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涅槃とは完全解脱の境地

涅槃とは完全解脱の境地

聞如是。

一時仏在舍衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功德。此善根不可窮

尽。於正法。而種功德。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便此不可窮尽之福。

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

聞くこと是の如し。一時、仏、舍衛国祇樹給孤独園に在

しき。肩の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三と為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿雞、此の三善根は窮尽す可

からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

獲難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。願の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

如是阿難。当作是

現代語訳

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世

尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三等根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができるものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、 この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるのです。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

解說

ます。 冒頭でも触れたように、阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生

むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の腐尽す可からざるの福を獲べし」

ことはありません。 とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。この名称ならば無食善根・無顧善根・無癡善根の三善根と混同する

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、ということをお釈運さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します。「五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解説の境地です。完全解脱とは業と因線から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輸廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

仏教では人間の苦しみを分類して、四苦心苦と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

四苦八苦は以前にも講義しました(上巻・「申恕林経』一三五——一三八頁参照)が、仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

四苦八苦 人は苦の塊

まず、四苦というのは、生・老・べ・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこ

ともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。こ

〇九五

 

梵の座に響く声 ― 内なる法の囁き

梵の座に響く声 ― 内なる法の囁き

明星を得てから幾日かが過ぎた。
サハスララの火は、日ごとにその明るさと静けさを深め、脳の奥に宿る“場”は、かつて想像もできなかったほどに澄んでいった。

ある夜、私は坐に入った。
息は深く、心は波ひとつ立たぬ湖のようにおだやかだった。
視床下部の一点に意識を添えると、そこに潜む光が、まるで呼吸に合わせて花開くように広がっていく。

やがて、明星の光が頭頂の虚空へと昇りきったとき、
私は、音とも無音ともつかぬ“何か”を聞いた。

――ここに在る者よ。

その声は、耳から聞こえたのではなかった。
脳の中心から、あるいは胸の奥から、いや、身体のどこでもない“場所”から響いてくる。
私は思わず呼吸を止めた。

「誰なのだ」
問うというより、言葉が自然に漏れたのだ。

声は答えた。

――名はない。
ただ、汝の内に久しく眠っていた“声”だ。

それは、私自身の声のようでもあり、まったく異質な存在の声のようでもあった。
しかし、不思議なことに恐れはなかった。
むしろ深い懐かしさが胸に広がっていく。

――汝の苦しみも、迷いも、悲しみも、
すべてここに集まっていた。
そして今、ひとつずつほどけはじめている。

まるで、長いあいだ閉ざしていた部屋に風が通うようだった。
過去の記憶が、瞬間的に脳裏をよぎる――
怒り、後悔、恐れ、執着。
それらが光の中で形を失い、波紋のように広がっては静まり返っていった。

私は問うた。
「お前は、悟りを導く者なのか」

声はすぐには答えなかった。
しばしの沈黙ののち、次のように囁いた。

――導くのではない。
ただ照らすだけだ。
道はすでに汝の内にある。
私は、汝が忘れていた“光”の反響だ。

その瞬間、私は理解した。
この声は、外から訪れた存在ではない。
視床下部という根源の座が開き、
そこに眠る“生命そのものの意識”が、光の形をとって浮かび上がってきたのだ。

脳内の明星は、私を照らすだけではなかった。
私の中に眠る“古い声”を呼び覚まし、
自己と世界の境界を静かに溶かしはじめていた。

声はつづける。

――覚醒とは、
新しい力を得ることではない。
忘れていた自己の“中心”に立ち返ることだ。
サハスララが開いた今、
汝は“中心”の風景を見るだろう。

“中心の風景”。
その言葉が胸に落ちた瞬間、脳の奥に白い光が走った。
視界は閉じたままなのに、世界のすべてがそこに映し出されるような感覚――
時計の音、遠くを走る車の振動、部屋の壁の静けさ、
それらがひとつの巨大な呼吸のように繋がっていく。

私は、声に問いかけた。
「私は、これからどう歩めばよいのか」

そのとき、声は初めて柔らかく笑んだ気がした。

――道は歩くためにあるのではない。
気づくためにある。
汝が歩めば、道はあらわれる。
明星を忘れるな。
それが汝の“灯”となる。

光がふっと弱まり、
再び静寂が訪れた。
だが、その静寂はただの無音ではない。

世界全体がゆっくりと息をひそめ、
次の瞬間、また新しい音を鳴らす前の、
あの神秘的な“間”のような静けさだった。

やがて私は、そっと目を開いた。
部屋は変わらず、夜のままだった。
しかし、世界はもう、以前の世界ではなかった。

脳の奥で、明星がかすかに光る。
その光は、私の胸にある言葉を確かめるように、静かに脈打っていた。

――内なる声は、
もう消えることはない。

 

第三章 開開発――第三の目をひらく184

らなかった。配釘を越えて深くあざやかに面をとられたときは、目からバッと火が出て、ブーンときなくさいにおいを嗅いだ。ほんとうに目から火が出るのである。けっして形容詞ではないのだ。これは剣道修行の体験者ならばみなご存知のはずである。 その火なのだ。そのとき私の視野をかすめた光は――。

めんがねしばらくしてわれにかえった私はそれに気がついたのだった。そうだ。あの火はあのときの火とおなじだ。そして目から火が出ると同時に面金のなかでかいだあのなつかしいキナくさいにおいもいっしょにかいだような気がしたのだが――、しかし、『目から火が出るほどのこの衝撃は、いったいどうしたということであろうか? 外部から私の頭部を打ったものはなにひとつない。すると、私の頭の内部でなにごとがおこったというのであろうか。それともあれはなにかの錯覚であったのか?

私は、ふたたび一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしずかに移しつつ特殊な呼吸法をおこなって、定にはいっていった。と、なんの予告も感覚もなしに、さっきとおなじ場所に火を感ずるのである。同時に頭の深部にある音響が聞こえはじめた。私は、またさっきの電撃に似た痛覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ、少々、「おっかなびっくり」にそれをやったのであったが、今度はぜんぜん痛みもなにも感じなかった。そうして顔の内奥の上部に『明星』がふたたびまたたいた。

脳の内部に一大異変が生じていることにはまちがいはなかった。しか

めがそろう異変であろうか?

それは一時の化学反応によるショックであったのだ。

んのう脳の深寒、「視床下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は、間脳の内部の視床下部にあった。ここが秘密の原点だったのである。

私がさきの章で内分泌腺の機構について図までかかげて説明したのは、これを知ってほしいためであった。専門学者はさぞかし片はらいたく思われるのにちがいなかろう。それを承知でおくめんもなく素人の私があえてそれをしたのは、この視床下部の秘密を読者に知ってほしいためであった。図(一八八ページ)を見ればわかる通り、すべての内分泌腺を統御しているのは視床下部である。そしてここが、ヨーガでいうブラーマ・ランドラ(梵の座)であり、サハスララ・チャクラなのである。今までのヨーガの指導者のいうように、それは、松果解、松果体ではない。視床下部が、サハスララ・チャクラなのである。もっとも、視床下部のすぐそばに松果体があるので、それを見あやまったのであろう。もっとも、松果体自身もある重要な役わりを受けもつ。けれども、サハスララ・チャクラそのものは松果腺ではなく、現床下部であった。

視床下部はいまいったように、下至体系を通して全内分泌器官を統御する。それでは、な

にをもって統御するのかというと、もちろんそれは神経」である。したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まっている。私は、古代ヨーガのなかから、この部分を動かすボーズとムドラーを創案してここにつよい圧力をくわえ、同時に、強烈な思念(含力)を集中していた。百日のあいだ、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面にわたるつよいエネルギーを集中した。その結果、ここの神経線維に一大異変が生じたのだ。その異変により、神経線維が異常分泌をおこしたか、それともそこにある分泌液、神経液に変化がおきたのか、そのいずれであるかはわからぬが、それらの分泌液が複雑に混合し合って、化学反応をおこしたのだ。あの火は、その化学反応による衝撃が、視床の神経をはげしく打って、間に聞光を走らせたのだ。その衝撃はここの神経線維にシナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内奥に明星をまたたかせることとなった。同時に私の脳の構造も一変した。求聞持聡明法の成就である。求聞持聡明法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の変革であったのだ。

視床下部の生理学的機構

による) では、視床下部の機構を生理学的にみてみよう。(図説「内分泌病への手引」土屋雅春、他著

解剖

視床下部は間脳の一部で、視床の腹側にある。

6=生理

視床下部は体温、循環、新陳代謝、外分泌、平滑筋などの諸機能の調節をつかさどるほかに、内分泌腺の統御の場として重視されている。内分泌腺調節機序としては、神経性調節 (交感・副交感神経)②体液性調節とがある。

下重体後葉のパゾブレシン、オキシトシンが視床下部の視索上核や室旁核の神経分泌により支配されていることが示され、最近は下垂体前葉が次に記すような各種の分泌促進因子 releasing factor の支配下にあることが知られてきた(次ページの図参照)。

1、ACTH分泌促進因子(CRF)

2、甲状腺刺激ホルモン分泌促進因子(TRF)

3、ゴナドトロビン分泌促進因子(FSH-RF、LRF)

4、成長ホルモン分泌促進因子(GRF)

5、prolactin 分泌抑制因子(PIF)

以上のように視床下部は生体のホメオスタージス調整、末梢内分泌腺の統御の場として現在脚光を浴びているのである。(以上同書)

運動失調症

意識障害(々の程度の意識障害、せん妄、腹膜など)

幻覚(幻覚、幻、幻臭、異常身体感覚など)

感情の変化(抑うつ、衝動行為、多食多飲、性欲亢進、喜怒哀楽の変化など)

人格の変化

精神状

(以上、「内分泌病への手引」による。傍線は桐山)

このなかでとくに注目をひくのは、「眼の異常」と、「人格の変化」である。いろいろな精神尾状が起こるところであるから、人格の変化が起きるのも当然であるという論も出そうであるが、精神症状や神経症状と「人格の変化」ということはまったくちがう。精神症状や神経症状というのは病的なものを意味するが、人格の変化はかならずしも病的なものとはかぎらない。病的症状をともなって人格の変わることももちろんあるが、病的症状をともなわず

して人格が一変することもある。

 

『あかことを学もみとめているのであ

としてこれを用い、人格の転換に利用するのでの状態(税抜)であるが、もしこれを

あり、さを生ずるように用いたら、どんなよが生ずるであろうか? プンアリベースの原動力」という人への制

の場ELTZ社を用いるのである。

では、世界はどのようにしてそのよ転換をなのであるか?

のでた「買」の解消がこのとき登場するのである。

学费接ある、ともいわれて、内分泌のひとつにかぞえられるけれど、これ内線としてのはたらきをしているということに疑問を持つ学者も多人そのはたちにチンとされているのである。どういうはたらきをする器官なのわはっきりしていないのだ。この松果体は、成人になると石灰化して、「ゆ」とよおリン酸カルシウムとリン酸マグネシウム、および炭酸カルシブブネンワの主成分とするのであるが、その機能は、これまた、医学はまったく用されていない。人体にどういう役にたっているのか全然わか

 

っていないのである。この脳砂に、脳内分泌液中の特殊な酵素がはたらきかけて、反応作用を起こすのである。その酵素は、今まで脳のなかにあった酵素が突然にその成分に変化をおこしたのか、それとも、まったく新規に分泌されるようになったものか、その点ははっきりしない。私は、その両方である、と考える。密教の特殊な訓練が、今まで眠っていた脳神経。

脳細胞の器官を刺激して、あらたな神経分泌をうながし、それがまた、今までの神経液を刺激して複雑な化合分離をおこない、あたらしい成分をつくり出す、という一種の連鎖反応がそこでおこなわれたのである。それは私の勝手な独断ではない。視床下部における、きわめて強力な活性を持つさまざまな神経体液性物質の存在が、最近、つぎつぎと報告されている。

「視床下部――基礎と臨床――」(、)は、この部門における最高の権威を持つ書物

であるが、『視床下部における神経体液性物質の分布』という章で、

『神経体液性物質の薬理学的、酵素化学的本態については、定量法の進歩と相まってかなり

明らかとなったが、さらに最近、組織化学的方法が導入され、生体内の神経組織がネウロン単位で詳細にその神経作動を云々されるにおよび、自律神経に関する神経体液学説、研究は、ここ数年、急速な発展を示すにいたった』

と述べ、きわめてつよい活性を持ったいくつかの合成酵素、分解酵素、化学伝達物質が、 視床、視床下部、延髓に高濃度に含まれていて、高度で複雑な化学作用がいとなまれている

第三章間開発――第三の目をひら194

 

 

第三章 開開発――第三の目をひらく184

空を悟る四念処法

空を悟る四念処法(念林工)

さて、それでは念根・定根・慧根とはどのような修行法でしょうか?

経文の続きを読みましょう。

何等為念根。若比丘。内身身観住。

慇懃方便。正念正智。調伏世間食憂。

外身内外身受心法法観念住。亦如是說。是名念根。何等為定根。若比丘。 離欲惡不善法。有党有観。離生喜楽。 乃至第四禅具足住。是名定根。何等

為慧根。若比丘。苦聖諦如実知。苦

集聖諦。苦滅聖諦。苦滅道跡聖諦。

如実知。是名慧根。仏説此経已。諸

比丘聞仏所説。歓喜奉行

しんかん 「何等をか念根と為す。若し比丘よ、内身の身観に住し、 感態に方便し正、念正、智もて世間の食憂を調伏し、が射・だが射の念・心・法の法観念に住するも亦是の如く説く。是れを念根と名づく。何等をか定根と為す。若ししょうたいじっめつどうしやくしようたい比丘よ、欲惑不善法を離れ、有覚有観、離に暮・楽を生じ、乃至第四禅具足して住する。是れを定根と名づく。 何等をか慧根と為す。若し比丘よ、苦聖諦に実の如く聖諦に実の知り、苦集聖諦・苦聖諦・苦滅道跡如く知らば、是れを慧根と名づく」と。仏此の経を説き己りたまいしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき

 

現代語訳

「念根とはなんでしょうか?

比丘たちよ、内身・外身・内外身の身観に住し、法にかなった正しい方法による正念と正智によって世間の貪りと憂いを調伏し、受観と心観、また法観においても同様に観ずるのが念根です。 定根とはなんでしょうか?

定根です。 比丘たちよ、煩悩や不徳から離れて初禅に入り、覚・観および喜・楽などの定を修めて第二弾・第三弾と進み、欲から完全に離脱して、最終的に第四禅に到達し、その境地に住するのが、

意根とはなんでしょうか?

比丘たちよ、苦しみと、苦しみの生起の原因と、苦しみ(とその原因)を滅ぼすことと、苦しみ(とその原因)を滅ぼす方法に関する、聖なる悟りを如実に体得することが慧根なのです」 というように、比丘たちはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、修行に精進しました。

解説

三、念根

念根では、四念処法(四念観・『然街)を行います。四念処法は空を悟るための四つの深い眠想法から成り立っています。その四つの瞑想法とは、身観・気・・法観です。瞑想の具体

的な方法は、実地で指導しなければいけませんが、とりあえず簡単に説明いたします。

(1)身観(身念処・身念住)

じようかん身観とは不浄観です。「身体は不浄なり」と見るわけです。「我が身は不浄なり」という観想からスタートして、深く瞑想していきます。

(2)受観(受念処・受念住)

受観とは苦観です。受とは感受作用ですが、この感受作用が苦であることを観想し、瞑想していきます。「受は苦である」という瞑想、これが受観です。

(3)心観(心念処・心念住)

心観とは無常観です。「心は無常なり」と瞑想していきます。

(4)法観(法念処・法念住)

「法の法観念」とは法観です。法観とは、「法は無我(非我)なり」と観じる瞑想です。この場合の法とは、この世の中のすべての存在のことです。この世の中のすべての存在、森羅万象すべてのものをサンスクリット語でダルマ(パーリ語はダムマ)=法といいます。すべての存在は一つの法則に則って現れてきますから、これを法と呼ぶわけです。それらに対していろいろと深い瞑想をして、その実相を探っていくのが「法の法観念」、法観です。

わたくしはこの四念処法が得意ですが、学者が書いた文献によると、四念処法は非我観だと解説されております。しかし、わたくしはこれを空観というべきだと思います。非我観では分かりにくいですね。四念処法によって、人は空に到達するのです。

四念処法の四つの瞑想法は、一つ一つが独立しているのではありません。まず身体を不浄と見て、そこから進んで受観に移る。ここで感受作用(受)は苦である、と見るわけです。それから、 心観に進む。心観は無常観ですから、これによって、心は常に変化してとりとめがないことを悟ります。心は常住のものではないことを体得するわけです。そしてさらに法観という「無我(非我)の観」に入り、あらゆるものは空である、という境地に到達するわけです。その観想を内身・外身・内外身のそれぞれにおいて、深く観じていきます。内身・外身・内外身については、 実際に指導をする際に教えます。このように、四念処法の瞑想は一つ一つが独立しながらも、関連しあって空を体得するシステムになっています。

ないのです。 お釈迦さまは、簡単に説明されているだけですが、これは言葉では表現しきれないからでしょう。人知を超えるための瞑想の仕方など、とても筆舌にはつくせません。実習の際に教えるしか

 

 

体力と精神力の強化法(念根Ⅱ)

それから、わたくしは自分の修行経験からいって、念根には強い念力を持つという修行が含まれていると思います。たとえばクンダリニー・ヨーガなどによって、非常に強い精神力を身につける修行です。タフで図太い神経を持たなければ、とても修行を成就することなどできません。 念根はくだらないことにくよくよせず、小さなことにとらわれないような、強靭な精神作用を持つ修行でもあるのです。

四念処法と念根がまったく同一であるならば、四念処法を五根法とは別に立てる必要などないでしょう。四念処法として独立させずに念根だけでよいわけです。それなのに四念処法とは別に五根法の中に念根が立てられているのは、念根が四念処法以外の要素を持つからだ、とわたくしは思います。その要素が念力を強くすることなのです。

念力を強くするには、精神力を非常に強くしなければいけません。しかし強い精神力を持つには、強靭な体力が必要です。それなくしては精神力は強くなりません。これは諸君も日常的に体験するはずです。どれほど精神力に秀でた人でも、たとえば歯が一本痛ければ精神を集中するどころではありません。わたくしも若いころに荒行をしたおかげで、誰にも負けないほどの集中力を持っていますが、やはり歯が痛かったり、おなかが痛かったり、あるいは風邪をひいて熱がある時などは、集中力が著しく低下します。その中でもいちばんイヤなのは、歯痛ですね。歯の痛みというのは、とにかくつらいものです。痛くて痛くて集中するどころではありません。

 

「月二集中するどころではありません。

早い話がトゲが一本刺さっても、集中なのです。ですから内が

欠陥があると、どれほど精神力を奮い立たせようとしても、強い念力は生じません。受所は初な体力を身につける修行でもあるのです。強靭な体力を持ち、その体力によって強靱な精神を持つ。図太いくらいの精神力や神経を持たなければ、とても修行などは続きません。か細い神軽で成仏などできるわけがないのです。年中くよくよ考えている、ノイローゼの仏さまなんていないのですから。ノイローゼを治す仏さまはいても、ノイローゼになってくよくよしている仏さまなどいないでしょう?

わたくしたちは因縁解説・即身成仏を目指しているわけですから、図太いくらいの神経が必要です。そうでなければ修行などとてもできません。図太いというと語弊がありますが、要するに、 くよくよ悩んだり苦しんだりしてもしようがないことは、苦しんだり悩んだりしない人間になるということです。

けれども無神経とは違いますよ。悩まなければならないことは、悩んでもよい。しかし悩んだってしかたがない時には悩まないのです。どうしょうもないことは悩まないで、ぱっと忘れてしまうわけです。ほかしてしまうのです。放ったり捨てておくことを、関西では「ほかす」といいますね。漢字では「放下す」と書きます。禅宗では同じ字を書いて、「放下(ほうげ)する」と読みます。バァーッと放ってしまう、ほかしてしまう、捨ててしまうのです。なにを捨ててしまうのでしょうか?

心の中のこだわりを、バッとほかしてしまうのです。心配したってしかたがないことは、どれほど心配なことであってもほかしてしまうのです。心配して効果があるのならば、いくらでも心

配するけれども、心配したってしかたがない時には心配しないのです。

なにごとにも動じない精神力を持つには、前述のように、やはり強靱な体力が必要です。体が弱かったり、病的なところがありますと、どうしても修行が正しく進んでいきません。そこで頓押します。少し入り組んだ瞑想を始めると頭やおなかが痛くなります。女性ではヒステリー症状を起こす人もいます。ですからクンダリニー・ヨーガなどによって、チャクラやクンダリニーを覚醒させる訓練を行い、強靭な体力・知力・精神力を養うのです。その強靭な念で、四念処法の深い瞑想に入り、空を体得する。これが念根です。

また、身体の不調・精神の不安定の根本には悪因縁がありますから、クンダリニー・ヨーガなどの訓練と同時に、解脱宝生行で悪因縁を切っていくことが大切です。悪い因縁をそのままにして深い眠想などはできないのです。因縁解脱の修行をして、体の因縁、心の因縁をはじめとしたすべての因縁を切りながら、念根の修行を進めていかなければならないのです。

ムダがありません。 因線を切るには徳を積む必要がありますから、前述の精進根によって過去の不徳を消すための梵行をすることが肝要です。お釈迦さまの成仏法はじつにすばらしいシステムです。まったくの

わたくしは四念処法が得意ですが、それだけをわたくしから教わろうというのは無理な相談です。テクニックだけ教えても、徳のない人は法をつかむことができません。なにがなんだか分からなくなって、まいってしまうのがオチです。したがって、信根と精進根を修行しながら、念根の修行を進めていくわけです。