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Mac

四種の呼吸法

四種の呼吸法

この本で教える瞑想の呼吸法は、四種の呼吸法から成り立つ。

一、長出入息呼吸法

二、出息呼吸法

はんしゃ

三、反式呼吸法

である。

四、強短息呼吸法(火の呼吸法)

簡単に説明すると、一の長出入息呼吸法は、出る息、入る息、どちらも、できるだけ細く長く深く呼吸する。一呼吸に二十秒から三十秒、一分くらい、時間をかける。

二の長出息呼吸法は、出る息のみをできるかぎり細く長く吐いて、吸う息はふつうに吸う。

三の反式呼吸法は、ふつうの呼吸とちがって、息を吸うとき、腹部をひっこ

 

にする。 そのためには、頭部、頸部の緊張を解くために、前頭部を心もち前に出し、 下顎を少し中へ引くようにして、頭部をやや下げるようにするとよい。同時に、前胸部も少しひっこめるようにし、腹部は少し前に出し、両肩は力を入れず、自然な姿勢をとる。背中は心もち前に曲げ、腹部の容積を大きくするよう

め、息を吐くとき、腹部をふくらませる。ちょうどと逆になるわけである。

四の強短息呼吸法は、「火の呼吸法」とよび、片方の鼻孔を指で押さえて閉じ、片方の鼻孔で強く短く呼吸する。

それでは、四種の呼吸法の訓練を説明しよう。

長出入息呼吸法の訓練

りき趺坐、あるいは椅子坐、いずれにしても、頭部、頸部をごく自然に、まっすぐ、きちんとした姿勢をとる。ただし、あまり緊張しすぎて力んだり、硬直したりしてはいけない。ゆったりと、リラックスすることが大切である。

 

る。 ことである。まず吐いて、つぎに吸うときから第一回の呼吸がはじまるのであ

に持っていく。 口と唇はごく自然に軽く閉じる。両眼も軽く閉じるが、かすかに外光を感じる程度にひとすじの隙間を残す。すなわち半眼にして、視線は、鼻の先、鼻頭

肛門をきゅっと締め、上へ引き上げるようにする。

まず、最初、軽く息を吸い、ついで口をすぼめ開き、力いっぱい吐き出す。

下腹部に力をこめ、上体を少し前に折りかがめるようにしながら、吐いて吐い

て吐き尽くす。このとき、前に書いたように、体中の悪気、不浄の気をことご

とく吐き出してしまう気持ちで、鳩尾が背骨にくっついてしまうくらいに、吐

くのである。吐き尽くしたら、また大きく吸い、二、三回、これをくり返す。 大事なことは、呼吸法をはじめるときには、かならず、まず最初に息を吐く

歯は軽くかみ合わせて、かみ合わせた歯の間を通して、ゆっくりと息を吐く。歯は上下が軽くふれるかふれない程度で、決して強くかみ合わせてはいけ

ない。

自然に、長出人意呼吸法に移る。

まず、軽く息を吸う。

歯の間を通してゆっくりと息を吐き終わったら、今度は唇を閉じ、歯をきちんと合わせて、鼻からゆっくりと吸うのである。

少しずつ、時間をかけて、鼻から空気を吸う。このとき、鼻から入ってくる空気の量をできるだけ少なくするために、鼻をすぼめて鼻腔をせまくする。こうずると、入ってくる空気の量が少なくなるだけではなく、せまくなった鼻腔の壁が空気でマサツされて、その刺激が脳に伝わり、脳の興奮を静める効果もあるのである。

また、息を吸い込むとき、舌の先を、上顎部(上の正面の歯ぐきのやや上能、つまり、ルートの父のところである)につける。なぜつけるのかというと、わたくしは、さきに、任脈と督脈のニルートは、元来一本の線であるとのべた。

しかし、じつは、口のところでとぎれているのである。これを、舌の先で接続

 

させるのである。これによって、じっさいに、任脈・督脈のニルートにのルートとなるのである。(ここから意念との共同訓練に入っていくのだ) そこで、ごく自然に息を吸い込んでいく。

かんげんきゅうびちゅうかんしんけつこのとき、息を吸い込む鼻の奥から、(任脈ルートの)鳩尾、中院、神闕(勝) を通って、男性は気海(勝の下約四センチ)、女性は関元(臍の下約八センチ)のところまで、一本の気管(プラーナ管)が通じていると観想せよ。太さは細めのストローくらいで、赤色である。

こんかんほうのうほうきゆうこの気管の根本、つまり根管部(気海、関元)に、胞宮という三センチ四方くらいの特殊な細胞の場のあることを意識せよ。胞嚢という、うすいオレンジ色を帯びた透明の袋と考えてもよい。鍛錬によって収縮・拡大するから、糞と考えたほうが把握しやすい。 ふくろ

みぞおち静かに深く息を吸い込んでいく。気管を通じて息はまっすぐに胞嚢に吸い込まれていく。吸い込む最初、鳩尾は軽くひっこみ、このとき、胞宮に強く意識をかけ、少し力を入れる。息が吸い込まれるにしたがって、爛尾はふくらみ、

収縮していた胞嚢もふくらんでいく。(注意。あとでのべる「反式呼吸法」のときは、この逆になる)

みぞおちず鼻からちょっと息を漏らす。これが非常に大切で、これをやらないと、胸から頭部にかけて圧がかかり、体を痛めるおそれが出てくる。腹式呼吸をやって、頭痛を起こしたり、内臓下垂で苦しんだりするのは、これを知らないからである。禅宗の原田祖岳老師が、原坦山和尚の極端な下腹入力禅をやったところ、頭が鳴って苦しくなった。また腸の位置が変則的になって難病をしたと本に書いておられる。注意が必要である。 はらたんざん

息を吸い終わったら、もう一度、軽く息をのみ、鳩尾は十分に落とし、肛門をぐっと閉じ、胞宮にウムと力を入れる。この力を入れるとき、同時にかなら

この肛門を締めて、胞宮にウムと力を入れる動作を、二、三回おこなう。

つぎに、長出息呼吸に移る。

胞宮に一段と力をこめ、下腹部を収縮させながら、どこまでも腹の力をもって静かに息を吐き出していく。ふくらんでいた胞嚢がしだいにしぼられ、収縮

していく。

「オン」

マントラ真言はつづいて、

このとき、息を吐き出しながら、それまで、上顎部につけていた舌を離し、 吐き出す息に乗せるような気持ちで、低い声で真言を語する。

真言を話しながら息を吐き出していく。静かに、ゆっくりと、できるだけ細く長く吐き出していく。息がすっかり出てしまうと、下腹はくぼみ、腹壁が背骨にくっつくような気持ちになる。つまり、そうなるような気持ちで吐き出していくのである。

吐き出し終わったら、また、静かに鼻で吸う。吸うときは、舌を上顎につけること。前とおなじである。

吸い込んだら、前と同じ動作で吐き出していく。前とおなじように、吐き出しながら、真言を誦する。 マントク

「シンタマニ」

 

「ダト」

「ウン」

で、これを、それぞれ、吐くひと息ごとに、一句ずつ、唱える。

「オン、シンタマニ、ダト、ウン」

この真言は、守護仏、仏舎利尊(輪廻転生瞑想法の本尊、準胝尊の本体)の真言である。深く念ずることにより、守護仏の加護を得て、魔境に陥ることなく、 無事、修行を成就するのである。

この長出入息呼吸法は、一呼吸についての時間は問わない。できるだけ細く長く、長出入息させるのである。

長出息呼吸法の訓練

前の、長出入息呼吸法は、出る息、入る息、ともにできるだけ長く細く呼吸するものである。できるだけ細く長く、というだけで、どれほどの時間をかけて細く長く呼吸するのか、という時間は問わない。

す。 この長出息呼吸法は、一呼吸を、一分間に三回ないし四回くらいにまで落と

しかし、長出息呼吸法は、時間が目安になる。

だいたい、成人の呼吸は、健康な人の平静な状態で、ふつう一分間に十八回とされている。

一般に虚弱体質の人は、息を吸う時間が非常に短い。重病人などは、肩でせわしく浅い短い呼吸をしている。虚弱体質でなく健康な人でも、興奮したり、 激しい怒り、おそれ、悲しみなど、心が激動すると、呼吸はずっと速くなる。 激怒して言葉が詰まったりするのは、呼吸が速くなりすぎて、切迫するためである。

心の病気を持つ人の呼吸も速い。一分間に二十数回、あるいは三十回以上も呼吸している人は、明らかに異常で、心因性の病気を持つ人である。精神科の医師は、患者の呼吸の速さを、診断の目安のひとつとしているのである。

呼吸のしかたは、長出入息呼吸法とおなじでよい。ただし、呼吸を、一分間

に三回にまで落とすということは、ふつうの呼吸法では不可能である。それができるコツは、出す息をできるかぎり細く長く、織々と吐いていって、吸うほ

うの息は、ふつうの呼吸に近い吸い方で吸うのである。

この呼吸法に熟達すると、一分間に一回くらいにまでなれる。

この呼吸で、前記した長出入息呼吸法とまったく同様に、気管の観想、守護仏真言の読論をおこなう。

練習時間は三十分ないし一時間である。

反式呼吸法の訓練

反式呼吸法というのは、ふつうの呼吸とまったく反対の呼吸をするので、こうよぶのである。

つまり、自然の呼吸では、息を吸い込んだとき、腹部がふくれ、息を吐いたとき、腹部がひっこむ。

この反式呼吸法は、それがまったく逆になる。すなわち、息を吸い込んだと

き、腹をこ

吸法なのである。

なぜ、そういう反自然の呼吸法をするのか?

いくつもの利点があるからである。

その利点は、横隔膜を極限に近く使うことから生ずる。

ちょっと考えると、腹をふくらませながら、息を吐くなどという芸当は、とてもできないと思われるかもしれない。

しかし、それができるのである。それは、内臓の中で胸腔と腹腔の境目になっている横隔膜をはたらかせることによって可能となるのである。 さかいめ

ふだんは、意思の支配の外で、自律的に、胸や腹がポンプの役目をして空気を吸ったり吐いたりするのにまかせっきりでいるけれども、反式呼吸のように自然ではないかたちで呼吸をしようということになると、横隔膜を動かすしか方法がない。

ふつうの呼吸の場合、横隔膜が上下に動く幅は、せいぜい四~六センチくら

 

いである。

しかし、反式呼吸にすると、なんと十センチ以上も動くのである。

人間の腹腔の上下の幅は、どんなに胴長の人でも、だいたい三十センチもあるかどうかというところである。その三十センチの中で、横隔膜が十センチ以上も上下に動くのである。その影響は、たいへんなものである。横隔膜が下に下がれば、腹の中にある内臓は非常な圧力を受け、上に上がった場合は、逆に大きなマイナスの圧力を受けることになる。

つまり、この呼吸法によって、腹腔内で内臓が、強い力で動かされ、刺激されるということである。

それがどんな利益をもたらすか?

反式呼吸法の四つの利点

1、体の新陳代謝を盛んにする。

肺の機能が高まり、これまでの何倍も大量の酸素を血液の中に吹き込

 

み、体中に送り込む。

2、筋肉の発達をうながす。

新陳代謝が盛んになれば、体中の組織が強化されるのは当然であり、筋

肉が発達する。ことに、内臓の筋肉が強化される。

3、神経のはたらきが安定する。

それは、自律神経を安定させるからである。

4、血液の循環を盛んにする。

最後に大切なのが、血液の循環を活発にするということである。

これにより、体中に大量の酸素を運んで新陳代謝を盛んにし、筋肉や骨が強化されるのである。

自律神経安定のメカニズム

自律神経(植物性神経)とは、すべての内臓、腺、血管等、人間の意志と無関係に反応する器管を支配する不随意神経で、これらの器官のいろいろな機能を自動的に調節している。それで、自律神経とよばれるのである。

自律神経は二つの特徴を持っている、それは、

この二つである。

一、意思をともなわず、自動的にはたらくこと。

二、この神経は、かならず交感神経と副交感神経の二つからできていて、その支配を受けること。

ひとつの内臓器官の自律神経は、いつもこの二つの神経交感神経と副交感神経がはたらいて調節しているのである。そのはたらきはまことに微妙なもので、おたがいに反対のはたらきをする。交感神経は神経を興奮させ、血管を収縮させるのに対し、副交感神経は心臓を抑制し、血管を拡張させる。つま

り、交感神経は人体におけるアクセルであり、副交感神経はブレーキだと思たぼよい。交感神経が緊張すれば人間の体は興奮状態となり、副交感神経が緊張すれば、その腕が抑えられるようになる。どちらかにかたよっても、体は納的な状態になるわけで、このあい反した二つのはたらきがバランスをたもつことにより、心は順調に動き、血管は適当な大きさを保持するわけである。

こういうはたらきは、すべて、意思をともなわず、まったく無意識のうちにおこなわれているが、その調和が破れると、当然、さまざまな病気が生ずる。

その調和を破るものは、病気とか、内臓器官そのものの故障によるものは別として、ほとんど精神的なものからくることが多い。

のうかすいたいふくじん強い煙問、悩み、悲しみ、おそれ、怒り等、心と体の動揺をきたす精神的刺激が起きると、内分泌器官の中枢である脳下垂体を経て、副腎の自律神経の交感神経に伝わり、副腎の皮の髄質や、神経の末端から、 の髄質や、神経の末端から、アドレナリンおよびノルアドレナリン(副腎髄質ホルモン)や、シンパシン(交感神経の末端から遊離する物質)などの、強い興奮剤が分泌される。

 

これは、その強い煙閣やおそれなどに対応するための、体の自衛作用なので

あるが、その精神的刺激がつづくと、アドレナリン系の過剰分泌をきたすことになる。アドレナリン系の過剰分泌は、胃腸の運動を止め、血管を収縮させ、 血圧を高める。さらに、肝臓や筋肉内の大切なエネルギーのもととなるグリコーゲンを、いたずらにブドウ糖に分解し、そのため血液内の血糖量がふえて

酸過多症を起こし、身心の過労状態をもたらすのである。

これが、いわゆる「ストレス」であり、ストレスは「心因性の病気」を引き起こす。

ストレス説で有名なハンス・セリエ博士などは、分裂性の疾患もふくめた事実上のあらゆる疾患が、心因性によるものだと断言しているくらいである。

これに対し、反式呼吸法は、自律神経の安定をもたらすのである。

というのは、この呼吸法は、自律神経の中枢である腹部(胃のうしろのあたりにある)の太陽神経叢Solar Plexusにいつも圧力をかけて、刺激をあたえているのである。つまり、うさきにのべたように、内臓が強い力で動かされ、モミクチャ

ある。 このため、自律神経のはたらきが活発になり、安定するのである。というのは、ふつう精神的なショックを受けたとき、交感神経のはたらきで、アドレナリンなどの強い興奮剤が過剰分泌される。これに対し、この呼吸法をおこなっている修行者は、平素からのコントロールの力により、自動的にその緊張・興奮を緩和するよう、副交感神経がはたらいて、神経の末端から興奮抑制剤であるアセチルコリンの過剰分泌が起こされる。この作用によって、血管は拡張し、血圧も下がり、心身の興奮はおさまって心身安定し、リラックスするので

第二の心臓

にされている。これは太陽神経叢という自律神経の中枢神経の刺を、マッサージしていることになるのである。

さらに、反式呼吸法は血液循環を盛んにする。

人間の体には、例外なく心臓がひとつと、人によって多少の差はあるが、ほ

中上限をめぐらしている。

以上のことはいまさらいうまでもなくだれでも知っていることだが、ど 、というのが、この作業に対して、不十分のようなのひとつだけでは足りないようなのだ。

あいうのは、和田リットルの血液が、全部、体中をめぐって、きちんと役目を果たしているかというと、そうではなく、人によっては、全体の三分の二に近い量が、腹腔内にたまって古い車(画)となり、病気の原因となっているのである。

思うに、人間は四足動物から進化したものである。何百万年か前、それまで樹上生活をして、木から木へ、キャッキャッと叫びながら飛びまわっていたのが、突然、アフリカのサバンナ (草原)に降り立った。長い草の生えている草原では、四つ足では先が見えず、自衛上、あと足で立つようになった。そのために下顎骨が張り、眼が遠方を見るようになって、脳が発達した。それはけっこ

うなことであるが、内臓のほうは、そう簡単に変化できず、辛うじて戦帯でよ右下っているだけなので、弱い人は、内臓下垂を起こすことになる。心臓も、 四つ足時代以来の一個だけなので、ポンプとして、直立した全身に血液をめぐらせるのに、過重なのである。

心臓から血液を送り出す血管、つまり、動脈は、その名称のとおり自分で脈打って動き、血液を進めるはたらきをするが、静脈のほうにはそれがない。静

かな脈、というとおりである。動脈というのは、いまいったように、自分で動いて心臓から血液を送り出す。その反対に、血液を心臓に送り返す血管が静脈だが、しかし、その静脈は静止している血管で、心臓というポンプによってその中の血液を流してもらうしかないのである。その静脈の中の血液は、(体循環たいじゅんかん

で)炭酸ガスその他の老廃物をふくんだ暗赤色の汚い血である。(肺循環の静脈では、動脈血となって酸素を多くふくみ、鮮紅色を呈したきれいな血液が通っている)

要するに、心臓ひとつでは、動脈、静脈、両方の血管を動かして全部の血液を全身にまわし、完全に循環させる仕事は、荷が重すぎるということなのだ。

そこで、腹腔の中や、その他の内臓に、老廃物をいっぱいため込んだ汚い血がたまることになる。

貧血症というのがあるが、放射能障害など特殊な場合を除いて、全身にある血液が少ないというのは稀だということで、ほとんどの場合、流れている血が少ないというにすぎないと、生理学者はいっている。

反式呼吸法は、こうしてたまっている汚い血液を、ほとんどすべて、心臓や肺に戻してやるはたらきをする。

この呼吸法は、腹筋を、ぎゅうっとしぼっておこなう。また、胸を動かさず、腹筋のはたらきで横隔膜を上下させて、肺をひろげたり、縮めたりする。 肺自体にはそういうことができないから、呼吸筋を使うだけでなく、このようにして肺を助け、腹筋をしぼって、そこにたまった血液を心臓に送り返し、また、横隔膜をぐっと下げることにより、腹の中に強い圧力をかけ、内臓にたまっている血液を心臓に送り返す。つまり、心臓の役目を果たすわけである。

そこで、ソ連の著名な生理学者ザルマノフは、この横隔膜を強力なポンプに

阿含

白佛言世尊。如是神咒必定吉祥。

乃是過去現在

未來十方諸佛。大慈大悲觀世音陀羅尼印。聞此

咒行持者。衆苦永盡。常得安樂。遠離八難。得

こんとうせつじっぽうしょぶつきゅうごしゅじょう念佛定。現前見佛。我今當說十方諸佛救護衆生

大神咒。

多哪吔 嗚呼膩 摸呼膩 闘婆膩 肮婆膩安

茶詈 般茶詈 首埤帝般般茶 囉囉 婆私膩

多姪吔 伊梨 寐梨 鞮首梨 迦婆梨

佉鞮端たとん

旃陀梨

摩蹬耆

勒叉勒叉

薩婆薩埵薩

婆婆哪埤

娑訶 多茶吔

伽帝

伽帝

腻伽帝

修留毘 修留毘 勒叉勒叉 薩婆薩埵 薩婆

婆耶埤娑訶

 

 

 

 

念佛定。現前見佛。我今當說十方諸佛

救護眾生

大神咒。

多哪哋 嗚呼膩 摸呼膩 鬪婆膩 航婆膩安

茶詈

般茶詈

しゅ首埤帝

しゃ般般茶

囉囉

婆私膩

多姪哋

伊梨

寐梨

ちしゅ鞮首梨

迦婆梨

ぎゃたたん佉鞮端

耆旃陀梨

摩蹬耆

れいしゃれいしゃ勒叉勒叉

ばさっ薩婆薩埵

婆婆哪埤

娑訶

としゃ多茶吔

伽帝

伽帝

膩伽帝にぎゃち

しゅりょ修留毘

しゅりょび

れいしゃれいしゃ

勒叉勒叉

さばさっと薩婆薩埵

修留毘

薩婆

婆哪埤

娑訶

 

 

 

多と

婆私膩

しんし

矧墀

せんしゃ跨墀

にせんし腻眕墀

さぼおぼやけ

薩婆阿婆耶羯

さぼけんぼそとぎゃ

おぼや

閉殿びてん

薩婆恒婆娑陀伽

阿婆耶

びりちょ卑離陀

そわか娑訶

いっさいふ

いっさいあく き いっさいどくがい

くろうす

一切怖畏。一切毒害。一切惡鬼。虎狼師子。 ふん

しじゅじ此咒時

くうそくへいそく

はぼんこうじん。

さじゅう作十

。口卽閉塞。不能爲害。破梵行人。

あくごうあくいん惡業惡因。

ぶんしじゅじ聞此咒時。

とうじょお蕩除污穢。

げんとくしょうじょう還得清淨。設

ゆうごつしょう

じょくあくふぜん有業障。濁惡不善。稱觀世音菩薩。誦持此咒。

(55)

くはあくごつしょう即破惡業障。現前見佛。

 

我今當誦。大

くだいじんじゅ吉祥六字章句救苦大神咒。

多姪他

安陀詈

般茶詈

枳由詈

んと檀陀詈

陀詈

ほど

底耶婆陀耶賒婆陀

ほるに頗羅膩祇

毘質雌

なんと難多詈

ほぎゃ婆伽詈

阿盧禰

もきゅうり摸鳩隷

兜毘隷 娑訶

せつぜじんじゅみ

きゆう薄鳩詈

そわか

爾時世尊。說是神咒已。告阿難言。

若善男子。

善女人。四部弟子。得聞觀世音菩薩名號。

とくもんかんぜおんぼさつみょうごう へいじゅ竝受

ぜん

どくじゅろくじしょうくじんじゅ どくしょうがいあんのん持讀誦六字章句神咒。得生涯安穩。乃至。

ないし

獲大

善利。消伏毒害。今世後世。

しょうよくどくがい こんせいこうせい

不吉祥事。

永盡無

(56)

 

我今當誦。大

くだいじんじゅ吉祥六字章句救苦大神咒。

多姪他

安陀詈

般茶詈

枳由詈

んと檀陀詈

陀詈

ほど

底耶婆陀耶賒婆陀

ほるに頗羅膩祇

毘質雌

なんと難多詈

ほぎゃ婆伽詈

阿盧禰

もきゅうり摸鳩隷

兜毘隷 娑訶

せつぜじんじゅみ

きゆう薄鳩詈

そわか

爾時世尊。說是神咒已。告阿難言。

若善男子。

善女人。四部弟子。得聞觀世音菩薩名號。

とくもんかんぜおんぼさつみょうごう へいじゅ竝受

ぜん

どくじゅろくじしょうくじんじゅ どくしょうがいあんのん持讀誦六字章句神咒。得生涯安穩。乃至。

ないし

獲大

善利。消伏毒害。今世後世。

しょうよくどくがい こんせいこうせい

不吉祥事。

永盡無

(56)

 

 

れんみんふくこ請。諸佛賢聖。大悲觀世音菩薩。憐愍覆護。受けんげんどうじょうさんごうろっこん しょざい我奉請。顯現道場。受我懺悔。三業六根多諸罪。 んじょういっさいあくごう さんごうろっこん過去今生。及未來世。一切惡業。三業六根。三障三毒。今日嚴淨道場。誠心懺悔。不敢覆藏。 んげんどう惟願尊者。觀世音菩薩摩訶薩。顯現道場。降臨くしんじんくしょうじょうじゅさんしょうえい寶塔。放勝光明。照觸身心。令得清淨。三障永つまんなくどうじょうむじょうど・ くうゆうじん除。絕三惡道。永離衆苦。成無上道。虛空有盡。 我願無窮。法性有邊。願心無極。盡入如來。 かんしんうにょらい性海中。懺悔發願。已歸命禮。觀世音菩薩及一切三寶。 願

せいゆうだいかくそん南無最勝金剛大阿闍梨耶靖雄大覺尊

(59)

 

 

 

インドから中国へ伝えられた経典第一号と言われている『四十二章経しじゅうにしょうぎょう』は、42章からからなるお経です。 一言でいえば、修行や日常生活で重要となる教えが説かれ、特に禅宗で重視されています。 その『四十二章経』には、一体どんなことが教えられているのでしょうか。 全文と現代語訳も掲載しつつ、分かりやすく解説していきます。

インドから中国へ伝えられた経典第一号と言われている『四十二章経しじゅうにしょうぎょう』は、42章からからなるお経です。
一言でいえば、修行や日常生活で重要となる教えが説かれ、特に禅宗で重視されています。

その『四十二章経』には、一体どんなことが教えられているのでしょうか。
全文と現代語訳も掲載しつつ、分かりやすく解説していきます。

阿含経

AI による概要
阿含経(あごんきょう)とは、サンスクリット語・パーリ語の「アーガマ(āgama)」の音写で「伝承された教説」を意味する、初期仏教の経典集です。釈迦の言葉に最も近いとされる経典が多く含まれており、仏教の根幹をなす聖典として重要視されています。パーリ語のニカーヤ五部)に対応する漢訳経典群で、特に漢訳経典の「長阿含経」「中阿含経」「雑阿含経」「増一阿含経」を総称して阿含経と呼びます。

「阿含」の語源と意味
  • 「アーガマ」はサンスクリット・パーリ語で「伝承されたもの」「伝えられた教え」を意味します。
  • 仏教では、釈迦滅後、弟子たちによってまとめられた経典集全体を指す言葉として用いられました。
阿含経の内容と特徴
  • 釈迦の教えの直接的な記録:
    釈迦の言行を直接的に伝え、初期仏教の教説がそのまま集められていると考えられています。

  • 明快で合理的な内容:
    仏教の教えが哲学や倫理、道徳だけでなく、苦しみからの解脱や因縁解脱の道筋が明確に説かれています。

  • 多様な経典の集まり:
  • 漢訳経典:大正新脩大蔵経に収録されている「長阿含経」「中阿含経」「雑阿含経」「増一阿含経」の四つの阿含経の総称です。
  • パーリ語仏典:漢訳阿含経に対応する「ニカーヤ(部)」と呼ばれる経典群で、パーリ語の原典が伝えられています。
歴史的意義
  • 仏教の根幹をなす経典であり、全ての宗派を超えた仏教の原初的な姿と根本を示すとされます。
  • 南伝仏教(スリランカ、ミャンマーなど)では釈迦の説かれた直接の教えとして非常に大切にされています。
  • 阿含経 – Wikipedia
    この記事には複数の問題があります。 改善やノートページでの議論にご協力ください。 … 阿含経(あごんきょう、あごんぎ…
    Wikipedia
  • 阿含宗とは、どのような教団なのでしょうか | 阿含宗について | 先祖供養の総本山 阿含宗
    阿含宗
  • 阿含経を読む 基礎知識
    2007/05/02 — アーガマ(阿含)とは ここに一つの経の集録がある。 かって中国における訳経僧たちは、それらを翻訳する…
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增一阿含経・三供養品

增一阿含経・三供養品

供養を実践する者たちの現代物語

增一阿含経・三供養品

聞如是。一時仏在舍衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告阿難。

根。不可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所謂於如来所而種功德。

有三善

此善根不可窮尽。於正法。而種功德。此善根不可窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲此不可窮尽之福。如是阿難。当作是学。

爾時阿難聞仏所說。歓喜奉行

『増一阿含経・三供養品』 現代語訳

 

私はこのように聞きました──

ある時、お釈迦さまは舎衛国(しゃえこく)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられました。
その時、世尊(せそん:お釈迦さま)は阿難(あなん)に次のように語られました。

「阿難よ。善き行い(善根:ぜんこん)には尽きることがなく、それは少しずつ積み重なって、ついには涅槃(ねはん)という悟りの境地に至るのだ。
では、どのような善き行いが三つあるか。これを『三善根(さんぜんこん)』という。

一つ目は、如来(仏さま)に対して供養し、徳を積むこと。
二つ目は、正しい教え(正法:しょうぼう)に対して供養し、徳を積むこと。
三つ目は、聖なる修行者たち(聖衆:しょうじゅ)に対して供養し、徳を積むこと。

この三つの善根は、いずれも尽きることがなく、必ず涅槃の境地へと導いてくれる。

だからこそ、阿難よ──
この尽きることのない福徳を得るために、工夫して実践するように努力しなさい。

このように心がけて、生きるのだ。」

この教えを聞いた阿難は、たいへん喜び、心から受け入れ実践することを誓いました。

 

『供養を実践する者たちの現代物語』

として、「三供養(仏・法・僧への供養)」を現代の社会に生きる人々の姿を通して描いた短編連作物語の第1話をお届けします。

第一話 『祈りの花を、仏に』

東京・上野。
人通りの多い駅前から少し歩いたところに、古びた小さな寺がある。
その寺に、ひとりの青年が足を踏み入れた。名は 原田 誠(はらだ・まこと)。
IT企業に勤める30代のサラリーマンだ。

週末の午後、彼は決まってその寺を訪れる。
理由は、亡き母のための供養だった。

母が亡くなって三回忌を迎える年。彼の心には、ずっと引っかかる思いがあった。
――もっと、何かできたはずだ。
看取れなかった後悔。仕事に追われていた日々。
「ありがとう」も「ごめんね」も、ちゃんと伝えられなかった。

そんなとき、ふと立ち寄ったこの寺の住職が、こう語ったのだ。

「仏に供養をするというのは、ただ線香をあげることではないんですよ。
“仏の心を思い出すこと”です。
あなたの中にある、母を想う優しさや感謝。
それが、供養の花になるのです。」

その日から、誠は毎週末、小さな花を一輪、寺に供えるようになった。
派手な花ではない。季節の草花を、静かに手向ける。

彼の手にはいつも、スマホの画面ではなく、一枚の紙があった。
そこに書かれているのは、母の口癖だった言葉。
「笑ってれば、きっとなんとかなるよ。」

ある日、住職がそっと尋ねた。
「その紙、何ですか?」

誠は少し照れくさそうに笑った。
「母の言葉です。仏壇に置くと、なんだか会える気がして。」

住職は静かに頷いた。
「それは、立派な供養です。
あなたの心が、今も仏に届いているのですよ。」

その日、寺の鐘の音が街に響いた。
忙しく流れる現代の街に、静かな祈りのひとときがあった。

その青年の供養は、仏に向けられた花。
その心は、尽きることなき善の種となって、確かにこの世界に咲いていた。

第二話『本の背中にあるもの――正法を供養する編集者』

東京・神保町。
古書店が立ち並ぶこの街に、一軒の小さな出版社がある。
そこに勤める編集者、斉藤ゆかりは三十代半ば。
仏教関係の書籍を多く手がける老舗の出版社で、数少ない若手編集者だった。

ある日、彼女は一冊の古い草稿に出会う。
棚の奥にしまわれていた、著者不詳の手書き原稿。
表紙にはこう記されていた。

『日々是法(にちにちこれほう)――生活に活かす仏の言葉』

内容は、釈尊の教えを現代の生活に照らして解説する随想集。
だが、どれも名もない人の言葉のように、静かで、誠実だった。

その文を読み進めるうちに、ゆかりは不思議な感覚にとらわれた。
“これは法(ダルマ)の声だ”
そう思えたのだった。

社内会議では、「売れない」と一蹴された。
今は自己啓発やスピリチュアル系の派手なタイトルが求められる時代。
古くさく、著者も不明な仏教エッセイ集など、扱っても赤字になるだけだと。

だが、ゆかりは言った。

「この本には、声があるんです。
静かだけど、確かな祈りのような。
売れるかどうかよりも、今この社会に必要な“言葉”がここにあると思うんです。」

出版部長はしばらく沈黙した後、言った。

「なら……あんたが責任を持つって条件で、やってみろ。」

彼女は個人責任で企画を立ち上げ、印刷所に足を運び、表紙のデザインまで自ら関わった。

やがて出版された本は、広告も出せず書店にもほとんど並ばなかった。
だが、不思議なことに、口コミで少しずつ読者の心に広がっていった。

ある読者がSNSにこう記していた。

「朝、会社に行く前にこの一文を読むと、怒りが少しおさまる。
“いま、ここに生きる心を忘れないように”って。」

斉藤ゆかりは思った。
これこそが、正法への供養ではないかと。
教えを埋もれさせず、言葉を通して人々の心に届けること。
それは、現代における「書く供養」であり、「編む供養」であり、「読む供養」だった。

あの名もなき原稿の筆者は、いまだ不明のままだ。
けれどその言葉は、今も誰かの朝を照らしている。

第三話『カフェに集う僧たちへ――尼僧と若者たちの縁』

京都・左京区の静かな住宅街に、ひとつの小さなカフェがある。
店の名は「梢(こずえ)」。
店主は、四十代半ばの女性、尼僧・美樹(みき)。
彼女は比叡山で修行したのち、俗世と仏法をつなぐ場所としてこの店を開いた。

木の温もりが感じられる内装と、心を落ち着かせるお香の香り。
その店には、ちょっと変わった“常連客”たちがいた。
大学で宗教学を学ぶ若者たち、
仏門を志しているが迷いを抱える青年、
心を病み、しばらく職を離れていた元看護師。

皆、どこかで「仏の教え」に救われた経験を持つ人たちだった。

ある春の午後、美樹はカウンターでお茶を淹れながら、ふとこんな話をした。

「供養ってね、食べ物をお供えすることだけじゃないの。
“支える”っていう意味なのよ。
僧たちの修行が続けられるように、
その道が絶えないように、“縁をつなぐ”こと。」

それを聞いていた大学生の拓真(たくま)が、ぽつりと尋ねた。

「でも……今どき、修行僧って必要なんでしょうか?
SNSや動画で法話も見れるし、
わざわざ山にこもる意味って……あるのかなって。」

美樹は微笑んで、静かに言った。

「必要かどうかを決めるのは、今の人間じゃないわ。
“道がそこにあり続ける”ことが、大事なの。
どこかで誰かが、その道を歩いている。
そう思うだけで、人は安心することもあるのよ。」

その夜、カフェに来ていた看護師の綾香が帰り際にそっと言った。

「私、以前お世話になってたお寺の若いお坊さんに、お手紙を書いてみようと思います。
あのとき助けてもらった感謝、ちゃんと伝えたくて。」

その言葉に、美樹は深くうなずいた。

「それも立派な供養よ。
“僧に心を寄せる”ということも、道を支える灯火なの。」

そして店の奥、ひとつの棚に、
カフェに通う人たちが書いた手紙やメッセージが束ねられていた。
その多くは、今も修行を続ける僧たちに宛てた応援の言葉だった。

それらは、華やかでも、目立つものでもない。
けれど確かに、**修行者たちの道を支える「無言の供養」**であった。

春の夜、梢の灯りは今日もあたたかく、
静かに、僧たちへの祈りを受けとめていた。

 

第四話『尽きぬ福を生きる――三つの灯を継ぐ者』

秋の午後、東京・谷中の古寺で、ひとつの法要が営まれていた。
「報恩法会(ほうおんほうえ)」──
命あるものすべてに感謝を捧げる、年に一度の静かな祈りの場。

参列者の中に、三人の姿があった。
彼らはそれぞれ、別々の場所で供養を実践してきた者たちだった。

一人目は、原田誠(第一話)。
母のために、仏に向けて花を供え続けたIT企業の青年。
この日は、母の好きだった金木犀の枝を手に、初めて法要に参加していた。

「この香りがすると、いつも母を思い出すんです」
住職の問いに、彼はそう静かに答えた。

二人目は、編集者の斉藤ゆかり(第二話)。
出版を通して、正法の声を世に届ける仕事に尽くしてきた。
あの無名の仏教エッセイ集が静かな反響を呼び、今では全国の小さな書店から再注文が届いている。

「教えは、生きてるんだなって思います。
声にならない祈りが、人から人へ伝わっていくみたいに。」

彼女は法会の読経に耳を傾けながら、ふと涙ぐんでいた。

三人目は、元看護師の綾香(第三話の登場人物)。
僧侶への感謝の手紙を書いたことをきっかけに、再び福祉の現場へと戻っていた。
この日、導師を務める若い僧侶は、かつて彼女が手紙を送った相手だった。

読経のあと、二人の目が合った。

僧侶はそっと合掌し、微笑んだ。
綾香も深く頭を下げた。
言葉ではなく、心が交わされた。

法要の終わり、三人は同じ廊下で偶然すれ違った。
初めはただ軽く会釈しただけだったが、ふと境内に並んだお茶席で自然と話し始めた。

「……不思議ですね」
誠が言った。

「違う道を歩いてても、結局“何かを大切に思う心”で、つながってる気がする。」

ゆかりが続けた。

「それって、まさに“供養”なのかも。
仏を想い、法を伝え、人を支える――
結局、それ全部が“誰かに心を寄せること”なんですね。」

綾香は静かに言った。

「その心って、尽きないんですよね。
失われることがない。
誰かがちゃんと、受け取ってくれる。」

三人の前に、紅葉がひとひら舞い落ちる。
風は静かに流れ、祈りの余韻が境内を包む。

その日、彼らはそれぞれの人生に戻っていった。
けれど、三つの供養の灯火は、確かに彼らの胸に灯っていた。
それは誰にも消せぬ、尽きることなき福として。

完 ― 三供養