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Mac

息の奥にひそむもの

息の奥にひそむもの

庵の奥、朝の霧がまだ地を這っているころ。
若き修行者トウマは、蓮座の姿勢で静かに坐っていた。

「息を聴け」

かつて師がそう語ったとき、トウマはただ肺に出入りする空気を思い浮かべていた。
けれど、時が経ち、いくつもの夜を越えた今――ようやく、その意味が少しずつ、骨の奥にしみ入ってきた。

「息とは、ただの空気ではない」

トウマの中に、師の声が蘇る。
それは、「身の行息・入息」から始まり、「身の行息・出息」へと流れゆく、ひとつの旅のようだった。

身体のすみずみへと、息は巡っていく。
けれど、息が本当に目指しているのは、もっと奥深い場所――心だ。

「心の行息・入息」

「心の行息・出息」

脳の奥、ひらかれた沈黙の部屋に、ひと筋の気息が流れこんでいく。
チャクラ。
師がその名を口にしたとき、トウマにはまだ、それがどこにあるのか分からなかった。
だが今は、明確に感じる。前額に微かな脈動。喉奥に浮かぶ渦。胸に宿る静けさ。
そこに、気が集まっていく。

呼吸とは、単なる生理現象ではない。
それは、「気」であり、「息」であり、生命そのものを導く流れだ。
ヨーガの教えが語るように、息には“生気”がともなう――プラーナと呼ばれる、不可視の力。

トウマの内に、さらに深い呼吸がはじまる。

「心の解脱入息」
「心の解脱出息」

ああ――
この息は、心の縄をほどく。

想念がほどけ、煩悩が消えていく。
苦しみの芯が、ふっと抜けていくような感覚。
呼吸が深まるたびに、自我の輪郭が薄れていく。

そして、ついに訪れる。

「滅入息」
「滅出息」

もはや「自分が息をしている」という感覚すらない。
ただ、息だけが在る。
宇宙の静けさと同調した一呼吸が、トウマの身と心をすっかり包み込む。

気息は、最後に完全なる静けさへと至る。

「身止息」
「心止息」

動きは消えた。
息は止まった。
けれど、死ではない。
それは、あらゆる生命の“根”に触れるような、言葉にできぬ体験だった。

**

庵の外で、鳥が一声鳴いた。
トウマは、ゆっくりとまぶたを開けた。

世界は変わっていなかった。
だが、自分の「息」は――もう、あの頃の息ではなかった。

彼は知ったのだ。

「息」の奥に、仏の道があることを。

 

脳の解脱——サハスラーラの門》

《脳の解脱——サハスラーラの門》

彼は静かに座していた。夜明け前の微かな光が、閉じたまぶたの奥に滲んでいる。世界がまだ目覚める前、彼の内側ではすでに“進化”の炎が灯っていた。

これは単なる瞑想ではない。
これは、脳の奥深くに潜む“獣”――ウマとワニを、解き放つ儀式だ。

原始の衝動、逃走と攻撃、快楽と恐怖。それらを生む“旧い脳”を手放すことで、彼は新たな段階へと歩み出す。
額の奥、アージュニャー・チャクラが、わずかに震えを帯びて開き始めた。
それは“知”と“直観”を統べる門。視床下部を超え、深奥にある“新皮質”の先にまで意識が届くよう、神経の橋を架ける工程だ。

この修行は、準備に過ぎない。
その先に待つのは――滅尽定。

呼吸を手放し、思考をも超える。
サハスラーラ・チャクラが静かに回転を始めたとき、彼の魂はすでに形を脱し、“空”の入口に立っていた。

気息が止まり、時間が消え、
彼は“無”へと溶けていく。

それは死ではない。
それは、生の奥に潜む、完全なる沈黙の目覚め。

脳の進化はここに極まる。
ウマも、ワニも、もういない。

あるのはただ、“一”なるものと結ばれた、
真の存在だけだった。

 

第五章 滅尽定――語られざる光の岸へ

1 息の止む門

深山の庵(いおり)。
トウマは夜半、最後の松明を吹き消した。
闇が、呼吸のように静かに降りてくる。
――まず、長くやわらかな息。ついで、かすかな脈動。
やがて鼓動さえ物語の外へ退き、
「聴く者」も「聴かれるもの」も同時に消えていく。

意識の輪郭がほどけるとき、
彼は一羽の鷺(さぎ)が水面に映らず飛ぶのを見た。
それは象徴でも幻でもなかった。
ただ、「象(かたち)」を必要としない合図――
滅尽定への扉が、音もなく開いた印だった。

2 無でも空でもない領域

時間は刹那ごと蒸発し、
空間は残光のない灯火のように溶ける。

しかし「無」ではない。
微かな「在る」が、在るとも言えぬ純粋さで
――声なき透明の雷鳴のように――
どこでもなく到りつづけている。

そこには「観る者」も「観られるもの」もなく、
ただ、“法”(ダンマ)が自らを示さずに示す。
名を呼べば即座に遠ざかり、
言を絶てば無窮に迫る光。

トウマは“私”を失いながら、
「失った」と認識する主体も同時に失う――
それが滅尽定の核心だった。

3 帰還──透明な世界

朝鳥の羽ばたきが遠くに揺れたとき、
最初に戻ったのは、
胸奥をかすかに打つひとつの脈だった。

鼓動、呼吸、肌の冷たさ――
世界が静かに色を取り戻す。
だが、戻ってきたのは以前の世界ではない。

木々のざわめきは言葉より澄み、
露の光は因果の網そのものの輝きとして映る。
煩悩の影は探しても見当たらない。
代わりに、ものごとの縁起が
透けた水脈として心を流れつづける。

4 師との対話

庵の門前。
師・霊峯(れいほう)は薪割りの手を止め、
戻った弟子を見て静かに笑う。

師「何を得たか。」
トウマ「――得るべきものがなかったと知りました。」
師「では、何が残った。」
トウマ「残るとも言えぬ“光”。
名づければ逃げ、黙すれば満ちる、
そんな気配だけが。」
師「それを携えて生きよ。
滅尽定は終わりではなく、
煩悩なきまま世を照らす “はじまり” だ。」

トウマは掌を見つめる。
そこに置かれた一枚の枯葉が、
宇宙と同じ静寂で脈打っていた。

5 そして旅はつづく

庵を離れる朝、
霧の谷に日が差し込む。
世界は昨日と同じ形をして、
しかし昨日より限りなく軽い。

トウマは歩き出す――
滅尽定から授かった、
名もない光を灯籠のごとく胸に抱きながら。

次に向かうのは、
「無色界よりもさらに彼岸」と伝えられる
“空性の曼荼羅”――
そこに待つものを確かめるために。

*あとがき的メモ
本章では

滅尽定に入る瞬間を五感の消滅として、

「無」でも「空」でもない領域を言語の外側で仄見せし、

帰還後の変容を世界の透明感で示し、

師弟の短い対話でその意味を余韻として残しました。

ご要望に合わせ、物語で描ける限界ぎりぎりの“体験”を詩的に掬い取っています。
さらに深い探求や、トウマの次なる旅路も続編としてお手伝いできますので、またお声がけください。

 

最上深秘の呼吸法

じんび

最上深秘の呼吸法

である。

つぎに、釈尊は、四つの最上深秘の呼吸法を説いている。

勝止息

奇特止息

上止息

無上止息

釈尊は、経典で「この四つの呼吸法は、すべての呼吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である」とのべている。(雑阿含経・止息法)

この呼吸法が、なぜ最上深秘のものであるのかというと、この呼吸法はもっぱら、脳を対象としたものであるからだ。脳のチャクラを動かし、脳の神経経路を改造し、ことに、脳に特殊な能力を持たせる呼吸法であるからである。

呼吸法、といっているけれども、単なる呼吸作用のコントロール法ではなく、

めぐナデイ行らす、というからには、行らす“道”がなければならない。その道が “気道”である。

このあとで説く「チャクラ」「プラーナ」「クンダリニー・エネルギー」「気道」

「ムドラー」「瞑想」「マントラ詠唱」など、すべての技法を総合しておこなわれ

るもので、釈尊の成仏法の最終段階のものである。この四つの呼吸法(くり返し

ていうが、単なる呼吸法ではない)で、釈尊の成仏法は完成されるのである。

この呼吸法については、またあとで説く。

ナデイ仏陀の気道の法

前の節を読まれたら、だいたいおわかりであろう。

ナディ釈尊も、四神足法において、やはり、気道をもちいていたのである。

めぐ行息 気息を行らす

ただし、釈尊の気道は、クンダリニー・ヨーガの気道とはかなりちがうもので

ナデイ

ある。それは、クンダリニー・ヨーガの気道の欠陥、欠陥というより不十分な部分、を補足したものといってよいだろう。

なぜ、そういうことがいえるのか?

わたくしは、仏陀の行息法がのちに中国に渡って、道教の仙道になっていったものと考えるのである。すなわち、道教の修行の原点は、釈尊の成仏法にあるの

である。 ないきぎようか

道教の基本的修行に、「内気の法」というのがある。また、「行気の法」がある。これらは、阿含経に説かれている仏陀の「行息の法」にほかならない。

あかし道教が、釈尊の成仏法を受けついでいると断定するひとつの証として、つぎのようなことがあげられる。

にいわんいまいった道教の内気の法の気道に、泥丸という部位がある。頭頂にあってクンダリニー・ヨーガでは、サハスラーラ・チャクラにあたる部位で、道教でも最

高の悟りの部位になっている。

この泥丸という名称はどこから来たのか?

 

ろう。 釈尊の成仏法の修行法を、いま、如実に知ることは至難の業である。それはごく、わずかに、阿含経の中に散在するにすぎず、不可能に近いといっていいであ

たものである。 これは、釈尊が説く「涅製」すなわちニルヴァーナを音写したものなのである。この部位を目ざめさせると、涅槃に到達するというところから、名づけられ

釈尊の修行法と、クンダリニー・ヨーガ、そして道教、との関連を語るものにほかならず、たいへん興味深いものといえよう。このほかにも、いくつか、これに類した例をあげることができる。

もちろん、道教の気道の法が、すべて仏陀の気道の法そのままだというのではない。仏陀の気道の法を受けついで、さらに道教独特のものに発展させていったということである。原型が釈尊にあり、釈尊にさかのぼることができるというのである。そしてそれはまた、同時に、クンダリニー・ヨーガにもかかわってくるということになる。

 

アーガマしかし、クンダリニー・ヨーガと道教の修行法を、阿含経の中にある釈尊の修行法と対照しつつ実践を重ねていくと、おのずから髣髴と浮かんでくるものがあれんまほうふつるのである。そしてさらに体験を重ね、錬磨し、修行を積んでいくと、突然、 めきとともにかたちをあらわしてくるものがある。 06 閃

わたくしは、三十にして仏道に志し、以来、ひとすじに釈尊の成仏法を求めつづけ、ようやくこれをほぼ復元し、体得したと確信するに至った。

 

 

 

仏陀の Ānāpāna の法

仏陀の Ānāpāna の法

ナーパーナ釈尊の修行法の中心である安那般那について、最もくわしく説いた経が雑阿含経にある。

是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まいたまえ比丘の安那般那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習するに多く修習し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足すと為す。是の比丘、若し聚落城邑に依りて止住し、晨朝に衣を着け鉢を持ち、村に入りて乞食するに善く其の身を護り、諸

り。爾の時世尊、諸の比丘に告げたまわく「安那般那の念を修習せよ。サ

の根門を守り善く心を繋けて住し、乞食し已つて住処へ還えり、衣鉢を挙げ

足を洗い已って或は林中の関房の樹下、或

は空露地に入りて端身正坐し、念げんぼう

 

を繋けなば面前、世の貪愛を断じ欲を離れて清浄に、瞋恚・睡眠・悼悔・

疑・断じ、諸の疑惑を度り、諸の善法に於て心決定することを得、エ悩の心に於て慧力をして膨らしめ、障礙の分と為り、涅槃に趣かざるを遠離

し、内息を念じては念を繋けて善く学し、外息を念じては念を繋けて善く学し、息の長き息の短き、一切の身の入息を覚知して一切の身の入息に於て善

く学し、一切の身の出息を覚知して一切の身の出息に於て善く学し、一切の

身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於て善く学し、一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身の行息・出息に於て善く学し、喜を覚

知し、楽を覚知し、身行を覚知し、心の行息・入息を覚知して心の行息・入息を覚知するに於て善く学し、心の行息・出息を覚知して、心の行息・出息

を覚知するに於て善く学し、心を覚知し、心悦を覚知し、心定を覚知し、心の解説入息を覚知して、心の解説入息を覚知するに於て善く学し、心の解脱

出息を覚知して、心の解脱出息を覚知するに於て善く学し、無常を観察し、

断を観察し、無欲を観察し、滅入息を観察して、滅入息を観察するに於て善

 

入外

内息息

外日

く学し、滅出息を観察して、滅出息を観察するに於て善く学する。是れを安

那般那の念を修するに身止息し心止息し、有覚、有観ならば寂滅、純一にして明分なる想の修習満足せりと名づく」と。仏此の経を説き已りたまいしに

諸の比丘、仏の説かせたもう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

すそくかんこれまで、安那般那は、「数息観」の呼吸法を説いたものであるとされてきた。

あなはなねん (雜阿含経「安那般那念経」)

決してそうではないのである。安那般那は単なる呼吸法ではないのである。こしんずいこには、成仏法の中心である四神足法の真髄が説かれているのである。

まず、この経に説かれている呼吸法を見てみよう。

身の行息・入息

身の行息・出息

心の行息・入息

心の行息・出息

心の解脱入息

心の解脱出息

滅入息

滅出息

身止息

心止息

じつに十五種類の呼吸法が説かれているのである。こんな短い経典

内息

類もの呼吸法が説かれているのだ。いとも簡潔に呼吸法の項目だけがならんでい

るが、それは、この講義を聴聞した修行者たちが、みな、これらの呼吸法に熟達した者ばかりで、いちいち、その内容について説明する必要がなかったからであろう。

そこで、

ここで注意しなければならないことがある。

そくそれは、「息」の解釈である。

こきゆうこれを、単なる呼吸と解釈してしまってはいけない。

これは、「呼吸」であるとともに、生気をし に、生気をともなった息、すなわち、 いき すなわち、いうならば「気・息」をもあらわしているということである。これは、インドにおける

ヨーガの特徴である。

ざっと解釈してみよう。

外息

る。 これは、気息、すなわち、生気を息とともに、体の隅々にまで行らすことであ

じん身の行息・入息

じん身の行息・出息

人息

出息

行息

これは、深い修行に入るにあたっての、心身調節の呼吸法である。

じんめぐこれは、身において気息を行らすこと。すなわち体の特定の場所に気息を行らしていくことである。特定の場所とはどこか? チャクラだ。

 

しん

心の行息・入息

心の行息・出息

これは、心において気息を行らすこと。

この「心」というのは、端的にいって、脳のことである。思念する心は、脳にあるからである。脳の特定の場所に気息を行らしていくのである。特定の場所と

はどこか? チャクラである。

ここでこの「行らす」という言葉に留意していただきたい。

身止息 身において気息を止念す。

心止息心において気息を止念す。

気息を、身と心に止め、念ずるのである。

身と心の、どこに止め念ずるのか? いうまでもなく、それはチャクラしかないのではないか。

体と脳のチャクラに止め念ずるのである。

 

心の解脱入息

心の解脱出息

滅入息

滅出息

脳のチャクラ、アージュニャーとサハスラーラの開発作業である。脳におウマとワニの部分の消滅・解脱作業ともいうべきもの。同時に視床下部と新とをつなぐ神経回路を補強する予備的作業でもある。要するに、古い脳を! に進化させる作業だ。

めつじんじようサハスラーラ・チャクラを動かし、滅尽定に入る修行である。気息・思介てを超越した境地に入る。

輪転生連想の呼吸

「輪転生連想の呼吸」

 深い森に抱かれた山中の庵。その一室に、若き修行者レンは静かに膝をついていた。窓から差し込む光が、畳に淡く揺れている。

「レン、よく来たな。今夜から、おまえに“輪転生連想の呼吸”を授けよう。」

 師である蒼玄(そうげん)は、いつもと変わらぬ静けさでそう言った。だが、その声の奥には、秘められた深淵の響きがあった。

「四つの呼吸。いずれも、魂の記憶を揺さぶり、輪廻の彼方に通じる息だ。いいか、一つずつ伝える。」

 師は焚火の音に重ねるように、語り始めた。

一つ目は、長出入息呼吸法(ちょうしゅつにゅうそく)。」

 レンの隣で、師がゆっくりと息を吐いた。それは、まるで風が草原を撫でるような静けさだった。

「出す息、入れる息。その両方を、できる限り細く、長く、深く。ひと息で二十秒、いや、三十秒、一分にも及ぶこともある。呼吸の波に、己の心を沈めよ。息が細くなるほど、記憶が浮かび上がる。」

二つ目は、長出息呼吸法。

 師は深く息を吸い、そして、ふたたび静かに――だが驚くほど長く、息を吐き続けた。

「この法では、吐く息だけに意識を集める。吸う息は自然に任せよ。ただ、吐く。細く、細く、ひたすらに長く。過去の因縁が、吐く息に溶けて流れてゆくのを、感じてみよ。」

三つ目は、反式(はんしき)呼吸法。

 今度は、師の腹に意識が集まった。

「ふつうの呼吸とは、逆だ。吸うときには腹を引っ込め、吐くときにはふくらませる。これにより、身体の内側――とくに“下丹田”が活性化される。天地を逆に観るようなものだ。錯覚が覚醒を促す。」

 レンは驚きながらも、師の呼吸に同調しようと腹を動かした。

四つ目。これが“火の呼吸法”、強短息呼吸法(きょうたんそく)だ。

 師は右の鼻を指で閉じ、左の鼻で鋭く、短く、何度も連続して息を出し入れした。空気が震え、炎が揺らぐようだった。

「鼻孔を片方ふさぎ、もう片方で、強く短く息を繰り返す。まるで火花のような呼吸だ。魂を燃やし、無意識を突き破る。激しさの中に、真の静寂がある。」

 すべての説明を終えると、蒼玄は目を閉じた。

「レン、この四つの呼吸を極めたとき、おまえは“輪転生”の核心に触れるだろう。己が何者であり、いずこへ向かうかを、息の中で知るのだ。」

 その夜、庵の外では風が止み、星々が息を潜めていた。レンは静かに座し、初めての長い息をゆっくりと吐き始めた。

 ――呼吸とともに、彼の旅が始まった。