

心神足

アナーハタ・チャクラ

ヴィシュッダ・チャクラ

アージュニャー・チャクラ

観神足サハスラーラ・チャクラ

以上であるが、ここに非常に重大なことがある。

それは、四神足法は、クンダリニー・ヨーガのチャクラを開発しただけでは不十分だということである。チャクラを開発すると同時に、各チャクラを統合して

機能させていく技法が必要なのである。わたくしはいま、非常に重大葉を使ったが、それはそれ以上、絶対に必要なポイントなのである。

それは、どういうことか?

チャクラは、チャクラを覚醒、発動させる技術によって活動を開始し、チャクう特有の力を発生する。しかし、それだけでは、四神足法が目的とする神力(超常的能力)にまではとうてい、至ることができない。どうしても、これらのチャクラを統合して、さらにパワーを加圧、加増して、重点的にはたらかせる技法が必要なのである。

それは、二つの技法である。

1、各チャクラが発生したエネルギーを、自由にコントロールし、かつ、自分

の必要とする場所に自在に送達させることのできる回路を持つ。

とくに、脳に対しての回路が重要である。

2、その回路作製を可能ならしめるための神経経路を補強、さらに、新たにつ

くり出す。

しんかしっししようかこれは、とくに、「新皮質と視床下部をつなぐ神経経路を補強する」とい

うことにも、必要欠くべからざる技法なのである。

この二つの技法は、クンダリニー・ヨーガにはないものである。

ただし、まったくないのではなく、これに類似した技法がひとつある。

ナデイ

それは、スシュムナー管と、ピンガラ、イダーという気道を使う法である。

クンダリニー・ヨーガというのは、だれもが体内に持つクンダリニーと名づけ

る強大な生命の根源力を目ざめさせて、これにより、超常的体力を獲得し、特殊な精神領域に到達しようとするヨーガである。

びていこつクンダリニーは、脊柱のいちばん下部、尾低骨のチャクラ(ムーラーダーラ)

の部分に、蛇が三巻き半、とぐろを巻いたようなかたちで眠っている。クンダリ

ニーというのは、「巻かれているもの」という意味である。

 

リンガクンダリニーは、そこにあるスヴァャンプーという男根のまわりに巻きついて

 

 

らせんクンダリニーの目ざめとともに、スシュムナー管の両側にあるピンガラとイダーという二つの気道が開き、クンダリニーのエネルギーは、この二つの気道をも、螺旋状に上昇していく。この二つの気道は、その後のクンダリニーの力を調節するはたらきをする。

びていこっスシュムナー管は、脊柱の中空部にある生気の通る路で、尾骶骨から脳の下部の活動にまで届いている。また、スシュムナー管の内側には、ヴァジリニーとよばれる気道がある。

いて、その頭部で、スシュムナー管の入口を閉ざしている。

ばれる気道があり、さらにその内側には、クモの糸のように細かいチトリニとよ

特殊な瞑想・思念・ムドラー・マントラ詠唱などの動作によってチャクラが発動し、クンダリニーが目ざめると、クンダリニーは噴火した火のような激しい勢いで、スシュムナー管を上昇していく。クンダリニーを Serpent fire (サーペント・ファイア、蛇の火)とよぶのも、そこからきているのである。

クンダリニー・ヨーガの目的は、聖なるものと一体となる至高の境地を目ざす

ので、スジュムナー管、ピンガラ・イダーの両気道を上昇するクンダリニーのエ

ネルギーは、最終的に、サハスラーラ・チャクラにまで到達して、その目的を達するのである。

以上が、クンダリニー・ヨーガの気道の技法とされるものである。

四神足法も、このクンダリニー・ヨーガの技法を、そのまま使ったらよいのではなかろうか?

そうはいかないのである。単にチャクラを目ざめさせ、そのエネルギーを発動させただけでは、四神足法の目的を達成することはできないのである。久そうふくラを統合し、そのエネルギーをさらに増幅して目的のものに集中する方法が、どうしても必要なのである。

では、クンダリニーを覚醒させ、これを使ったらいいではないか。

わたくしは、阿含経はもとより、釈尊にまつわるさまざまな伝説に至るまで、

あらゆるものを分析した結果、釈尊の成仏法には、クンダリニー・ヨーガのクンダリニー覚醒法がもちいられた形跡を発見することができなかった。(彼自身は、

85

第二章 クンダリニー・ヨーガと成仏法の真髄「四神足法」

る。 釈尊は、だれでもが実行できる修行法を教えた。一心に修行さえすれば、だれでもが成仏できる方法を教えたのである。だから、チャクラを使うことはとり入れたが、クンダリニー・ヨーガの覚醒法はとり入れなかったのである。クンダリニー・エネルギーは使ったけれども、その方法はまったくちがっていたのであ

なぜか?

クンダリニーの覚醒は、あまりにも激烈、過激すぎて、完全な脳を新しくつく

りあげるのには適切でないのである。クンダリニー・ヨーガは、人間の脳の欠陥を是正する方法ではなく、そこを通り抜けて一挙に、別次元の高度の意識領域に突入してしまう方法なのである。

これは危険すぎるし、かつ、ごく限られた特殊な人にしかもちいられない方法であった。

では、どのようにしたのであろうか?

 

 

 

 

『魂の灯火 ~四つの道を歩む者たち~』

序章 ― 表参道 禅カフェ「静庵」にて ―

 

表参道の並木道から一本奥へ入ると、都会の喧騒がふっと遠のく瞬間がある。
その細い路地に、私は初めて足を踏み入れた。

「静庵(じょうあん)」――禅と抹茶と読書をテーマにしたカフェ。
知人がSNSで紹介していたのを見て、何となく気になっていた。最近、何かを「感じたい」と思う瞬間が増えていたのかもしれない。

ガラス戸を引くと、やわらかな木の香りとお香の残り香が私を包んだ。
カウンター奥には袈裟を羽織った店主らしき人物が立ち、静かに一礼してくれた。

「おひとりですか?」

「はい。落ち着ける席をお願いします」

窓際の一席に案内され、私は抹茶ラテを注文した。店内には他に三人の客がいた。スーツ姿で黙々とノートを広げる男性。スマホを伏せて目を閉じている青年。そして、まるで何かを見透かすような瞳をした女性。

しばらくすると、店主が小さな盆に抹茶ラテと、白い短冊のようなカードを添えて運んできた。そこには手書きでこう書かれていた。

「問うべきは、心が何を欲しているか」

なぜか胸の奥がちり、とした。
私は今、何を欲しているのだろう? 成功? 恋愛? 癒し? ……いや、そうじゃない。もっと、根っこの部分で、自分を見失っている気がした。

「初めてですか?」

隣から声がした。先ほどのスーツの男性――彼は笑みを浮かべ、話しかけてきた。

「ええ。ふらっと来ただけなんですけど……落ち着きますね、ここ」

「俺も最近よく来てます。何ていうか、“ちゃんと向き合える場所”って感じで」

それを聞いて、黙っていた青年が目を開いた。

「自分から逃げたくて来てるくせに?」

「うるさいな、瑛人。お前だって……」

「僕は、“今ここ”にいるだけだよ」

言葉のやりとりは軽やかで、どこか親しげだった。

続けて、奥に座っていた女性がふっと微笑んだ。

「変わりたい、と思ってる人は、案外この場所に引き寄せられるのよ。何かの“縁”で」

私は少し戸惑いながらも頷いた。その言葉に、なぜか涙が出そうになったから。

気がつくと、四人がさりげなく同じテーブルに集まっていた。

まるで、目には見えない糸が、私たちを静かに結びつけていたかのように。

 

第一章 ― 欲神足篇:結衣の願い ―

その夜、私は久しぶりに夢を見た。

水面に揺れる灯火が、暗い湖を照らしている。
その光に導かれるように、私は静かに歩いていた。けれど、どこか不安だった。
自分が何を求めているのか、わからなかったから。

目を覚ましたのは、午前四時。窓の外はまだ夜の名残を残し、街の音も遠かった。
私はベッドの中で、禅カフェ「静庵」で読んだ言葉を思い出していた。

「問うべきは、心が何を欲しているか」

問いかけは、まるで胸の奥に沈んでいた感情を浮かび上がらせるようだった。
私は今、何を本当に欲しているのだろう?

……答えは、すぐには出なかった。
けれど、確かなのは、今の自分が空っぽだということだった。
仕事はそこそこ順調。人間関係も表面上はうまくやっている。
でも、どこかでずっと無理をしていた。

「笑っていれば、うまくいく」
「期待される通りに動いていれば、嫌われない」
そんな“装い”ばかりに、私は心をすり減らしてきたのだ。

その日、私は勇気を出して、カウンセリングルームに電話をかけた。
静庵のカードにあった紹介欄を頼りにして。

電話口の優しい声に、思わず涙がこぼれそうになった。
「あの……自分が何をしたいのか、わからないんです。毎日が、からっぽで」

予約が取れたのは三日後。その間、私は静庵に通い続けた。
小さな抹茶碗を両手で包むようにしながら、自分の内側に火を灯すように、静かに問い続けた。

「わたしは、何を本当に望んでいるの?」

ある日、店主が私の前にまた短冊を置いた。
そこには、こう書かれていた。

「欲とは業火ではない。願いの源だ」

ハッとした。
私はずっと「欲しがること」そのものを悪いことだと思っていた。
でも、本当に深いところから湧いてくる願いは、
私を焦がす炎ではなく、歩き出すための灯火なのかもしれない。

そして私は、ようやく言葉にできた。

「変わりたい。ほんとうの自分で、生きてみたい」
「誰かの期待じゃなく、自分の願いで」

その瞬間、胸の奥に小さな火が灯ったのを感じた。
それは、迷いを照らす淡くて強い光――欲神足の炎だった。

私はそれを、これから守っていこうと思った。
どんなに小さくても、自分の願いを見失わないように。

第二章 ― 勤神足篇:誠、努力が生まれるとき ―

「……正直、何のために生きてるかわかんねぇよな」
煙草をふかしながら、俺はいつもの公園のベンチに座っていた。

仕事はしてる。だけど、やる気なんてない。
同僚ともうまくやれてないし、気がつけば昼も夜もスマホで動画を流し見して終わる。
それがいつから続いていたのか、もうわからない。

ある日、会社の先輩に誘われて、気乗りしないまま入ったのが「禅カフェ・静庵」だった。
静かな音楽と抹茶の香り。最初は場違いだと思ったが、不思議と落ち着いた。

テーブルに置かれた短冊には、こうあった。

「続ける者に、力は宿る」

「続ける……か」
俺は何かを“続けた”ことが、あっただろうか?

その週、静庵の店主に声をかけられた。
「もしよければ、朝坐禅に来てみませんか? 毎週水曜、六時からです」
正直、迷った。でも――何もない毎日が変わるかもしれない、そう思った。

そして水曜の朝。眠い目をこすりながら、初めて禅堂に入った。
ただ坐る。それだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。

雑念、足の痛み、退屈、不安……
だけど不思議と、終わったあと心がスッと軽くなった気がした。

その日から、俺は毎週水曜、坐禅に通うようになった。

最初は義務感だった。でも、だんだん変わっていった。
「今週も来れた」
「今週は少し長く坐れた」
自分を少しだけ、誇らしく思える瞬間があった。

気づけば、朝の目覚ましを10分早めて、坐る習慣ができていた。
スマホの使用時間は自然と減り、食事の味に気づくことが増えた。

ある朝、禅堂の掛け軸を見上げた。

「勤めてやまずば、道は必ず開かる」

ああ、そうか。
努力って、根性じゃない。
「小さな続ける」が、自分を変える力になるんだ。

以前の俺なら、3日でやめてた。でも今は違う。
心のどこかに、静かな火が灯っている。
それは、勤神足の火――続けることの力。

俺は思った。
「まだ遅くはない。今からでも、やれることがある」
不器用でも、少しずつでも。
俺はこの道を、歩いていこうと思った。

 

第三章 ― 心神足篇:瑛人、心を“今ここ”に置く練習 ―

スマホを見ていないと、不安になる。
LINEの既読、SNSの通知、動画の更新――何もなければ心がざわつく。

電車の中でも、寝る直前まで、画面をスクロールするのが癖だった。
だけどある日、ふと気づいた。

「自分の人生を、自分で生きてない気がする」

誰かの投稿、誰かの評価、誰かの意見。
それらに埋もれて、俺はどこにいるのか、わからなくなっていた。

そんなとき、職場の同僚から紹介されたのが、表参道の「禅カフェ・静庵」だった。
初めて入った日、店の奥で流れていた音楽が妙に心に染みた。
そのとき、短冊に書かれた一文が目に入る。

「心は、今ここにしか住めない」

え……? 「今ここ」って、そんなに難しいこと?
でもその言葉が、なぜか離れなかった。

それから、静庵の「呼吸の瞑想ワークショップ」に参加してみた。
椅子に腰掛け、背筋を伸ばし、目を閉じる。
ただ「吸って、吐いて」を感じる。

……それだけなのに、気が散ってばかりだった。

「あ、さっきのLINE、返してなかった」
「明日までにあの仕事やらなきゃ」
「お腹減ってきた……」

気づけば、全然「今」にいない。

だけど、講師の女性が静かに言った。

> 「今、気づいたことが大切なんです。
>  何度でも、“今”に戻ってくればいいんですよ」

その言葉に、少し救われた気がした。

それから、スマホを置いて、毎朝3分だけ呼吸を見る練習を始めた。
最初は短かった3分が、5分、10分と伸びていった。
「今、吸ってる」
「今、吐いてる」
ただそれを意識するだけで、不思議と心が落ち着いていく。

焦りや不安が訪れても、深呼吸を一つする。
「今、ここにいる」
そう繰り返すことで、心の居場所が戻ってくるようになった。

ある日、静庵で結衣さんと話した。
彼女もまた、自分の「本当の望み」と向き合っていた。
俺たちは、それぞれ違う道を歩いているけれど、どこかでつながっている気がした。

今では、通勤電車の中でさえ、目を閉じて数秒だけ“今”を感じられる。
スマホを見なくても、目の前にある世界がちゃんと見えるようになった。

「心神足」――心を、今に定める力。
それは、僕の中の静かな軸になりつつある。

未来への不安も、過去の後悔も、
この一呼吸ではなく、ただの思考に過ぎない。

僕は、今日も呼吸する。
今、ここで。心を込めて。

第四章 ― 観神足篇:凛、観る目を持つということ ―

 

幼いころから、私は「なぜ?」が口癖だった。
世界はどうしてこう在るのか。
人はなぜ争い、そして、なぜ愛するのか。

哲学の本を読みあさり、宗教書にも手を伸ばした。
けれど、どれほど言葉を集めても、
心の底から「わかった」と思えることはなかった。

――観る目が欲しい。
真理を、ただ見つめる目が。

そんなとき、表参道の小さな禅カフェ「静庵」に導かれるように足を運んだ。
そこには、沈黙の中で呼吸する人々がいた。
言葉を超えた「見つめる力」が、場の空気に静かに宿っていた。

私は、師と呼ばれる女性に問うた。
「真理とは何ですか?」

師はただ、湯呑みの茶を一口すすり、こう言った。

> 「“今、そう問いを立てた心”を、じっと観てごらんなさい」

……意味がすぐにはつかめなかった。
でも私は、その言葉にふとひっかかった。

観るべきは外の世界ではなく、**“問いを発する自分の心”**なのか?
それから、私は「観る」練習を始めた。
瞑想の中で、自分の思考がどこから来て、どこへ行くのかを追った。
怒りが湧いたとき、その中心に何があるのかを観察した。
喜びのときも、執着があるかどうかを静かに見つめた。

それは、鏡をのぞき込むような作業だった。
そしてある日、不意に気づいた。

「ああ、私はいつも“答え”ばかりを探して、
“問いを立てた心”を観ることを忘れていたんだ」

観神足――それは、ただ“観る”。
判断せず、比較せず、評価もせず。
そのままの心、そのままの現象を、まっすぐに見つめる力。

私はそれを、今ようやく学び始めたのだ。

ある晩、静庵の縁側で、瑛人くんと話す。
彼は呼吸に心を置くことで、ようやく自分の軸を感じ始めたという。
「観る」ことと「在る」こと――ふたつの道は、どこかで交わるのかもしれない。

月の光が、水面を静かに照らす。
その揺れを、私はただ見ている。
今は、それでいい。

真理は、言葉の奥にある。
それをつかもうと焦るほど、遠ざかっていく。

だから私は、ただ観る。
沈黙の中で、問いとともに在る。

 

 

 

 

 

 

第一部「四念住」

第一部「四念住」

第二章 受念住 ― 揺れる心、たゆたう感覚

それは、ある雨の日のことであった。

小屋の屋根を打つ雨音が、単調に続いていた。外界とのすべての関係が断たれ、アーナンダは己の心とだけ向き合う静寂にあった。

彼は坐を組み、そっと目を閉じる。

「次に観ずべきは、受である」と、師バラモンは語っていた。

「受とは、感受である。喜び、苦しみ、快・不快、無関心――それらは心に生じては消える波。だが、愚者はそれを“わがもの”と思い、掴み、流される。賢者はそれを“ただの感受”と見て、手放す」

アーナンダは、その言葉を思い出しながら、心の中を見つめる。しばらく何も感じないように思えた。だが、そこに注意を集中すると、確かにあった。

――物悲しさ。
――孤独。
――そして、小さな焦り。

(ああ、わたしの中には、苦の“受”がある……)

彼は、その苦を否定せず、ただ見つめた。まるでそれが誰か他人の苦しみであるかのように。

やがて、その苦は、静かに姿を変えていった。悲しみの底にあったのは、愛だった。師への思慕、仲間への想い。だがその想いが叶わぬとき、人は苦を生じる。

「なるほど……」

次に、彼の心に過去の記憶がよぎった。師の言葉に褒められたあの日、胸が熱くなったあの瞬間。

(これが、楽の“受”)

楽しさもまた、ただの感覚。永遠には続かず、変わりゆくもの。

そして今――雨音だけが響く静寂の中で、彼の心は不思議な「中立」の感覚に包まれていた。苦しくもなく、楽しくもない。ただ、静かにそこにある。

(これが、捨受。すなわち「無記の受」……)

アーナンダの呼吸は深くなっていく。感覚が、波のように生まれては消えていくのを、ただ見守っている。

そこに、永遠なるものはなかった。

苦も楽も、「わたし」のものである必要はなかった。

それらは、ただ生じて、ただ滅する。

それが真実なのだ。

アーナンダはそっと目を開いた。雨は、いつのまにか止んでいた。雲間から一筋の光が差し込み、土の匂いが、清らかな風に混じって流れてきた。

彼はその光と香りを、ただ受け取った。歓喜もなく、拒絶もなく。

――これが、受念住。

心に生じるあらゆる感覚を、ただの“波”として見る。その深奥に、智慧の芽がひそかに宿りはじめていた。

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

ひとつの記憶が浮かび上がった。

それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

(怒り……)

彼は、その心を見つめた。

怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

アーナンダはさらに心を沈めた。

すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

(これも、また心)

欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

(では、“私”とは何なのか?)

アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

 

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

ひとつの記憶が浮かび上がった。

それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

(怒り……)

彼は、その心を見つめた。

怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

アーナンダはさらに心を沈めた。

すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

(これも、また心)

欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

(では、“私”とは何なのか?)

アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

第四章 法念住 ― 真理に目覚めるまなざし

森の夜は、深く、静かであった。
アーナンダは、灯明も持たずに、木の根元に坐った。目を閉じ、ただ己の呼吸と共にある。

この夜、彼は、ある問いを胸にしていた。

(苦しみの根は、どこにあるのか?)

思い返せば、さまざまな「感情」「思考」「記憶」が、彼を悩ませてきた。だが、それらは単なる現象ではなかったか? なぜ、人は現象に巻き込まれ、迷い、煩悩にとらわれるのか?

その答えを、師はこう語っていた。

> 「アーナンダよ、汝は“法”を観ずして、ただ感情に揺れるばかりではないか。心に生じるもの、すべては“因と縁”によって生じる。
> それを見よ――すなわち“十二因縁”の観察である。
> 無明あれば、行あり。行あれば、識あり。識より名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死……」

アーナンダは、師の言葉を胸に、その因縁の連鎖を観ていった。

――無明。
(知らぬこと、気づかぬこと。真理を見ないまま生きること)
――行。
(無明から出た衝動、業の積み重ね)
――識。
(意識が生まれ、世界と自我が目覚める)

……と連鎖は続き、やがて「老い」「死」へと至る。

(このすべてが、苦の流れ。だが、その根源は、“無明”にあったのか……)

アーナンダの心は、少しずつ沈み込んでいった。

彼はまた、五蘊にも思いを馳せた。
色・受・想・行・識――すなわち、肉体、感覚、認識、意思、意識。

(これが「わたし」だと思ってきたものは、すべて集まりでしかなかった……)

彼は、自らの心身を、「自己」としてではなく、「法」として見始めた。

喜びも、怒りも、肉体の疲労も、思い出も――すべては因縁によって一時的に現れた、無常の現象であった。
それらを掴んで「これは私」と思うことが、苦のはじまりだったのだ。

彼の心は、深い沈黙のなかで、透き通っていった。
――すべてのものは、縁により生じ、縁により滅す。
――それが、「法(ダンマ)」である。

アーナンダは、静かに息を吐いた。
彼の内なる目は、ついに「真理の流れ」を見つめはじめたのだった。

煩悩は、ただ現れては消える泡。
「我」は、それに名前を与えていたに過ぎない。

――これが、法念住。

四念住の最後にして、智慧の扉が開く一歩手前の、最も深い観照。

夜が明け、東の空が白みはじめていた。
アーナンダのまなざしには、もはや揺らぎがなかった。

 

 

四念住

四念住

 

第一部 「観る智慧」― 四念住(しねんじゅう)

【内容】

身念住(身体への気づき)

受念住(感受への気づき)

心念住(心の状態への気づき)

法念住(法=教えへの気づき)

【シーン】
アーナンダが静寂の森で坐禅を行い、呼吸・感覚・心の波・仏法の言葉に一つずつ心を向けていく。幻影に翻弄されながらも、「今ここ」に心をとどめる訓練が始まる。

第一章 身念住 ― 身に宿る無常の声

夜の静寂が、山の寺院を包んでいた。薄明の空に一番星が瞬く頃、修行僧アーナンダは静かに座を調えた。古びた木床の上、右膝を左足に重ね、背筋をただす。

――今、わたしは、この身を見つめる。

それが、師から与えられた第一の課題、「身念住」であった。

呼吸が、音もなく出入りする。だが心は落ち着かない。修行を志してから幾度も坐禅を組んできたが、「自らの身体を見つめよ」という言葉は、どこか曖昧だった。

「身体は無常である。ただの肉と骨である。そのように観ぜよ」と、師バラモンは言った。

アーナンダは目を閉じる。耳の奥で鼓動が聞こえる。喉の奥で唾を飲み込む音がする。背筋がわずかに軋む――そのたびに、彼の心が反応する。

「これは“私”なのか?」

その問いが、胸にのしかかる。

彼は呼吸に意識を向けた。息は入って、出ていく。だがその一呼吸ごとに、微細な感覚が身体の中を走る。痛み、熱、かすかな痒み――それらはまるで、自分のものではないように現れては、消えていく。

(この身は、思うままにはならぬ……)

次第に、意識の奥底で何かが変わり始める。

かつて、彼は若き日の己を思い出す。剣術を学び、身体を誇ったあの頃。だが、今はどうだ? 肉は痩せ、骨は軋む。老いと病の影は誰にも訪れる。命ある

それが、身である――

「これが、身念住……」

その瞬間、アーナンダの心に、静かな覚醒が差し込んだ。身体とは、所有するものではない。ただ五蘊の一部、借り物にすぎない。わたしという幻を支える土台でありながら、実体はない。

小さく、だが確かな光が、心の中心に灯った。

風が、襖をわずかに揺らした。

外では、夜が静かに明けようとしていた。

 

第二章 絶え間なき歩み(精進神足)

朝日の光が山の稜線を染め始めるころ、アーナンダはすでに林の中で歩を進めていた。
昨日の疲れなど感じさせぬ足取りは、まるで風のように軽やかだが、どこか確かな力強さを秘めていた。

彼の胸にあるのは、「精進神足」――
絶え間ない努力と持続する意志の力である。

「修行はただの一時の熱情ではない。
毎日、毎瞬、繰り返し歩み続けることが真の力となるのだ」

師の教えを反芻しながら、アーナンダは己の心の弱さと向き合っていた。

数日前、修行の道で幾度となく挫けそうになった夜のことを思い出す。

疲れから坐禅中に意識が薄れ、雑念に心を奪われた。
そのたびに、「もういいや」と諦めかけた自分を、必死に叱咤した。

「ここで止まれば、どこにも辿り着けない――」

そんな葛藤のなかでアーナンダは気づいた。

修行の本質は、完璧であることではない。
転んでも、何度でも立ち上がること。

その繰り返しが、やがて揺るぎない力となるのだ。

今日も彼は、森の奥の小さな清流のほとりで、黙々と呼吸を整え、坐禅に入った。

流れる水音が心の乱れを洗い流し、呼吸は徐々に深く、静かに整っていく。

「努力こそが、道の光。
走り続ける者にのみ、光は道を照らす」

彼の心に、師の言葉が再び響いた。

日が傾き、夕暮れの風が肌を撫でるころ、アーナンダは新たな決意を胸にした。

「どんなに困難でも、必ず進み続けよう。
その一歩一歩が、未来の智慧を紡ぐのだ」

 

第三章 受念住 ― 揺れる心、たゆたう感覚

それは、ある雨の日のことであった。

小屋の屋根を打つ雨音が、単調に続いていた。外界とのすべての関係が断たれ、アーナンダは己の心とだけ向き合う静寂にあった。

彼は坐を組み、そっと目を閉じる。

「次に観ずべきは、受である」と、師バラモンは語っていた。

「受とは、感受である。喜び、苦しみ、快・不快、無関心――それらは心に生じては消える波。だが、愚者はそれを“わがもの”と思い、掴み、流される。賢者はそれを“ただの感受”と見て、手放す」

アーナンダは、その言葉を思い出しながら、心の中を見つめる。しばらく何も感じないように思えた。だが、そこに注意を集中すると、確かにあった。

――物悲しさ。
――孤独。
――そして、小さな焦り。

(ああ、わたしの中には、苦の“受”がある……)

彼は、その苦を否定せず、ただ見つめた。まるでそれが誰か他人の苦しみであるかのように。

やがて、その苦は、静かに姿を変えていった。悲しみの底にあったのは、愛だった。師への思慕、仲間への想い。だがその想いが叶わぬとき、人は苦を生じる。

「なるほど……」

次に、彼の心に過去の記憶がよぎった。師の言葉に褒められたあの日、胸が熱くなったあの瞬間。

(これが、楽の“受”)

楽しさもまた、ただの感覚。永遠には続かず、変わりゆくもの。

そして今――雨音だけが響く静寂の中で、彼の心は不思議な「中立」の感覚に包まれていた。苦しくもなく、楽しくもない。ただ、静かにそこにある。

(これが、捨受。すなわち「無記の受」……)

アーナンダの呼吸は深くなっていく。感覚が、波のように生まれては消えていくのを、ただ見守っている。

そこに、永遠なるものはなかった。

苦も楽も、「わたし」のものである必要はなかった。

それらは、ただ生じて、ただ滅する。

それが真実なのだ。

アーナンダはそっと目を開いた。雨は、いつのまにか止んでいた。雲間から一筋の光が差し込み、土の匂いが、清らかな風に混じって流れてきた。

彼はその光と香りを、ただ受け取った。歓喜もなく、拒絶もなく。

――これが、受念住。

心に生じるあらゆる感覚を、ただの“波”として見る。その深奥に、智慧の芽がひそかに宿りはじめていた。

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

ひとつの記憶が浮かび上がった。

それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

(怒り……)

彼は、その心を見つめた。

怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

アーナンダはさらに心を沈めた。

すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

(これも、また心)

欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

(では、“私”とは何なのか?)

アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

 

第四章 法念住 ― 真理に目覚めるまなざし

森の夜は、深く、静かであった。
アーナンダは、灯明も持たずに、木の根元に坐った。目を閉じ、ただ己の呼吸と共にある。

この夜、彼は、ある問いを胸にしていた。

(苦しみの根は、どこにあるのか?)

思い返せば、さまざまな「感情」「思考」「記憶」が、彼を悩ませてきた。だが、それらは単なる現象ではなかったか? なぜ、人は現象に巻き込まれ、迷い、煩悩にとらわれるのか?

その答えを、師はこう語っていた。

> 「アーナンダよ、汝は“法”を観ずして、ただ感情に揺れるばかりではないか。心に生じるもの、すべては“因と縁”によって生じる。
> それを見よ――すなわち“十二因縁”の観察である。
> 無明あれば、行あり。行あれば、識あり。識より名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死……」

アーナンダは、師の言葉を胸に、その因縁の連鎖を観ていった。

――無明。
(知らぬこと、気づかぬこと。真理を見ないまま生きること)
――行。
(無明から出た衝動、業の積み重ね)
――識。
(意識が生まれ、世界と自我が目覚める)

……と連鎖は続き、やがて「老い」「死」へと至る。

(このすべてが、苦の流れ。だが、その根源は、“無明”にあったのか……)

アーナンダの心は、少しずつ沈み込んでいった。

彼はまた、五蘊にも思いを馳せた。
色・受・想・行・識――すなわち、肉体、感覚、認識、意思、意識。

(これが「わたし」だと思ってきたものは、すべて集まりでしかなかった……)

彼は、自らの心身を、「自己」としてではなく、「法」として見始めた。

喜びも、怒りも、肉体の疲労も、思い出も――すべては因縁によって一時的に現れた、無常の現象であった。
それらを掴んで「これは私」と思うことが、苦のはじまりだったのだ。

彼の心は、深い沈黙のなかで、透き通っていった。
――すべてのものは、縁により生じ、縁により滅す。
――それが、「法(ダンマ)」である。

アーナンダは、静かに息を吐いた。
彼の内なる目は、ついに「真理の流れ」を見つめはじめたのだった。

煩悩は、ただ現れては消える泡。
「我」は、それに名前を与えていたに過ぎない。

――これが、法念住。

四念住の最後にして、智慧の扉が開く一歩手前の、最も深い観照。

夜が明け、東の空が白みはじめていた。
アーナンダのまなざしには、もはや揺らぎがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

七科三十七道品の修行

釈尊が残した霊性完成の修行法、七科三十七道品の修行は、これを全部、修行しなければならないというものではない。三十七種の修行法の中には、おなじような修行法が、重複してかかげられているのである。

これは、おそらく、釈尊が、弟子たちそれぞれの能力や才能に応じて課されたものであろう。

たとえば、五根や五力などは、その中に、最初に「信」を置いているが、 「信」は、智慧の低い初歩の者のために、理論をもちいないで、ひたすら仏陀や指導者を信ずることによって修行に励ましめるものであるから、五根・五力は初歩の者に説かれたものであろう。また七覚支などは、その中に禅定に関する法が多くのべられているから、かなり高度の修行者に教示されたものと思われる。

ただ、阿含の根本聖典では、「四念住法」「四神足法」の修行が、いずれも「一乗道」であるとされているのは、注目すべきである。「一乗道」とは、その法の修行だけで、究極の境界、涅槃に到達し、成仏できる道のことである。 ニルヴァーナ

わたくしの体験をのべるならば、最初に四念住法で「四諦の法門」を体得

し、ついで七覚支法で最高度の禅定を体得し、最後に四神足法の習練に入って、 神通力を得た。わた

し、ついで七覚支法で最高度の禅定を体得し、最後に四神足法の習練に入って、 「神通力を得た。わたくしには師はなく、自然にそのようになった。ただただ、神仏のご加護であると感謝している。

成仏法奥義————八科四十一道品

釈尊が教えた成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。

しかし、凡夫が成仏して仏陀になるということ自体、たいへんな奇蹟というべきではないか。それは、大神通力を持ってこそ、はじめてなし得る業である。平凡な人間が、平凡のままパッと仏陀に変身するわけではない。その修行課程において、修行者は、通力・神通力大神通力が身にそなわるのである。

ここで、わたくしの秘伝をのべよう。

「それは、大神通力を得て成仏するためには、アビグルマ仏教の論師たちがま

とめた「七科三十七道品」だけでは完全ではない、ということである。

もうひとつ、絶対に必要な法がある、ということである。

わたくしは、この法を加えて、成仏法を「八科四十一道品」とする。

それは、つぎのようになる。

四念住法

四正断法

四神足法

五根法

五力法

七党支法

八正道法

である。

四安那般那念法は、つぎの四法から成る。

勝止息法 奇特止息法

上止息法 無上止息法

である。

では、その「安那般那念法」とはどういう法なのか?

この中の、「奇特止息法」という文字に目をとめていただきたい。

『佛教語大辞典」によると、こうある。

【奇特】 特に異なっていること。不思議なこと。奇蹟。

つまり奇特止息法とは、奇蹟を起こす力をあたえる特異な禅定法なのである。

この四つの法は、すべて、奇蹟 大神通力をあたえる特殊な法なのである。

では、その奇蹟とはなにか? 大神通力とはなんであろうか?

・それは「因縁解脱力」である。

因縁解脱こそ宇宙最高の奇蹟ではないのか。自分を変え、世界を変える、これ以上の奇蹟があるであろうか?

そして、この奇蹟の因縁解脱をなしとげる、因縁解脱力こそ仏法最高の大神通力なのである。したがって、この四つの法は、因縁解脱をして成仏する大神通力をあたえる法なのである。

わたくしは、この四つの法は、四神足法の中の、「観神足法」とおなじであると考えている。というよりも「観神足法」、あるいは「四神足法」そのものの具体的な説明・解説になっているのではないか、と思っているのである。そこで、アビダルマ仏教は、この四安那般那念法を、(わざわざ一科目立てることをせ

ず)七科三十七道品の中に入れなかったのではないかとも考えられるが、しか

輪転生联想法

 

 

三善根 ― ある老僧の教え

三善根 ― ある老僧の教え

風が梵鐘の音を運んでくる午後、若き修行僧・慧真(えしん)は、山寺の縁側で古びた経巻を閉じた。瞳に浮かぶのは迷い。なぜ、どれほど修行を重ねても、心に満ちる安らぎが得られないのか。

「師よ、私は幸せになりたいと願っております。ただ、それがどこにあるのか、わからなくなりました」

その問いに、年老いた僧・日融(にちゆう)は静かに微笑んだ。そして、炎のように赤く染まる夕日の方を見やりながら口を開いた。

「慧真よ、福とは、ただ天から降るものではない。種をまかねば実はならぬ。稲も、水も、光も、土もなければ育たぬのと同じだ」

慧真は眉をひそめた。「では、その“種”とはなんでしょうか?」

日融はゆっくりと立ち上がり、棚から一巻の古文を取り出した。それは金泥で書かれた経典であった。日融はその一節を読み上げた。

「『如来の所に於て功徳を種う。此の善根腐尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず』――これは、三善根と呼ばれる修行の教えだ」

「三善根……」

「そうだ。如来のもとで、正法の中で、聖衆との関係の中で、功徳を積む。それが三福道とも言われ、出世間の福、すなわち真の幸福を得る三つの道なのだ」

「如来のもとで功徳を積むとは、どういうことでしょうか?」

「仏に帰依し、その教えを信じ、心から仏恩を感じることだ。礼拝、供養、感謝――それらは徳の種をまく行いとなる。仏は何も要求しないが、敬う心そのものが人を変えるのだ」

「正法において功徳を積むとは?」

「正しき教えを聞き、それに生きることだ。戒を守り、清らかな言葉を用い、怒りに染まらぬ心を持て。法を知る者は、その徳により自らを清める」

「では、聖衆とは?」

「共に道を歩む僧や在家の者たち、あるいは仏道に励むすべての仲間のことだ。他者に施し、支え、共に修める。それこそが第三の功徳だ」

慧真の瞳が、次第に輝きを取り戻してゆくのを、日融は見逃さなかった。

「世の人々は“幸せになりたい”と口では言う。だが、福をもたらす徳を積むことはしない。ただ願っているだけでは、福は来ぬ。福は徳から生まれ、徳は心と行いから生じる。三善根こそが、幸いの根だ」

慧真は深くうなずいた。そして、再び経巻を開く。今度は、読むためではない。生きるために、その言葉を自らの魂に刻むために。

徳の種をまく者

それから幾日かが過ぎたある朝、慧真は本堂の裏手にある小さな畑で、黙々と土を耕していた。竹籠には数珠と阿含経が入っている。だが今日は読経ではない。彼は、日融に言われたのだ。

「経を読むだけが修行ではない。手を動かすこともまた功徳だ」

鍬を握る手はまだ慣れておらず、泥だらけになってはいたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。

「種をまけば、やがて芽吹く。人の心も同じじゃ」

背後から聞こえた声に振り返ると、日融が木の枝に止まる小鳥を指していた。

「見なさい。あの鳥が鳴くのも、誰かの徳になる。やさしい音を聞けば、人は怒りを忘れることもある。功徳は、かならずしも大きなことから始まるのではない。むしろ、小さなことにこそ宿るのだよ」

慧真は汗をぬぐいながら問うた。

「師よ、では、私のこの耕しも、功徳となるのでしょうか」

「もちろんだ。だが、心が伴っていなければ、ただの作業となる。たとえ同じ行為でも、どのような心で行うかが、徳の深さを決めるのだ」

日融はそっと草の葉を摘み、手のひらに乗せた。

「如来のもとで功徳を積むとは、自分を超えたものへの感謝と敬いを生きること。正法において功徳を積むとは、自らの行いを律してゆくこと。そして、聖衆において功徳を積むとは、他者を尊び、支えること。お前の耕すこの畑が、皆の糧となるなら、それは立派な“第三の功徳”じゃよ」

慧真はその言葉に、初めて「喜び」という花が心に咲いた気がした。

日が高くなるころ、一陣の風が山中を通り過ぎた。その風は、ただ涼しさを運ぶだけではない。どこか、慧真の心の奥底――幼きころから持ち続けていた「何か足りない」という渇きに、少しずつ水を注いでいるようだった。

日融は言った。

「徳を積めば、福は生まれる。福は、自らの幸せとなり、やがて他の者を照らす光となる。やがて、その光が、また新たな種を育むのだ。お前はその輪を紡ぐ者になりなさい」

慧真は深く合掌し、微笑をもって言った。

「はい、師よ。私は、徳の種をまく者になります」

衆生の中へ ― 徳を灯す旅立ち

山を降りる朝、慧真は、かつての自分の姿を思い出していた。

――「幸せになりたい」と叫びながらも、徳を積むことの意味を知らなかった日々。

今、その問いに一つの答えを得た彼は、師・日融の見送りを受けながら、袈裟をたたみ、下山の支度を整えていた。

「慧真よ、これからは世の中で生きなさい。そこには迷いも欲も苦しみも渦巻いている。だが、それこそが真の修行の場だ」

「はい、師よ。三善根の道を、衆生の中で行じてまいります」

日融はひとつだけ、木の実を慧真の掌に置いた。

「これは徳の種。だが、それを実らせるのはお前の行いだ」

慧真は深く頭を下げ、里へと足を踏み出した。