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Mac

守護仏 Guardian Buddha

守護仏 Guardian Buddha

闇を裂く光よ 守護仏の名において
宝塔の輝きは 魂を包み込む
深層の影さえも 震えて消えゆき
聖なる波動は 未来を開く

On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

On Abilaunken Bazar Dato Bang

 

守護仏よ われらを導け
金色の光で 鎖を砕け
不幸を超え 解き放たれて
永遠の空へ ともに昇らん

On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

On Abilaunken Bazar Dato Bang
Light that tears through the dark, in the name of the Guardian Buddha
The radiance of the jeweled tower embraces the soul
Even the shadows of the deep tremble and fade away
The holy vibration opens the path of tomorrow

On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

On Abilaunken Bazar Dato Bang

Guardian Buddha, lead us on our way
With golden light, break the chains apart
Beyond all sorrow, set us free at last
Together we shall rise into the eternal sky

On mo shutta mani juntei abara jita tani tei sowaka

On Abilaunken Bazar Dato Bang

 

 

るし、社会からの制裁もうけなければならない。周囲のひと、ことに家族は大きな迷惑をうける。では、どうしたらいいのか?

守護仏の霊波による解脱成仏

げだつじようぶつまず、守護仏を本尊とする成仏法を修して、浅田家にかかわる四体の霊障のホトケを、解脱成仏させるのである。

これがまず第一になされねばならぬ作業である。これをしなければ、ほかにどんなことをやっても、効果はない。わたくしは、さきに、

『特殊な祖先の欲求・葛藤は、たしかに本人の無意識の意識層にあるのであるが、それを動かす衝動は、他の存在から来るのである」(九一頁参照)

とのべた。これが、それなのである。

わたくしが、「他の存在」というのは、自分を動かす力が、自分の内部にあるものからだけくるのではない、という意味である。外部からきて、自分を動かすものがあ

るのである。

具体的に説明しよう。

L・ソンデイ博士の若い頃の体験を例にとると、ソンデイ中尉は、悲惨な結婚をした異母兄とまったくおなじ条件の女性と恋愛し、結婚するところであった。ソンデイ博士のいう「運命の反覆」であるが、この「運命の反覆」はどこからきたのか?

ソンディ博士は、特殊な祖先(この場合は異母兄)の欲求・葛藤だといっており、 それがソンデイの無意識の意識層に抑圧されていたのである、と説明している。それが、ソンデイ中尉の無意識の意識を動かして、異母兄とまったくおなじ条件の女性を愛するようにさせたというのである。

うのだ。 しかし、わたくしはそれだけではないと思うのである。ソンデイ中尉の無意識の意識の中の、異母兄の欲求・葛藤を、他(外部)から、刺激し、動かす力があったと思

というのは、この異母兄とソンデイとは、まったく血のつながりがないのである。

異母兄なのだ。遺伝的にかれから受けつぐものはなにもないのである。げんみつにい

霊障による不幸や苦しみのかずかずー

うならば、祖先ではないのである。

だから、せいぜい、幼時に耳にした「異母兄がある女性と結婚して不幸な生涯を送った」というおぼろげなはなしくらいであろう。そうして、それが、あるいはソンデイの無意識の意識に刻みこまれたかも知れない。その程度のものだ。

しかし、それが突如、動き出して、ソンデイを「反覆行動」に駆り立てた。それはどこからきたのか? ソンデイ博士は「それがどこからきたものかわからないが、この強制意識の流れに乗ってはいけないことだけはわかった」と論文に書いている。 その強制意識はどこからきたのか?

「他の存在」からきたのだ、とわたくしはいう。他の存在からきたものが、ソンデイ

中尉の無意識の意識のなかにあるものを動かしたのである。

では、その「他の存在」とはなにか?

霊障のホトケ、とわたくしが表現する存在である。

ソンデイ中尉の場合は、霊障のホトケとなった異母兄のつよい「欲求・葛藤」が、 ソンデイ中尉を動かしたのである。

どのようにして動かしたのか?

靠的精神感応である

明らかに、霊障のホトケは、特定の個人と、或る種の精神感応があるとわたくしは思うのだ。霊障のホトケの、その精神感応によって、その個人はつよい影響を受け、 動かされてしまう。この「他の存在」つまり霊障のホトケが元なのであるから、これを消滅させなければ、なにをやってもだめなことは当然である。

では、どうやって、その「他の存在」を消滅させるのか? 守護仏を本尊とするシ *カの成仏法のみが、これをなすことができるのである。

そして、つぎに、守護仏をまつった宝塔をいただいて、本人が毎日、因縁解脱の勤行をするのである。

これにより、本人の深層意識の奥にひそむ特殊な祖先の欲求・葛藤が消滅してゆくのである。その結果、「衝動」もまた消えて、生じなくなる。

そういうと、どうしてなのか? どうして守護仏の宝塔に、そういう力があるの

か? と質問するひとがすくなくない。

霊障による不幸や苦しみのかずかず102

 

それは、守護仏にはそういう力があり、だから守護仏なのだ、と答えるしかないのであるが、それだけではなっとくできないひともあるかもしれない。わたくしは、こう思うのである。

しょうしんバイブレーション守護仏は、生身の仏であるから、特殊な波動を放射している。霊的な波動であるから、霊波、といってよい。真言密教では、これを、「金色のが光明」と表現している。(如意宝珠法・本尊観) によいほうじほう はんぞんかん

これは、純粋最高の霊波である。ひとの深層意識、無意識の意識層に浸透する力を持っている。これを、かりにわかりやすく「ブラスの波動・聖なる波動」とよぼう。

一方、霊障のホトケを持っているひとは、その無意識の意識層に、霊障のホトケの懸念(ソンデイのいう祖先の特殊な欲求・葛藤)をうけている。これは「マイナスの波動・邪悪の波動」である。さきに、わたくしは、フロイトの学説を紹介した。

1、無意識の意識は、自分の知らない他人の意志によって動かされる。

守護仏の霊波による解脱成仏

103

霊障をうけているひとは、一種の催眠状態である。というのは、無意識の意識からの衝動によって動かされているからだ。フロイトは、無意識の意識は他人の意志によって動かされるといっているが、わたくしは、むしろ「動かされやすい」と考えている。催眠状態に入っているひとは、暗示(つまり他からのはたらきかけ)に非常に動かされやすいのである。ときには、動かされることを期待している状態のことさえあるのである。つまり、霊障のホトケからの衝動・精神感応に非常に動かされやすいのだ。

バイブレーション催眠状態のひとは、このように、波動に非常に動かされやすいのである。それは、「マイナスの波動・邪悪の波動」でも「ブラスの波動・聖なる波動」でも、おなじことである。

ここまで説明すれば、もはやおわかりであろう。

守護仏宝塔の前で、できるだけ無我になって―――というのは、表面意識のはたらきをなくして、無意識の意識層をひらく、ということである――そして、勤行をするのである。

霊障による不幸や苦しみのかずかず-104

無心・無我になれさえすれば、べつに勤行しなくてもよいのだが、それは難事であるから、勤行という無我になる様式をおこなうわけである。

この勤行により、『金色の大光明”(霊波)を、わが無意識の意識層に浸透させるのである。成仏法によって、元凶である霊障のホトケは消滅したが、無意識層に残る抑圧・葛藤は、後遺症としてふかい精神傷痕となっている。守護仏の聖なる霊波でこれを消滅させ、さらにこれを浄化し、高揚させるのである。 こうよう

絶望の淵からひとを救う守護仏の力

わたくしは、成仏法を修して、浅田家にかかわる四体の霊障のホトケを解脱成仏させた。非常につよい怨恨のホトケであった。三回の修法を必要としたのである。

英子君は鑑別所にいるので、宝塔の勤行は、お母さんが代わりにすることになった。これを、代行、あるいは身代りの行ともいう。

ちなみにヒューストン氏も、おなじように代行であった。睦子さんが代行をした。

のホトケであった。 かれの場合は、二体のホトケを成仏させた。一体はかれ自身、一体は睦子さんの実家

浅田英子君は、大きく変化しつつあるようである。

お母さんの報告によると、面会にいっても、前のようにふてくされたり、突っぱった態度が見られなくなったという。なによりも、人相が変わってきたのにおどろいたという。つまり、本来の浅田英子にもどりつつあるということであろう。悔悛の情いちじるしい英子君は、そう遠くない将来、両親のもとに帰ってくるであろう。

しかし、本来の浅田英子にもどったかの女は、これから、じつにつらい人生を歩むことになろう。罪悪感のなかったかの女に、罪悪感がもどってきたとき、悔恨地獄に落ちるのではあるまいか。つくづくかわいそうだと思う。

本来の浅田英子にもどったにしても、ここ三、四年のあいだに、かの女の失ったものは、あまりにも大きかった。

どうやって、それをとりもどすか? とりもどすことが果たして、できるのであろうか? 至難の業といっていいだろう。

霊障による不幸や苦しみのかずかず

おそらくは不可能であろう。それにまた、家族のうけた打撃がある。これも回復困難と思われる。まず、不可能といってよいのではないか。もしそれがなし得たら、奇蹟といってよいだろう。

その奇蹟をよび起こす方法が、ただ一つ、ここにある。

守護仏である。

かの女とかの女の家族たちが、一心に守護仏の守護をうけてゆくならば、それはかならず可能になるであろう。

のヒューストン・リード氏の例があるではないか。また、ここには載せるスペースが足りないが、じつにかず多くのひとびとが、守護仏の力により、絶望の淵から奇蹟的に救い出されているのである。浅田英子君と、浅田家の家族たちが、心から笑い合える日が、遠からず、かならず来ると、わたくしは確信しているのだ。

ただ――、わたくしがいま、つくづく思うことは、浅田家がもっと早く、そう、英子君がまだ幼少のころから守護仏の宝塔をいただいて、守護仏の守護をうけていたら、こういう不幸なことにはならなかったであろうということだ。いまさらいっ

ても読ないことであるが、つくづくそう思うのである。

そこで――、わたくしは、世のひとびとに警告したいのだ。こういう不幸をできるかぎりすくなくするために――。

子供が生まれたらできるだけ早く、守護仏宝塔をいただいて、その子の守護仏とす

るのである。できれば、お七夜のときがよい。いや、妊娠したら、もうその時点で、

生まれてくる愛児のために、守護仏を準備しておくことである。世の親たちは、生ま

れてくる子供のために、龍ぎをととのえる。まだ見ぬ子のおもちゃまで買ってくる子

ぼんのうの親さえいる。それくらいだったら、生まれてくる子のために、守護仏をうけておいたらどうなのか。それがどんなに大切なことか、つぎの章でのぺるが、宝塔

をおうけしたら、無心の幼児のころから、一日数分でよい。宝塔の前に坐らせ無心に合掌させるのである。小さい赤ちゃんだったら、宝塔を奉安した前で、違い道いさせ

て遊ばせるだけでよいのである。特殊な祖先の欲求・葛藤など、かならず抑制できる

のである。さらに、そういう祖先がいるようであったら、解脱成仏させてしまうのである。これで完全である。

置障による不幸や苦しみのかずかず

108

絶望の淵からひとを救う守護仏の力

 

106絶望の淵からひとを救う守護仏の力

夜更けの部屋で、青年はひとり机に向かっていた。ランプの灯りは弱々しく、ページに落ちる影がゆらめく。彼はふとペンを止めて、胸の奥に奇妙なざわめきを覚えた。

――おまえは、本当におまえ自身なのか。

誰の声ともつかぬ囁きが、心の底から立ち上がる。それは彼の声でありながら、彼の知らぬ声だった。

「馬鹿げている。自分はひとりだ。自分以外の自分なんて……」
そう打ち消そうとした瞬間、彼の手は勝手に動き、ノートに文字を走らせた。そこには、自分の意識とはまったく無関係な言葉が並んでいく。

《わたしは、おまえの中にいる他人だ》

青年は凍りついた。手を止めようとするが、まるで自分の身体が自分のものではないかのように、ペンは動き続ける。

人間とは、ひとつの統一とは信じたくなかった。だが、今まさにその「他人」が自分の指を動かしている。

彼は恐怖と同時に、妙な確信を覚えた。人はみな、自分の知らぬ自分を宿しているのだ。意識の奥底に沈む影のような心が、意志や決意をすり抜け、ふとした瞬間に姿を現す。

思い出す。かつて本で読んだフロイトやジャネの言葉――「無意識」「意識の下部形態」。それは学説でも空想でもなく、いま自分の身に起きている現実なのだ。

青年はノートを閉じ、震える息を吐いた。
闇の中で、誰かが自分を操っている。いや――その「誰か」は、紛れもなく自分自身なのだ。

哲学的独白調バージョン

人間とは、決して統一されたひとつの人格ではない。
わたしの中には、わたしでありながら、わたしではない者が潜んでいる。いや、潜むどころか、しばしばその者がわたしを動かし、語らせ、選ばせているのだ。

わたしが「自分の意志」で行動していると信じているとき、その背後で、まったく別の声が指揮をとっていることがある。わたしは一体、何者に導かれているのだろうか。

ふとしたときに思う。
怒りに駆られて口を開いたとき、それはほんとうにわたしの言葉だったのか。
愛や憎しみの衝動に押し流されるとき、そこにいるのは誰なのか。
――その瞬間、わたしは「わたしでないわたし」にすり替わってはいないか。

哲学者たちは「意識の主体」を語り、心理学者たちは「無意識の力」を説いた。けれど、学説を越えて、わたしは日常のなかでそれを知る。
理性の衣をまとった自分の下に、無数の声が渦巻いていることを。
そして、それらの声は、まるで「アカの他人」のようでありながら、どうしようもなく「わたし自身」なのである

わたしは一人ではない。
わたしの中に他者が住む。
その他者と、わたしは折り合いをつけ、あるいは闘い続けながら、今日も生きているのだ。

哲学的随筆風

人間は、ひとつの統一された人格で成り立っているわけではない。むしろ、わたしたちは幾人もの自分を抱え込んでいる。ときには、自分の中に自分ではない自分――まるで他人のような存在――がひそんでいることさえある。

多くの人は、その事実を意識せずに生きている。自分を動かしているのは、自分自身の意志だと信じて疑わない。しかし現実には、そう単純ではない。むしろ、自分を動かすものが「自分ではない自分」である場合の方が多いのではないだろうか。

無意識の作用。これを最初に本格的に論じたのはフロイトである。彼は、わたしたちの精神生活の背後に「意識されない心」が存在し、それが意識的な決意を超えて行動を方向づけていることを示した。フランスの心理学者ジャネもまた、人間の心を多層的な階層として捉え、表層の意識の下に「意識の下部形態」があると述べた。

こうした学説は、わたしたちが体験として感じることを裏づけている。たとえば、思いがけない言葉が口をついて出るとき、あるいは理性では抑えきれぬ衝動に突き動かされるとき、そこに現れているのは、意識している「わたし」ではなく、無意識にひそむ「別のわたし」である。

人は誰しも、「自分のほかに自分はいない」と思い込んでいる。しかし実際には、自分の奥深くに「もう一人の自分」を宿している。そしてその声は、ときに協力者として、ときに敵対者として、われわれを動かし続ける。

わたしはひとりであり、同時に複数である。人間の本質は、この分裂を抱えつつ生きるところにあるのかもしれない。

 

哲学的随筆風

人間は、ひとつの統一された人格で成り立っているわけではない。むしろ、わたしたちは幾人もの自分を抱え込んでいる。ときには、自分の中に自分ではない自分――まるで他人のような存在――がひそんでいることさえある。

多くの人は、その事実を意識せずに生きている。自分を動かしているのは、自分自身の意志だと信じて疑わない。しかし現実には、そう単純ではない。むしろ、自分を動かすものが「自分ではない自分」である場合の方が多いのではないだろうか。

無意識の作用。これを最初に本格的に論じたのはフロイトである。彼は、わたしたちの精神生活の背後に「意識されない心」が存在し、それが意識的な決意を超えて行動を方向づけていることを示した。フランスの心理学者ジャネもまた、人間の心を多層的な階層として捉え、表層の意識の下に「意識の下部形態」があると述べた。

こうした学説は、わたしたちが体験として感じることを裏づけている。たとえば、思いがけない言葉が口をついて出るとき、あるいは理性では抑えきれぬ衝動に突き動かされるとき、そこに現れているのは、意識している「わたし」ではなく、無意識にひそむ「別のわたし」である。

人は誰しも、「自分のほかに自分はいない」と思い込んでいる。しかし実際には、自分の奥深くに「もう一人の自分」を宿している。そしてその声は、ときに協力者として、ときに敵対者として、われわれを動かし続ける。

わたしはひとりであり、同時に複数である。人間の本質は、この分裂を抱えつつ生きるところにあるのかもしれない。

文学的随筆風(漱石・三木清ふう)

人間は決して、単一なる人格にて完結するものではない。われわれの胸中には、幾人もの「われ」が潜み、互いに相克し、あるいは和合しつつ日々を営んでいる。ひとつの身体にして、心は群像のごとし、といえば言い過ぎであろうか。

しばしば思う。われは自らの意志にて行動すると思い込んでいる。しかし、ふとした折、その意志を裏切る衝動に駆られる。口を衝いて出る言葉は、はたして「われ」のものか。怒りに燃え、あるいは愛に惑うその時、そこに立つのは果たして誰なのか。――その姿は、もはやわれに似て、しかして他人のごとし。

フロイトはこれを「無意識」と名づけ、ジャネは「意識の下部形態」と呼んだ。名はどうあれ、要は意識の光の及ばぬ深みより、別なる声が絶えずわれに呼びかけているのである。その声は理性をあざむき、決意を翻し、ときにわれを己ならぬ方角へと導く。

ゆえに人間は、己ひとりでありながら、また己にあらざる他者を抱く。かの他者は、敵にして友、異邦にして血族。われわれはその声に抗い、また従いながら、ひとつの生を紡いでゆくのである。

人間の本質とは何か。――それは、己の中の「己ならざる己」との終わりなき対話にほかならぬ。

詩的思想随筆

人間はひとつの顔で立っているように見える。けれど、その奥にはいくつもの影が寄り添い、折り重なっている。ひとりの中に幾人もの「わたし」がいるのだ。

あるとき、それは「夢の旅人」として現れる。眠りの深みに降りるとき、旅人は言葉を持たぬまま歩き出し、わたしの知らぬ景色を彷徨う。そして目覚めたとき、わたしの胸に不可解な余韻だけを残す。

またあるとき、それは「声なき同居者」としてわたしを見つめる。怒りに駆られて口を開いたとき、その声はほんとうにわたし自身のものだったのか。愛に震える指が差し伸べられるとき、それを導いたのは誰だったのか。同居者は沈黙しながら、しかし確かにわたしを操っている。

哲学はそれを「無意識」と呼び、心理学は「下部意識」と名づけた。けれど、名を変えても実相はひとつ。――わたしの中には、わたしであってわたしでない者が住んでいる。影のように寄り添い、ときに友となり、ときに敵となり、わたしの行いを左右する。

人間の生とは、己の中の「影」との果てなき対話にほかならぬ。光があるかぎり、影は消えぬ。われわれはその影を追い払いながら、しかもその影に導かれつつ、一歩一歩、人生という道を歩いてゆくのである。

「純粋詩」のかたちにしてみます。思想の骨格は残し純粋詩化バージョン

ひとは
ひとつの顔をして
いくつもの影を抱く

夢の旅人は
夜の奥で歩き
知らぬ景色を残す

声なき同居者は
怒りを語り
愛を震わせる
――だがそれは誰なのか

影は
わたしであり
わたしでは

光があれば
影は消え
影があれば
わたしは揺らぐ

わたしは
影と共に
ひとつの生を
紡いでゆく

 

今日の運命 Today’s Fate 今日缘分  2025年8月27日′

乙巳 二黒土星 歳
甲申 五黄土星 節
戊辰 八白土星 日

八白土星の日

内輪もめが起こりやすい。格別慈悲心が大切の日。もうけ話は損失となりやすい。

普賢菩薩

あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

名サマンタバドラ (Samanta bhadra) の「サマ 「タ」は「く」、「バドラ」は「賢」と漢訳しま す。 「賢」とは具体的には「さとりを求める心か 起こる、成仏しようとする願いと行ない」のこ とです。それが、ときとところを選ばず在して いるということを象徴したのがこの菩薩です。 で すから、菩薩行を実践する者をつねに守護するほ とけでもあります。

白象に乗り、文殊菩薩とともに釈迦如来 の脇侍をつとめます。 文殊菩薩のに対して、 (行)をつかさどります。

なお、密教では、堅固不壊の菩提心を象徴する

金剛薩埵と同体とします。

と巳年生まれの人の守り本尊とされていま

普賢菩薩(ふげんぼさつ)とは?

普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。

文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。

ちなみに普賢菩薩から派生した仏に延命のご利益のある普賢延命菩薩があります。

ご利益

女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされています。また、辰・巳年の守り本尊です。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像容

白象に乗っている姿が一般的です。3つや4つの頭の象に乗っている場合は普賢延命菩薩像の可能性が高いです。

  • 自分、自分と

る。人間とは、決して、統一されたひとつの人格から成り立っているコニー

である。自分の中に幾人もの自分を持っている。いや、ときには、自分の中に自分で

はない自分――他人がひそんでいることさえあるのである。

ほとんどの人がこの重大な事実を知らないでいる。

自分の中で自分を動かす自分でない自分

人間はだれでも、自分を動かすものは自分であると思っている。すべて、自分の意志、自分の考えで、自分は行動していると思っている。

25―自分の中で自分を動かす自分でない

 

ちがうのである。

ときには、自分でない自分が、自分を動かしていることがあるのである。いや、むしろそのほうが多いといってよいだろう。それどころか、自分の中にひそむアカの他人が、自分を動かしていることさえあるのである。

そういうと、そんなバカなことがあるものか、といわれるかもしれない。自分の中に、なんでアカの他人がいるものか、自分はどこまでも自分であって、自分のほかにどんな自分がいるというのか、そういわれるかもしれない。

そうではないのである。

ひとはだれでも、自分のほかに自分はいないと思っている。そうではないのだ。自分の奥ふかくに、自分でない自分を、だれでも持っているのである。そうして、それがわれわれを動かし、さまざまな行動・選択にかりたてるのである。

たたかそれどころか、それは、われわれにたいして闘いをいどんでくることさえもあるのである。

信じられない! とあなたはいうかもしれない。しかし、じっさいに、そうなのだ。

 

どんな自分なのか? では、自分の中にひそんでいる自分の知らない自分、自分の中のアカの他人とは、

わたくしたちの心の中には、自分のものではない心が、いくつもひそんでいるのである。わたくしたちは、心、というと、自分が意識している心のほかにはないと思っている。

そうではないのである。わたくしたちの心の中には、自分でも気がつかない、意識しない心があるのである。心理学がそれに気づいたのはそう古いことではない。それまでは、心とは意識するものだと思われていた。つまり、あらゆる精神現象には意識がともなうもので、精神生活とはすなわち意識生活である――これがそれまでの考えだったのである。

一八〇〇年代のおわりから一九○○年代のはじめにかけて、ウィーンの医師ジクムント・フロイトが、心の表面にあらわれない無意識の心――潜在意識についての考察を深めつつあった頃、フランスの心理学者ビエール・ジャネもおなじように、 心の奥に意識されない心があって、それが、人間の行動に大きな影響をあたえているなじように、人間の

27――自分の中で自分を動かす自分でない自分

ことに気づきはじめていた。

かれは、人間の人格がいくつかの階層をなしていると考え、わたくしたちが知っているのは、表面にある意識的階層だけであって、その下の層に無意識的な精神機構があるとして、それを「意識の下部形態」とよんだ。

この「意識の下部形態」が、フロイトのいう「潜在意識」であり、フロイトは、有名な「夢判断」その他の著作で、この無意識の意識の機構をあきらかにした。

フロイトによると、わたくしたちの精神生活は、わたくしたちが意識している部分だけのものではなく、意識的動機と合理的決意の背後には、意識する意識の場から除外された無意識の意識があって、それが、ほんとうの決定者なのだというのである。

それについて、フロイトは、若いころに経験した奇妙な実験を筆にしている。

奇妙な実験

まだ若い医者であったフロイトは、ナンシー(フランス西北部の都市)の精神医、

28

守護仏があらわす奇蹟のかずかず

 

 

まだ若い医者であったフロイトは、ナンシー(フランス西北部の都市)の精神医、

ベルネーム教授のもとに留学し、そこで奇妙な実験を目にしたのである。

教授が、被験者を催眠によって眠らせ、一定の時間に一定の行動――たとえば、目がさめてから三〇分のちに診察室中を四つん這いになって歩くように命ずる。この暗示をあたえてから被験者を目ざめさせる。

かれは完全に意識を回復し、しかし、催眠中に命じられたことは、なに一つおぼえ

ていない。だが、教授に指定された時間(三〇分のち)になると、かれはソワソワしはじめ、なにかをさがすふうをし、ついに四つん這いになる。そのとき、かれは、たとえば小銭とかボタンとかをなくしたなどともっともらしい言いわけをしながら、結局、命じられた通りに四つん這いの姿勢であちこちをさがし、診察室じゅうを一周するのだが、命じられたという事実を思い出すことは決してなく、あくまでも自分の自由意志でそうしたと信じているのである。

これは、「後催眠暗示」または「期限つき暗示」という実験であるが、フロイトは、 この実験から多くのことを学んだ。

この実験であきらかになったことは、

29

奇妙な実験

る。 1、無意識的精神がたしかに存在していること。なぜなら、被験者は命令を正確に理解し、記憶したからである。これは、生理学的器官ではできないことであ

2、無意識が、一定の時間を経てから、意識生活に影響を及ぼすこと。

3、意識的精神はそうした影響に動かされて行動を起こすが、そのようなときには、無意識の意識にそそのかされて起こしたその行動に、(捏造した架空のものだが意識的な)偽りの動機を付与すること。(つまり前記の、小銭とかボタンをなくしたなどという、もっともらしいいいわけ)

フロイトはこれらのことから、後年、かれの精神分析理論を、つぎのように展開す

以上である。

ることになるのである。 かれは、人間の誕生以後の最初の数年間を、催眠と非常に似ていると考える。その

守護仏があらわす奇蹟のかずかず30

数年間に、子供はさまざまな影響と暗示をうける。それらの影響と暗示は、子供が本

かしているのである。 来持つもろもろの欲望や傾向と、真っ向から対立する。その結果、子供のこころの深奥に、抑圧や葛藤、そして精神外傷が生ずる。あるいは、抑圧や葛藤や精神外傷を避けて、こころの深奥(無意識層の中)に逃げこんでしまう場合もある。しかしこれらのものは、そこにいつまでもじっとおとなしくひそんでいるということはない。表面に出る機会をつねにうかがっているのである。子供自体はもちろんのこと、おとなになってからも、かれはそれらのことをなにも思い出せないし、気づきもしない。しかし、かれが気づかなくても、それらはかれの行動にたえず影響をおよぼし、かれを動

して外にあらわれてくる。 それらの抑圧された無意識のなかの諸傾向は、けっして消滅するということはない。こころの奥ふかく社会的習慣の背後に身をひそめ、思いがけないきっかけを利用

そのあらわれかたはさまざまで、ときには、遊戯、戦争、迫害、犯罪などのかたちではげしくほとばしり出たり、あるいは、なんでもないような出来ごとのなかに隠れ

まもなく、N氏夫妻が信者になった、N氏四十六歳、夫人は四十八歳であった。N

氏は、当時、京都でも一、二という飲調問屋の主人であった。戦後、ヤミ市商人から顔をなしたというだけあって、商売はなかなかヤリ手という評判だった。もっとも、 ヤリ手は、奥さんのほうだったようだ。N氏は非常に温厚な人物で、十一、二年間、 わたくしはこの人の亡くなるまで親しくしていたが、一度でも大きな声を出した姿を見たことがなかった。中背の、丸っこい肥えた体で、いつもニコニコしていた。わた

くしは、この人柄が好きだった。

夫妻が信者になってまもなく、ぜひ一度、家に来てほしいとしきりにいうので、古本あさりに街に出た帰り、東山にあるN氏の家に寄った。りっぱな仏間があった。

「先生、お経をあげておくれやす」

というので、仏壇の前にすわった。

心経一巻、半ばまで読罰するかしないかに、わたくしの身に異変が生じたのであ

突如、のどがしめつけられるようになって声が出なくなった。呼吸ができない。涙

守護仏があらわす奇蹟のかずかず

34

がボロボロと流れる。鼻ミズが垂れてくる。

こんな苦しいことはなかった。背後にはN氏夫妻がすわって合掌している。醜態は 「見せられない。必死になって勤行を終え、終えるとすぐに座を立って洗面所に行った。顔じゅう、涙と鼻ミズでグシャグシャだったのである。 しゆうたい

座にもどって、

「Nさん、お宅にはたいへんなホトケさんがおりますね。どなたか、変死したホトケ

さんがそのままになっていますよ」

そういうと、N氏はそれほど驚いた様子もなく、

「え?先生、やはり出ましたか」

というのである。

これにはわたくしのほうがびっくりして、

「じゃあ、ご存じなのですか?」

というと、

「知っとります。そうでっか。じゃあまだ成仏しとらんのですな」

35――自分の中の他人が自分を動かす

奇妙な実験