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普賢 ― 白象に乗る静かな守護者

普賢 ― 白象に乗る静かな守護者

朝霧がゆっくりと庭を満たすころ、一人の修行僧が古びた経蔵の扉を開いた。墨の香りがまだ残る経巻の間に、ふと金色の光が差し込んだように見えた。
それは錯覚ではなかった。空気は柔らかく震え、静寂の中にどこか深い慈悲の鼓動が漂う。

――普賢菩薩。

古来より、「あらゆる点で優れている者」と讃えられる存在。
白く輝く六牙の象に乗り、釈尊の右に寄り添う守護者。
その姿を思うだけで、僧の胸には言葉にならぬ安堵が広がっていった。

彼は文殊が象徴する「智慧」に並び、行いを体現する菩薩であるという。
経巻「法華経」の最後、普賢菩薩は静かに誓う。

――法を守り、修行者を護り、倒れかけた心に再び灯をともすと。

その誓願は、時を越えてなお脈打ち、現代の迷いに沈む人々にも届き続けている。

心を凪へ導く者

修行僧は目を閉じ、胸の奥に渦巻く焦りや恐れを見つめた。
それらは影のように形を変え、思考を曇らせる。

そのとき、耳元で風がそっと囁いた。

「恐れるな。心は湖のように澄み渡る。」

まるで普賢菩薩が語りかけているようだった。
僧の呼吸は自然と整い、揺れていた心は徐々に静けさへと帰っていく。

智慧の道をひらく光

日々の問い、迷い、選択。
僧は何度も立ち止まり、自分の未熟さに落胆した。

しかし、白象の背に座す菩薩は言う。

「学びを恐れる者は、智慧へ至らぬ。
だが、学ぼうと歩む者はすでに道の上にいる。」

その言葉に、僧の中に小さな火が灯る。
理解はすぐに得られなくとも、歩む限り光は消えない――そう信じられた。

身体と生活を包む慈悲

普賢菩薩の慈悲は、心だけではないという。
病に苦しむ者には癒しを、疲れた者には安らぎを。
家族を抱える者には繁栄を、迷う者には希望を。

それは奇跡のようだが、普賢の加護とは外から与えられる奇跡ではなく、心の底に眠る力を目覚めさせる導きなのだ。

祈りの終わりに

修行僧は深く一礼した。
朝の光は経蔵いっぱいに広がり、まるで白象の歩む道のように輝いていた。

その光の中で、僧は静かに悟った。

普賢菩薩とは遠い神ではなく、修行者の中に息づく清らかな行いそのものなのだ。

そして今日もまた、歩みは続いていく。
迷いながら、求めながら、しかし確かに前へ。

 

 

 

 

白象の記憶 ― 普賢菩薩、現代に降りる

冬の朝、まだ薄暗い空の下、東京都郊外に佇む古寺──蓮光寺。
境内には落ち葉が積もり、山門の横には最新型の電動自転車が、どこか場違いな存在感を放っていた。

その自転車に乗ってきたのは、若い見習い僧 優真(ゆうま)。
彼は胸の中に、誰にも見せない焦りと迷いを抱えていた。

仕事と修行の両立に疲れ、社会の中で僧として生きる意味も見失いかけていた。

――本当に、自分に仏道は歩けるのだろうか。

ため息とともに本堂へ向かうと、まだ誰もいない堂内には、柔らかな香が漂っていた。
その中心に静かに佇むのは白象に乗る普賢菩薩の像。

優真はふと足を止めた。
その瞬間、なぜか胸の奥がじんと熱くなる。

沈黙の守護者

勤行を始めようとしたとき、優真のスマホが震えた。
画面には「上司:確認まだ?」「客:返事お願いします」というメッセージが並ぶ。

現代の僧侶に休息などない。
僧である前に働き、生活し、人間として日々振り回される。

「……俺はいったい何をやっているんだろう。」

その呟きは、本堂の冷たい空気に吸い込まれていった。

ふと視線を感じる。
普賢菩薩の目が、どこまでも穏やかに、しかし鋭く優真を見ていた。

像はただの像のはずなのに、その視線にはこう書かれているようだった。

迷う者を否定せぬ。
しかし、迷うだけの者も救えぬ。
歩もうとする者にこそ道は開く。

静かな声

優真は座布団に膝を折り、深く息を吸った。
呼吸は浅く、心はざわめいている。

それでも、目を閉じてみた。

忙しさや恐れ、焦燥の渦が心を覆い、形を変えて押し寄せる。
だがその奥に、確かにあるものがあった。

――湖のような静けさ。

その静けさの中で、声は風のように聞こえてきた。

「学び、迷い、倒れ、また起きよ。
それを続ける者こそ、すでに道の上にいる。」

優真の眉間から力が抜けた。
ずっと肩に乗っていた、見えない重石がほどけていく。

祈りの終わりに

目を開いたとき、朝日は本堂の柱に黄金のラインを描いていた。
普賢菩薩像の白象の牙が光を受け、静かに輝く。

優真は深く頭を垂れた。

「……ありがとうございます。
もう一度、歩きます。」

スマホは相変わらず鳴り続けている。
現実は変わらない。
けれど──心の景色は変わっていた。

彼は本堂を出る前に、振り返りそっと呟く。

「逃げない。迷っても歩く。それが修行なんだよね、普賢さま。」

白象の菩薩は答えない。
しかしその沈黙こそ、優真にとって何よりの導きだった。

白象の気配 ― 第二話 迷える青年と、沈黙の道

午後の寺は、午前の勤行を終えた静けさが漂っていた。
境内の楓の葉が風に揺れ、石畳に柔らかい影を落とす。

優真は本堂の掃除を終え、縁側に腰を下ろした。
湯気の立つ温かい番茶を手に、小さなため息をつく。

静かだ。
しかし、その静けさの中には今まで気づかなかった種類の安らぎがあった。

――昨日、普賢菩薩の前で感じたあの声。
あれが幻であれ、自分の心であれ。

優真の中には確かに変化があった。
焦りが消えたわけではない。
それでも、胸の奥にひとつの灯りがともったような感覚。

そんなとき、山門のほうから足音が聞こえた。

迷う者の影

一人の男子高校生が寺の前に立っていた。
くしゃくしゃの制服、眠そうな目、どこか刺々しい表情。

優真が声をかけようとした瞬間、青年はぶっきらぼうに言った。

「……占いとか、お祓いとか、そういうのやってます?」

優真は少し目を瞬いた。
彼の態度には反抗心よりも、助けを求める影があった。

「うちは占い師ではないけど、悩みを聞くくらいならできますよ。
座って話しますか?」

青年は一度断ろうとしたが、ためらうように睨むように優真を見つめ、ゆっくり縁側に腰を下ろした。

「……学校、行くのやめようと思って。」

その声には挑発も強がりもなく、ただ疲労が滲んでいた。

沈黙の聴き手

優真はすぐに答えようとはせず、ただじっと耳を傾けた。
青年は最初、つっけんどんな言葉で話していたが、次第に本音が溢れ出した。

「親はウザい。先生は俺のこと理解してるふりしてるだけ。
友達?もういねぇよ。
……俺、何のために生きてんのか、わかんねぇんだよ。」

言葉の最後が震えた。

優真は茶を見つめ、静かに言った。

「わからなくなった、ということは……
まだ探そうとしている証拠じゃないですか。」

青年は顔を上げた。

「意味が見つからないとき、人は止まったように見えます。
でも本当は、心の底で静かに問い続けている。
問いを捨てた人間だけが、本当に止まるんです。」

青年の目がかすかに揺れる。

白象の声、再び

境内を風が通り過ぎる。
本堂の中、普賢菩薩像の白象の牙がまた光を受け、優真の視界の端でちらりと輝いた。

――声が、降りる。

「歩む者を笑うな。
迷いながら歩く者こそ、真に求める者である。」

優真は心の中でその言葉を受け取り、青年へ静かに重ねた。

「あなたが迷っていること……それは悪いことじゃない。
迷いは、ただの影じゃない。
自分の心と向き合う入口です。」

青年の目がじわりと赤くなる。

「……俺、まだ……歩いていいのかな。」

優真は微笑む。

「もちろん。
そのために、この寺は開いています。」

小さな灯火

夕暮れが降りたころ、青年はゆっくり立ち上がった。

「また……来てもいいですか。」

優真は頷いた。

「あなたのペースで。」

帰っていく背中は、来たときより少しだけ軽く見えた。

優真は本堂に目を向けた。
白象に乗る普賢菩薩は、変わらぬ静けさでそこに在る。

「……ありがとうございます。
人に向き合うこと。
それが、俺の修行なんですね。」

寺の鐘が鳴り、夕空に余韻が響く。

その音はまるで、普賢の微笑のようだった。

 

白象の影 ― 第三話 母の涙と、許されないと思っていた心

ある雨の日、蓮光寺の境内にはしとしとと落ちる雨音が響いていた。
濡れた木々から漂う青い香りは、どこか清らかで、どこか寂しい。

優真は本堂の障子を開け、庭を眺めていた。
昨日来た高校生の言葉がまだ耳に残っている。

「……まだ歩いていいのかな。」

人はいつも、許しを求めている。
誰かに、そして本当は、自分自身に。

そんなことを思っていた頃、山門からそっと傘を差した影が現れた。

それはひとりの女性。
30代前半ほどだろうか。
疲労と睡眠不足が刻まれた顔に、濡れた前髪が張りついていた。

手には小さな子供の靴。
しかし――子どもの姿はない。

沈黙から始まる対話

縁側まで来た彼女は、言葉ではなく深い礼だけをした。
その動作は丁寧だが、震えていた。

「……座って大丈夫ですよ。」

優真が声をかけると、女性は静かに腰を下ろし、絞るように言った。

「私……ひどい母親なんです。」

その言葉の裏に、痛みと罪悪感が滲んでいた。

涙の理由

しばらく沈黙のあと、女性はゆっくり語り始めた。

産後鬱。
夜泣き。
夫は仕事で遅く、両親の助けも遠い。

子どもは可愛い。
だけど苦しい。
泣き声を聞くと呼吸が苦しくなり、逃げたくなる自分がいる。

「昨日……子どもを抱きながら、ふと思ってしまったんです。
**『もう消えてしまいたい』って。」

その瞬間、言葉が切れ、肩が震えた。

「母親がこんなこと考えちゃいけないのに……
私は母親失格です……。」

女性は顔を覆い、声を殺して泣いた。

普賢の言葉が降りてくる

優真は急いで慰めようとはしなかった。
ただ、雨の音とともに彼女の涙が落ちる時間を受け止めた。

その間、普賢菩薩像の前の灯がゆらめき、静かに語りかける気配があった。

「慈悲はまず、自らを抱きしめるところから始まる。」

優真はその言葉を胸にそのまま口にした。

「母親だから苦しまないわけじゃありません。
愛しているから苦しいんです。
苦しいのに向き合っている今のあなたは……
失格どころか、とても強い人です。」

女性は涙のまま、ゆっくり顔を上げた。

罪ではなく、道である

「自分を責め続けても、心は閉じるばかりです。
でも――苦しみを認めた人は、もう歩き始めています。」

優真は静かに彼女の手元にある小さな靴を見た。

「その靴を捨てたいと思った日もあったかもしれない。
でも今、あなたは持っている。
それは……まだ繋がろうとしている証拠です。」

女性の涙が再びこぼれたが、その表情には初めて温度が宿っていた。

母と子の未来のために

「……私、また来てもいいですか?」

優真は微笑む。

「もちろん。
泣きに来てもいいし、話しに来てもいい。
何も言わず、お茶だけ飲みに来てもいい。」

女性の肩が少しだけ軽く下がった。

「……ありがとうございます。」

彼女が帰る頃、雨はやみ、雲間から差す光が本堂に落ちていた。
普賢菩薩の白象の牙はその光を受け、まるで**「責めるな、育てよ」**と語っているようだった。

白象の影 ― 第四話 「いいね」の向こう側にある孤独

春の気配が近づき、蓮光寺の境内には若い桜の蕾がふくらみ始めていた。
優真は境内を掃きながら、ふと空を見上げる。

SNSには満開の桜がすでに溢れているのだろう。
まだ咲いていないこの現実より、「先取り」という言葉の方が価値をもつ時代。

「本物より、映えるものが強い世界……か。」

そんなことを考えていたとき、山門の外から何度もシャッター音が聞こえた。

やがて一人の少女が現れた。

白いパーカーに流行りのショルダーバッグ、そして手には最新のスマホ。

彼女は優真を見るなり、少し気まずそうに笑った。

「すみません……ここ、写真撮ってもいいですか?」

優真は穏やかに答えた。

「どうぞ。
ただ、撮る前に……一度だけ深呼吸してみませんか?」

少女は一瞬怪訝そうな顔をしたが、なぜか拒まなかった。

映える世界と、映らない心

少女は縁側に座り、スマホを握りしめたまま深呼吸をする。
その指先は微かに震えている。

「……あの、住職さんですか?」

「いえ、まだ見習いです。」

「そうなんだ。じゃあ……相談とか、そういうのもしてるんですか?」

「人が来る限り、聞きます。」

少女はしばらく迷い、それから言った。

「私……SNSで活動していて。
フォロワーが多くて、仕事もほとんどそこから来るんですけど……」

言葉が落ちた先には、虚しさが漂っていた。

数字に追われる心

「……最近、全然伸びなくなって。
前よりすごく頑張ってるのに、反応が少ないんです。
毎日投稿して、写真も加工して、企画も練って……。
でも……数字、減っていくんです。」

少女はスマホを見つめ、うつむいたまま言葉を続けた。

「誰かに褒められないと……
存在してる気がしなくて。」

その言葉には苦しさより、消えそうな静けさがあった。

普賢の教えが流れる

本堂の扉が風で少し開き、鈴がかすかに鳴る。
その瞬間、優真の胸の奥に、あの静かな声が響いた。

「他に映る姿を磨くより、自らに宿る光を照らせ。
光は競うものではなく、ただ在るもの。」

優真はその言葉を少女へ自然な声で落とし込んだ。

「あなたは、『見てもらうための自分』ばかり育ててきたんですね。」

少女は目を見開いた。

「……ばれてる。」

「ええ。でもそれは悪いことじゃない。
誰だって、人に認められたい。」

優真はゆっくり続ける。

「けれど、承認は水と同じです。
飲んでも飲んでも、また喉が渇く。」

少女の指先が止まり、スマホをそっと膝に置いた。

存在の証明は外になく

「本当に必要なのは、
“誰かに見られている私”じゃなくて、
“誰にも見られなくても立っている私”です。」

少女は息を呑んだ。

「そんな私……いるのかな。」

「ええ。います。
でも長い間、外側ばかり磨いてきたから……
ただ、声が届かなくなっているだけです。」

少女の目に涙が溜まり、ぽつりと落ちた。

「こわい……もし何者でもなかったら……」

優真は優しく返す。

「何者でもないところから始められる人だけが、
本当の意味で何かになれるんです。」

静けさの中で芽生えるもの

少女は深く息を吸い、初めてスマホをバッグの中へしまった。

「また来てもいい?
たぶん……今のままだと、戻っちゃう。」

「来なくてもいい、と思えるまで来てください。」

少女は涙の跡のまま笑った。

「……ありがとう。
写真、もういらないや。」

帰り際、ふと本堂に向かって軽く頭を下げた。

普賢菩薩は沈黙のまま、ただそこにいた。
白象の牙に雨上がりの光が宿り、その輝きはまるで──

「あなたは、すでに価値ある存在だ。」

と語っているようだった。

夜。
東京の片隅にある寺院の境内には、冬の空気と静寂が降りていた。

柚季は震える指先で、本堂の扉を押し開けた。

「……すみません。予約もなしに……」

優真は蝋燭の火を守るように座り、微笑んだ。

「怖い夢を見たのですか?」

彼女は一瞬で涙をこらえる表情になり、頷いた。

「夢じゃありません。……ずっと誰かが私を見てるんです。
夜中に部屋の隅の空気が変わるんです。冷たくて……。
声が聞こえることもあります」

その声は震えていた――しかし、ただの恐怖ではない。
言葉の奥に、助けてほしいという幼い声があった。

◆優真の問い

「柚季さん。
その“存在”は、あなたに何と言うのですか?」

柚季の目が揺れた。

「——『ひとりにするな』って」

沈黙。
優真は彼女を見つめながら、仏具の置かれた祭壇に視線を移した。

「では、もうひとつ聞きます。
それは“怒って”いますか?
それとも“泣いて”いますか?」

柚季は驚いたように口を開く。

「……泣いてる。
怖がらせてるのに……なんか、すごく泣いてるんです」

◆影の正体

優真は静かに合掌した。

「柚季さん。
仏教ではね、亡き者の霊や怨念だけが人を悩ませるとは考えません。

時に私たちを苦しめるのは、自分自身の“忘れられた痛み”です。」

柚季の肩がわずかに震えた。

「……忘れたいこと、あります。
ずっと誰にも言えなかったこと」

優真は蝋燭の flame を指さす。

「炎は影をつくります。
でも、影があるのは“光がある証”です。

影を恐れるのではなく、
影を生んだ光を思い出すことが大切なんです。」

柚季の目に涙が溢れた。

◆普賢の智慧

「普賢菩薩はこう説きます。

恐れとは、心が自分を見失ったときに生まれる影。
しかし慈悲と気づきは、その影を消すことなく、
影を抱きしめられる心へ変えていく。」

優真は柚季の前に香炉を置いた。

「ここに手を合わせましょう。
祈りは除霊ではなく――
心に住む影を、苦しむ存在として理解する行為です。」

柚季はゆっくりと手を合わせ、小さく、震える声で言った。

「……こわかった。
でも……一人じゃなかったんだね」

その瞬間、境内を渡る風は柔らかく、
遠くで鐘の音が静かに響いた。

◆終章への余韻

夜空には雲の切れ間から月が顔を出す。

柚季は涙のあとが残る瞳で空を見上げ、呟いた。

「もしあれが“霊”じゃなくて、
傷ついた私自身の声なら……
もう逃げたくない」

優真は静かに頷き、言葉を添えた。

「――影を癒せるのは、影と向き合った心だけです。
あなたは、すでに歩き始めました。」

蝋燭の炎はゆらぎながら、今夜も闇を照らし続けていた。

 

雨が降りしきる夜だった。
街の明かりは濡れた道路に滲み、色彩はどこか夢のように歪んでいた。

野村晶はネクタイを緩め、小さな喫茶店の扉を押した。

扉についたベルが鳴る。
その音にさえ、心がひどく疲れていた。

「いらっしゃい。」

マスターが低く声をかける。
晶はカウンター席に座り、コーヒーを頼んだ。

うつむく彼の指先は微かに震えていた。
今日だけではない。
ここ数ヶ月、同じように震えていた。

仕事が終わっているのに、仕事が終わらない。
休んでいるのに、休めていない。
生きているのに、生きていない。

そんな感覚が、彼の全身を蝕んでいた。

◆優真との出会い

しばらくして、柔らかい声が隣から響いた。

「随分、お疲れのようですね。」

晶は顔を上げた。
そこには僧衣をまとった優真が座っていた。

「……まあ。避けられる疲れなら、もうとっくに逃げてますよ。」

乾いた笑いが漏れた。

優真は微笑みながら、湯気の立つカップに手を添えた。

「逃げられないのではなく――
『逃げてはいけない』と、あなたが自分に言い聞かせてきたのでしょう。」

晶の手が止まる。

図星だった。

彼の頭の中には、いつも同じ言葉があった。

“頑張れ。ちゃんとやれ。迷惑をかけるな。”

それは、誰に言われた言葉でもない。
自分が、自分に課した呪いだった。

◆沈黙のあとに

晶はゆっくり口を開いた。

「……俺さ、会社では数字が全てなんです。
売れなきゃ意味がない。
役立たなきゃ価値がない。」

優真はコーヒーを一口飲んだ。

「では、聞きましょう。
あなたは売り上げではなく、人としての価値で自分を見たことはありますか?」

晶は笑おうとしたが、笑えなかった。

そんな視点、考えたこともなかった。

優真は静かに続ける。

「人は、自分を“役割”として生きている時、最も苦しくなるのです。
数字を出す者・働く者・責任を持つ者。
しかし、その前に――あなたは、一人の人間です。」

晶の目が揺れた。
胸が熱くなった。

「……でも、人に迷惑をかけたくないんです。
役に立たなきゃ、人は俺を必要としない。」

その言葉は、泣き声に似ていた。

◆普賢の智慧

優真は柔らかく笑った。

「利他とは、自分を削って人に尽くすことではありません。
自分を大切にしている者だけが、他者を大切にできるのです。」

晶はその言葉を飲み込み、ゆっくり息を吐いた。

優真はさらに言う。

「疲れ果てた心のまま他者に尽くそうとすれば、
その優しさはやがて義務へと変わります。
義務になった優しさは、いつか怒りや悲しみに変わる。」

晶の目から、一粒の涙が落ちた。

「じゃあ……俺は、どうすればいいんだ。」

優真は空気のように優しい声で答えた。

「今日できる小さな善を、一つだけ。
それが、あなた自身への供養であり、
他者を救う最初の一歩です。
大きなことをしなくてもいい。
苦しいときは、立ち止まっていい。
休むこともまた、立派な修行です。」

晶は顔を覆い、静かに泣いた。
泣けるほど疲れていたことに、そのときようやく気づいた。

◆帰り道

雨は止み、街の光が路面に映りこんでいた。

晶は夜空を見上げ、小さく呟いた。

「……休んでもいいんだな。」

その声はかすかだったが、確かに自分へ向けた許しだった。

胸の奥で、固く閉ざされた何かが――
ゆっくりとほどけていく。

歩みながら晶は思った。

「今日の自分を、否定しないで生きていこう。」

それが、彼の新しい一歩だった。

玲奈は美容室の鏡を拭きながら、ふと、手を止めた。

そこに映る自分は、以前より痩せ、疲れ切った瞳をしている。
化粧もしているのに、それはどこか幽霊のように色を持たなかった。

閉店後、バッグを肩にかけ、街を歩く。
イルミネーションがまだ残る冬の街並みは、かつて恋人と歩いた景色そのものだった。

手を繋いで笑い合った夜。
寒さより心が温かかった日々。

その全てが、胸に刺さる。

ふと、ベンチに一人座る僧衣の男性が目に入った。
優真だった。

玲奈は気付かぬふりをして通り過ぎようとしたが、優真は静かに声をかけた。

「大切な人を失った苦しみは、簡単に消えるものではありません。
ですが――それは愛が確かだった証です。」

玲奈は振り返らなかった。
しかし足は止まった。

「……どうして、わかるの。」

「あなたの歩き方です。
“前に進もうとしているのに、心だけが後ろを向いている”歩き方です。」

玲奈の呼吸が止まる。

その通りだった。

◆喫茶店にて

二人は近くの喫茶店に入り、向かい合って座った。
玲奈の手は、コーヒーカップを持ちながら小刻みに震えていた。

「……私、忘れたくないんです。
忘れたら、あの人を裏切る気がする。」

優真は頷き、穏やかに口を開いた。

「忘れる必要はありません。
ですが――苦しむために覚えているのだとしたら、
それは愛ではなく『執着』です。」

玲奈の瞳に涙がにじむ。

「執着……?」

「愛は相手を縛らず、自由にする力です。
執着は相手をこの世に縫い付け、自分自身も囚われの身にします。
苦しいのは、愛が重いからではありません。
手放す勇気を持てないからです。」

玲奈は俯きながら呟いた。

「……手放したくない。」

優真は微笑んだ。

「では質問を。
――その人は、あなたが泣き続ける未来を望んだでしょうか?」

玲奈は答えられなかった。
喉が締め付けられ、涙が零れた。

◆記憶という灯

優真は言葉を続けた。

「亡くなった人は、消えるのではありません。
思い出を通して、生きる者の心の中で形を変え続けます。
悲しみの影として残すか、
感謝の灯火として持ち続けるか――
それを決めるのは、今を生きるあなたです。」

玲奈は震えながら尋ねた。

「……怖いんです。
あの人のいない未来が。」

優真は静かに頷いた。

「未来が怖いのではありません。
“未来に進む自分”を許せていないだけです。
でも、覚えていてください。
――大切な人の死は、あなたの人生の終わりではありません。」

玲奈の涙は止まらなかった。
しかし、その表情には、これまでと違う色があった。
苦しみだけではない、揺らぎながらも動き出す命の気配。

◆帰り道

外に出ると、夜風が優しく吹いていた。
街灯の下、玲奈は小さく息を吐く。

「……もう少しだけ、歩いてみます。
泣きながらでも。
いつか笑える日が来るように。」

優真は静かに頭を下げた。

「ええ。
涙は、心が回復している証です。
どうか焦らず――
悲しみが、感謝へと変わる日を待ちなさい。」

玲奈は夜空を見上げた。

雲の切れ間から、小さな星が光っていた。

まるで、遠い空から
「大丈夫だよ」
と語りかけているかのように。

 

第七章 優真、自らの過去と向き合う

― 導く者もまた苦しむ/慈悲の源は傷/普賢の道 ―

夜気は澄み、山の寺院に漂う香気はかすかに白檀を思わせた。
境内の灯籠が風に揺れ、炎は小さく震えている。

優真はそこで静かに座していた。
いつもの落ち着いた顔ではない。
肩はわずかに沈み、視線は地面の一点に落ちている。

その姿を、真輝は少し離れた場所から見つめていた。
――あの優真が、迷っている。
それは思い違いではないと、直感が告げていた。

やがて優真は口を開いた。

「真輝……お前は今、苦しみを抱えている。
だがな──導く者は、苦しみを知らぬ者ではない。
むしろ……誰よりも深く、傷を抱えている者だ。」

風が止み、言葉が空気の中に沈んだ。
真輝は答えず、ただ優真の声を待った。

優真はゆっくりと息を吐き、手を膝の上で組んだ。
その眼差しは、遠い昔を見ているようだった。

■ 優真の告白

「俺には……救えなかった者がいる。」

そう言った瞬間、灯籠の火がふっと揺れた。
優真の声は淡々としているのに、そこには痛みが滲んでいた。

「若かった俺は、修行と知識があれば人は救えると信じていた。
ある少女がいた。
家族にも社会にも拒まれ、行き場を失っていた子だ。
俺は彼女を導けると思っていた。
だが……俺は本質を見ていなかった。」

静寂。

「彼女は──俺に救われることではなく、
自分を許す道を探していた。
だが俺は答えを急ぎ、正しさを押し付けた。
結果……彼女は自ら命を断った。」

真輝は息を飲んだ。
優真の横顔には、深い疲労と悔恨が刻まれていた。

「その日以来、俺は問うてきた。
なぜ慈悲は痛みから始まるのか。
なぜ導く者は、まず自らの闇に触れねばならぬのか。」

■ 普賢菩薩の教え

優真はそっと合掌し、言葉を続けた。

「如来の慈悲は、完璧だから尊いのではない。
傷を知ってなお、世界を抱くから尊いのだ。
普賢菩薩は、智慧を持つ者にこう告げる。

“己の過ちを抱きしめよ。
その痛みこそ、すべての命を抱く器となる。”

真輝。
俺はまだ彼女を救えなかった自分を許せてはいない。
だが──その痛みが、今の俺の慈悲の源となっている。」

優真の目は、涙ではなく、静かな決意で満たされていた。

■ 優真から真輝へ

「真輝──お前がこれから歩む道は、決して楽ではない。
人を導こうとすれば、迷い、怒り、恐れ、そして後悔に何度も触れる。
それでも歩める者は……」

優真は真輝に視線を向けた。

「傷を、逃げずに抱ける者だ。
そして、他者の傷を自分の痛みのように受け止める者だ。」

沈黙。
だがその沈黙は、苦しみではなく温かさを含んでいた。

■ 終わりの一言

優真は立ち上がり、灯籠の火を手で覆いながら言った。

「覚えておけ、真輝。
慈悲とは、正しさを示すことではない。
傷を抱えたまま、誰かの闇に寄り添う勇気だ。」

その言葉は、夜空に消えず、真輝の胸に深く刻まれた。

そして真輝は静かに答えた。

「……師よ。
その痛み、僕も一緒に背負って歩いてもいいですか。」

優真は初めて、わずかに微笑んだ。

「それが、普賢の道だ。」

 

普賢菩薩 あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

普賢菩薩 あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

 

 

 

普賢菩薩

あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

名サマンタバドラ (Samanta bhadra) の「サマ 「タ」は「く」、「バドラ」は「賢」と漢訳しま す。 「賢」とは具体的には「さとりを求める心か 起こる、成仏しようとする願いと行ない」のこ とです。それが、ときとところを選ばず在して いるということを象徴したのがこの菩薩です。 で すから、菩薩行を実践する者をつねに守護するほ とけでもあります。

白象に乗り、文殊菩薩とともに釈迦如来 の脇侍をつとめます。 文殊菩薩のに対して、 (行)をつかさどります。

なお、密教では、堅固不壊の菩提心を象徴する

金剛薩埵と同体とします。

と巳年生まれの人の守り本尊とされていま

 

普賢菩薩(ふげんぼさつ)とは?

普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。

 

文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。

 

ちなみに普賢菩薩から派生した仏に延命のご利益のある普賢延命菩薩があります。

ご利益

女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされています。また、辰・巳年の守り本尊です。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像容

白象に乗っている姿が一般的です。3つや4つの頭の象に乗っている場合は普賢延命菩薩像の可能性が高いです。

 

 

 

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月6日

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年12月6

乙巳 二黒土星 歳
丁亥 二黒土星 節
己酉 六白金星 日

六白金星の日

新しい企画を持った人との接触あり。気が高ぶり争いが起りやすい。負けるは勝ち。怒ったら損、自己を誇るなかれ。心豊かにほのぼのと。

躍動の週  安の日
心身共に安定した日。
突発的な出来事や急な感情の変化とは無縁の日なので、自然体でリラックスした時間を持つことができるでしょう。
焦らずゆったり構えていれば、幸運は向こうからやってきます。

Today’s Fate Today’s Fate Today’s Fate December 6, 2025

Yi Snake Year: Earth Star 2 Black
Ding Hai Year: Earth Star 2 Black Node
Ki Rooster Day: Metal Star 6 White

Metal Star 6 White Day

You will come into contact with someone with a new project. Feelings will be high and arguments are likely. Losing is winning. Angry is losing, and do not boast. Feel rich and peaceful.

A dynamic week, a calm day
A day of stability in both mind and body.
This day is free of unexpected events and sudden emotional changes, allowing you to relax and be natural.
If you remain calm and relaxed, good fortune will come your way.

अद्यतनं भाग्यं अद्यतनं भाग्यम् अद्यतनं भाग्यं December 6, 2025

यी सर्प वर्ष: पृथिवी तारा २ कृष्णा
डिंग है वर्ष: पृथिवी तारा 2 कृष्ण नोड
कि मुर्गा दिवस: धातु तारा ६ श्वेत

धातुतारकः ६ श्वेतदिवसः

भवन्तः कस्यचित् नूतनप्रकल्पेन सह सम्पर्कं करिष्यन्ति। भावनाः उच्चाः भविष्यन्ति, तर्काः च सम्भाव्यन्ते। हारः विजयः एव। क्रुद्धः हानिः, मा च गर्वः। धनिकं शान्तं च अनुभवन्तु।

एकः गतिशीलः सप्ताहः, एकः शान्तः दिवसः
मनसि शरीरे च स्थिरतायाः दिवसः।
अयं दिवसः अप्रत्याशितघटनानां आकस्मिकभावनपरिवर्तनानां च मुक्तः अस्ति, येन भवन्तः आरामं कर्तुं स्वाभाविकाः च भवितुम् अर्हन्ति ।
यदि भवन्तः शान्ताः शिथिलाः च तिष्ठन्ति तर्हि भवतः मार्गे सौभाग्यं भविष्यति।

 

 

不動明王 破壊と再生を司り、悪を滅する

 

不動明王

破壊と再生を司り、悪を滅する

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

https://youtu.be/lbOhPo8nNQE?si=3Iq6vomylx7dRKwK

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。

ご利益

除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、厄除災難、国家安泰、現世利益のご利益があるとされる。また、酉年生まれ守り本尊です。酉年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

不動明王(ふどうみょうおう)の像容

背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしています。目は天地眼(てんちげん)といって右目を天に向けて左目を地に向けていますよ。口は牙上下出といって右の牙を上に出して左の牙を下に出しています。炎の光背を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っています。剣は大日如来の智慧の鋭さを表現しています。羂索とは煩悩を縛り悪の心を改心させる捕縛用の縄のことです。

 

https://drive.google.com/file/d/1P6nOGvJyjb-tiuUXl1yRmz3nfwH8VcZK/view?usp=drive_link

 

仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻(小説風)

 

仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻(小説風)

風が止み、山の伽藍には深い静寂が満ちていた。
灯明の火がかすかに揺れ、香炉から立ちのぼる薄い煙は、まるで天へと戻る魂のように細く伸びてゆく。

青年――名を湧真(ゆうしん)という――は、仏舎利の前にひざまずき、掌を合わせた。
沈黙は長く、しかしその沈黙は空虚ではなかった。むしろ、言葉では測れない力が満ちていた。

師僧が静かに語りかける。

「湧真、神変という言葉を知っておるか。」

青年は首を横に振る。師僧は灯明を見つめたまま、淡く微笑んだ。

「神変とはな、人の常識では測れぬ力のことだ。
人が努力しても到達できぬほどの智慧、慈悲、そしてはかり知れぬ働き。
仏の救いの働きそのものといってよい。」

師僧の声は風のない空気の中で、不思議と奥行きを持って響いた。

「たとえば――夫婦が互いを思い、言葉なくとも心が通うときがある。
家族がまごころで相手を思えば、争いは起きぬ。
人と人が真心で向き合うとき、言葉よりはやく心が触れ合うのだ。
それもまた、ひとつの神変である。」

湧真はゆっくりと頷いた。
ふと、自分の胸の奥にまだ言葉にならぬ理解が宿るのを感じた。

「仏を拝むときも同じだ。
ただ形だけの礼では届かぬ。
心から拝むとき、仏の心と我が心は重なり始める。
密教ではこれを――“入我我入”、そして“即身成仏”と説く。」

師僧は湧真の背後に回り、そっと姿勢を正す。

「湧真よ。礼拝とは、ただ頭を下げることではない。
礼とは礼式に従い、拝とはまごころをもって祈ること。
型の中に信があるとき――仏は応じてくださる。
これを 感応道交 という。」

灯明が一瞬、風もないのに揺れた。湧真の心臓がわずかに震える。

師僧の声はさらに低く、深くなる。

「仏の力は妙なるものだ。
言葉では説明できぬ。
経典ではそれを“妙法”、すなわち“神変”と呼ぶ。」

少しの沈黙ののち、師僧は問う。

「では湧真。仏の功徳を得るにはどうすればよい?」

青年はしばらく考えたが、答えられなかった。

師は優しく告げた。

「――礼拝と供養だ。
その二つ以外にない。」

湧真は息をのみ、仏舎利に視線を戻した。

「供養とはな、仏に何かを差し出すことだ。
金でもよい、時間でもよい。
自分にできる精一杯を捧げるのだ。」

師僧は畳の上に置かれた小さな花を指さした。

「たとえ雑草の花であろうと、心を込めて捧げられたなら、それは供養となる。
しかし――なにも捧げず、ただ功徳や利益だけを求める心は、仏の前では空しい。」

湧真は胸の奥に痛みのような熱を感じた。
自分は、ただ救われたいと願うばかりで、何ひとつ捧げていなかったのだと気づく。

師僧は静かに結んだ。

「湧真。
仏と心が通じるとき、そこから道が交わる。
その交わりを通して――人は変わる。
それはまさしく奇蹟、神変の働きだ。」

湧真は深く息を吸い、掌を合わせ直す。
今度の礼は、先ほどのものとは違う。
形ではなく――心からのものだった。

灯明が再び揺れ、まるで応じるように光を放つ。

その瞬間、湧真は確かに感じた。

仏の心が、自分の心へ歩み寄ったことを。

仏舎利の灯 ― 心の変容と奇蹟体験

その夜、湧真は山門のそばにある小さな僧房へ戻った。
月は高く、空気は澄み、虫の声すら遠くに引いている。
まるで世界の音がすべて、息を止めて彼の変化を見守っているようだった。

湧真は畳に座り、再び掌を合わせた。
だが今度は修行としてではなく――心が自然にそう求めていた。

(仏と通じるとは、こういうことなのだろうか。)

胸の奥に、ほんのり灯がともるような温かさがあった。
その温かさは呼吸に合わせて広がり、体の中心へ溜まっていく。

やがて、ふと心に声が生まれた。

――捧げよ。
――惜しみなく。

湧真は目を閉じた。
その声は外から来たのではない。
自分の心の深い場所――今まで触れたことのない静寂の源から湧き上がっていた。

「捧げる……私が……?」

問いかけると、返事はなかった。
だが言葉以上の確信が胸に落ちた。

湧真は翌朝、本堂へ向かった。
白い息が空に溶けてゆく。

仏舎利の前に立つと、彼は懐から大切にしまってきた数珠を取り出した。
それは修行を始める前、亡き母が手渡してくれたものだった。

母の優しい声がよみがえる。

――「苦しいときも、この珠を握って祈りなさい。
祈りは、必ず誰かに届くから。」

湧真の手が震えた。
ずっと手放せないと思っていた。
だが今は違う。

手放すことが、返すことになる。
返すことで、繋がるものがある。

彼はゆっくりと数珠を供え、深く礼をした。

その瞬間――

空気が静かに震えた。

灯明の火が伸び、糸のような光となって彼の胸の中央へ吸い込まれた。

息が止まる。
怖さはない。
むしろ懐かしい――帰る場所を思い出したような、深い安堵があった。

ふと、湧真は気づく。

自分の心が、消えていく。

怒りも、寂しさも、不安も、
今まで自分の一部だと思っていたすべてが、
静かに、海へ溶ける墨のように淡く消えてゆく。

代わりに――

満ちるものがあった。

それは言葉では言い表せない。
慈しみ、光、包容、沈黙。
そして――涙があふれた。

湧真は声にならぬ声で呟いた。

「……あぁ……あなたは、本当に……」

仏像は動かない。
言葉もない。
だが湧真は確かに感じていた。

――応じてくださった。
心と心が触れたのだと。

しばらくすると光は静かに収まり、灯明はふたたび穏やかに揺らぎ始めた。

湧真は涙を拭うことなく、静かに座り続けた。
師僧が背後から見守っていたことにも、気づいていなかった。

師はそっと言葉を落とす。

「湧真。
それが――感応道交の始まりだ。
仏と心が交われば、人は必ず変わる。
その変化こそ奇蹟であり、真の供養であり、修行の果だ。」

湧真はゆっくり頷き、ようやく声を出した。

「……私は……何ひとつ失わずに、
すべてを返せた気がします。」

師は微笑んだ。

「そうだ。
捧げることで、はじめて受け取れるものがある。
それは教えではなく――体験だ。」

仏舎利の前には、まだ灯が柔らかく揺れていた。
その光は湧真の胸に確かに宿り、消えずに燃え続けていた。

仏舎利の灯 ― 悟りの兆し

ある春の早朝、湧真は村はずれの竹林を歩いていた。
夜明け前の空は紫とも青ともつかぬ色をまとい、
世界はまだ眠りと目覚めの境目に漂っていた。

風はなく、竹の葉が触れ合う音さえしない。
ただ鳥が一羽、遠くで微かに鳴き、
その声さえも世界に吸い込まれるようだった。

湧真は足を止めた。
呼吸が自然に深くなり、体の内側がゆっくりと静まっていく。

心は波を打たず、何かを求めることも拒むこともしていなかった。

ただ――在る。

それだけだった。

湧真はゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、意識は体の境界線を離れ、
まるで空気の中へ溶け出すようだった。

鳥の声が聞こえる。
しかしそれは耳で聴いているのではなかった。

川のせせらぎが遠くで響く。
だがそれは外側の音ではなかった。

すべての音、すべての気配、
すべての動きが――
自分の心と同じ場所で起きていた。

湧真の胸に、ひとつの気づきが浮かぶ。

「世界は私の外にあるのではない。
私が世界の外にあるのでもない。
ただ同じ一つの流れに宿っている。」

呼吸がふと消えた。
息をしているのか、していないのかもわからない。
しかし苦しくもなければ、不安もない。

その代わり――

圧倒的な静けさが胸に満ちた。

それは真冬の静寂とは違う。
すべてが凍って沈黙した静けさではない。

むしろ、

すべてが生き、響き、満ちている静けさ。

空間にも、風にも、音にも、
そして自分の存在そのものにも――距離がなかった。

その時ふと、竹林の奥で光が揺れた。
それは炎でも月光でもない。
目ではなく、心で見ている光だった。

光は言葉なきまま湧真に触れ、
優しい声のように消えていく。

湧真の内側で、ひとつの理解が芽生えた。

「悟りとは到達するものではない。
すでに在るものに気づくことだ。」

その瞬間――

竹林が風を受けて揺れた。
鳥が翼を広げ、淡い朝日が空を染める。

だが湧真はそれを外の景色として見てはいなかった。

すべてがひとつであり、
すべてが響き合い、
すべてが言葉にも形にもならぬ慈悲に満ちていた。

湧真の頬を温かな涙が伝う。

それは悲しみでも喜びでもない。
理由のない涙。

ただ、存在の深みから溢れた雫。

湧真は静かに掌を合わせた。

その姿は祈りではなく――
祈りそのものだった。

やがて世界が再び動き始める。
風が吹き、鳥が舞い、日が昇る。

湧真はゆっくり目を開いた。
その瞳は、恐れも迷いもなく、
ただ深い透明さを湛えていた。

そして湧真は静かに微笑んだ。

「私が変わったのではない。
世界の見え方が変わったのだ。」

そう呟いた声は、春の空へ溶けていった。

 

の身このまま、いますぐに仏になれるのです。等同流類の仏に―――。

なんとありがたいことではありませんか。

妙なる礼拝供養の徳

「霊処かずあるその中に

仏舎利尊の宝塔は

法身駄都如意宝珠尊

じんべんたえ大悲神変妙にして

けどうりしょ化導利生はてしなし」

神変という語がありますが、これは『大毘盧遮那成仏補效加持

(犬田版)」という経名に由来しております。人間では推し撮

ることができないようなすばらしい力を補といい、一般常識ではとても考えられないような、常と異なったことを変といいます。要するに、神変とは人間の常識では計り知ることのできない、すばらしい力をさします。そのすばらしい力とはなにか?

振になります。また家庭でも、夫と妻の心が感応しあわなければいけない。黙っていても相手がなにを考えているか、それがピーンと感応しあうような家庭だったならば、子供が暴力をふるったりしないてしょう。おたがいのまごころが触れ合うことによって、そういう感応が得られるわけです。

ですから、わたくしたちが仏さまを拝む時も、まごころを込めて拝む。そうすると自ずから感応して、仏さまの心がわが心となり、 にゅうががにゅう そくしんじょうぶっわが心が仏さまの心となる。密教でいう「入我我入」「即身成仏」 の境地に達します。そこまで進むのはなかなか難しいですが、それをめざして努力することが修行ですね。

そのように仏さまと自分の心が一体となると、仏さまの道と自分の道が交わって一つになる。これを道交といいます。仏さまと自分

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仏さまがわたくしたちを助けてくださるお力です。仏の救済力のすばらしいことを、神変と表現しているのです。仏さまがわたくしたちを助けてくださる力、これは人間の常識ではとても考えることができない。ただただ、神変である。この神変という語を、一般に使うことばにすると妙となります。妙法の妙ですね。人間のことばや文字ではとても表現できないことを妙と申しますが、それを「大日経」では神変と表現しております。

それから大悲とは、わたくしたちを苦しみから救ってくださることです。この大悲のお力、苦しみを取り除くお力の偉大なることは、 ただただ神変、妙であるというしかない。まさに神秘的な、人間の常識ではとても計り知ることができない。そういうすばらしいお力をもって、仏さまはわたくしたちを救ってくださるのです。

「化導利生はてしなし」の化導は解脱の徳、利生は宝生の徳のことです。解脱宝生の功徳は、果てしなく偉大なのだということです。

まごころを込めて礼拝する

心はいくよう 「礼拝供養の徳積めば

悪業一切断ち切りて

福徳果報かぎりなし」

「礼拝供養の徳積めば」というのは、一つのただし書きです。さき

ほどお話しした「大悲神変妙にして」という、仏さまのすばらしいお力を戴くには、礼拝供養の徳を積まなければいけない。仏舎利尊さまの功徳を戴くには、礼拝と供養の二つしかありません。礼拝してご供養する。この二つの徳を積まなければいけない、ということです。

れいしさはう礼とは礼すること、拝というのは拝むことです。簡単ですね。しかし、ただちょこんと、おじぎをして拝むだけではいけない。礼とは礼式作法にのっとって拝みなさい、という意味を含んでいます。

解説宝生法のみ次第に入る際に、本宝床尊ととられる

その礼式作法とは、仏舎利宝珠尊さまの前に立ち、

「オン サラバタタギャタ ハンナマンナノウ キャロミ」

と礼拝を三回する。そしてご宝塔の前に座って着座普礼を一回

の際に必ず

行なう。それから、護身法を切って、

の際に必ず

これによて保人のなので、

内容は

行なう。それから、護身法を切って、身体と魂を浄める。不削なるもの一切を浄めるのです。

あとは聖典にしたがって、作法どおり正しく拝めばよろしい。

礼拝で大事なことは、まごころを込めて拝むことです。礼式作法という型の中に信がなければいけません。まごころを込めて拝む。 ひとすじの信心の心をもって拝む。これがいちばん大切です。そこから、感応道交が生まれるのです。

自分のまごころが仏さまに通じると、仏さまはそれに応じてくださる。これを感応という。自分と仏さまが感応しあうようになったら、そこから一つの力が必ず出てきます。

これは職場でも同じでしょう。上司と部下の心が感応しなければよい仕事はできない。おたがい、ソッポを向いていたのでは業績不

第一章の日一

が平行線ではどうしょうもない。まごころによって触れ合いが始まり、そして一休となるのです。

大切なことは、仏さまの心とわが心とが一体になるように、まごころ込めて素直に拝む、礼式作法を行なう。これが礼拝の意味です。 たった二文字の中に、これだけの意味が含まれているわけです。

自分の持てるなにかを仏さまに捧げる

それでは、供養とはなにか?

やしな供養とは、供えて養いとするという意味です。仏さまにお供えして自分の徳の養いとする。とくに仏舎利宝珠尊解脱宝生行の場合は三種供養をさしますが、これはあとで詳しく説明いたします。

 

いつもお話ししているように、わたくしたちの持つ悪因縁は、自分自身の不徳と先祖の不徳から生じます。

先祖の不徳というのは、自分の親、祖父母を見るとよくわかるてしょう。徳の高い、すばらしい両親であるか、それともどうしようちない不徳の両親であるか。もし不徳の親であるならば、なぜそのような親の子として生まれたのか?

それは自分の不徳、自分の前世の不徳が原因なのです。たとえば自分がマイナス5の不徳を持っていたとしますと、必ず、マイナス 5の親を持つ。これが因縁因果の理です。いま、自分は先祖の不徳、 先祖の悪因縁を背負っている。これをタテの因縁という。それに対して前世の自分がなした悪業によって生じる因縁を、ヨコの因縁といいます。タテの因縁とヨコの因縁の交わったところが、現在の自

 

分です。

もしも自分が前世において善い行ないをして、徳をたくさん積んておいたならば、良い徳をたくさん持った家系に生まれ、恵まれた

環境に身を置くことになる。

つまり自分が苦しむのは、すべて自分の不徳が原因なのです。だからその不徳を消さなければならない。徳を積んで不徳を消さなければならない。その徳の養いとするために仏さまに捧げるわけです。

自分の持てるなにかを仏さまに捧げる。時間のある人は時間を、 お金のある人はお金を捧げればよいでしょう。自分にできるだけの、 自分に相応するなにかを仏さまに捧げなさい。自分はなに一つ捧げず(つまり、出さずに)、仏さまからご利益、功徳を引き出そうとするのはおかしい。

 

心から仏さまに帰依してそのお徳にあやかろうと思ったならば、 自分の持っているなにかを捧げるべきでしょう。また、自然にそういう気持ちになるはずです。それが供養なのです。まごころを込めて拝み、仏さまの心をわが心とし、わが心が仏さまに通じる。これが礼拝。自分の持てるなにかを仏さまに捧げる。これが供養。この二つがそろってこそ、「悪業一切断ち切りて 福徳果報かぎりなし」 という解説と宝生の徳が戴けるのです。

疫病苦厄の憂いなし

しょなん 「この塔安置のところには諸難のせまる恐れなく

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