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『応説経』における「修習と自然解脱」の文証

『応説経』における「修習と自然解脱」の文証

― 阿含経の核心構造に関する一考察 ―

1. 序論

阿含経は、釈尊の初期教説を伝える最古層の経典群である。その中心的テーマは「漏尽解脱」であり、それはいかなる条件によって得られるかという問いに集約される。本稿は、『雜阿含経・応説経』における一節――

> 「若比丘修習随願成就者、不欲令解脱、然彼比丘自然漏尽心得解脱。所以者何。以修習故。」

 

を「文証」として位置づけ、逐語的・教義的に解釈し、さらに譬喩との連関を明らかにしつつ、その現代的意義を考察する。

2. 原文と逐語訳

原文(抜粋)

> 若比丘修習随願成就者、不欲令解脱、然彼比丘自然漏尽心得解脱。
所以者何。以修習故。何所修習。謂修習念処正勤如意足根力覚道。

 

逐語訳

もし比丘が修習し、順応して成就するならば、
たとえ「解脱しよう」と望まなくとも、
自然に煩悩は尽き、心は解脱を得る。
なぜか。それは修習によるからである。
では何を修習するのか。
それは、四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道である。

3. 教義的解釈

3.1 願望と修習の区別

経は明確に、「解脱への願望」だけでは果報は得られないことを示す。ここで強調されるのは、修習そのものが因となり、果として解脱を生起させるという因果の必然性である。

3.2 三十七道品の体系

修習の対象として「四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道」が列挙される。これは後代「三十七道品」と総称される修行法であり、釈尊の教えを網羅する枠組みとして提示されている。

3.3 自然法爾の原理

「自然に漏尽する」との表現は、修習が正しく積まれるならば、解脱は意図や作為を超えて必然的に到来することを示す。この「自然法爾」の立場は、後世の大乗仏教思想にも大きな影響を与える。

4. 譬喩による補強

本経には三つの譬喩が続く。

鶏の譬え
母鶏が適切に卵を温めれば、雛は自然に孵化する。

斧の柄の譬え
斧の柄は、気づかぬうちに削れて尽きる。

船の縄の譬え
船を繋ぐ縄は、風雨に晒されて少しずつ断ち切れる。

これらはすべて、「修習が続けば、意識せずとも結果は必然に現れる」という一点を指し示している。

5. 阿含経全体における位置づけ

この一節は、阿含経が一貫して説く「実践による必然的解脱」という教理の核心を凝縮している。
すなわち、阿含経全体の「心臓部」と言っても過言ではない。

6. 現代的意義

現代社会においても、人は「悟りたい」「解脱したい」と願うが、その願望自体が解脱を保証するわけではない。重要なのは、**日々の実践の積み重ね(修習)**である。
瞑想・倫理的実践・正しい認識の訓練が重ねられるとき、解脱は「目標」ではなく「自然の果実」として実現する。この視点は、現代の心理療法・習慣形成論にも通じる普遍性を持つ。

7. 結論

『応説経』の中心文証は、「修習があれば自然に解脱が得られる」という因果必然の教えを明確に示す。
この教えは阿含経の精髄であり、三十七道品を通じた実践体系こそが釈尊の道の核心である。

雜阿含経・応説経

雜阿含経・応説経[全文]

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非不知

方便

見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知被比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何、不修習故。不修習何等。謂不修習念処正動如

意足根力党道。梦如伏鶏生子衆多。不能随時蔭解消息冷暖。而欲

令子以背以爪啄卵自生安穩出設。当知被子無有自力堪能方便以背

以爪安微出設。所以者何。以被鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子放。

她是比丘。不動修習随顺成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所

以者何。不修習放。不修何等。謂不修念処正動如意足根力覚道。

吉比丘藤習成就者 不欲令編尽解脱。而被比丘自然漏尽。

解説。所以者何以修習、何所修習,謂修念処正動如意足

冷暖得所正復不欲令

子方便自隊卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。所以者何。

以彼伏

鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。

何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。譬如巧師巧師弟子。手執斧柯。捉

之不已。漸漸微尽手指処現。然彼不觉斧柯微尽而尽処現。如是比

丘。精勤修習随顺成就。不自知見今日爾所漏尽。明日爾所漏尽。

然被比丘。知有漏尽。所以者何。以修習故。何所修習。謂修習念

処正勤如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。経夏六月風飄日暴。

藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。随順成就。

漸得解脱。所以者何。善修習故。何所修習。

足根力覚道。說是法時六十比丘。不起諸漏。

已。諸比丘聞仏所說。

歓喜奉行

一切結縛使煩悩纏。

謂修習念処正勤如意

心得解脱。仏説此経

応説経(日本語訳)

こうして私は聞いた。
あるとき、仏は拘留国の雑色牧牛の集落におられた。

そのとき、仏は比丘たちに告げられた。

「私は知見によって、すでにすべての煩悩(漏)を尽くし、解脱を得た。
決して知見を欠いたままでは漏尽に至ることはない。

では、どうして知見によって漏尽を得るのか。
それは、色(身体)を正しく知り、色が集まり、色が滅することを知る。
受・想・行・識についても同じである。識が集まり、識が滅することを知る。

修習せず、順応して完成しようとせず、ただ「心を用いて煩悩を滅ぼし解脱しよう」と望んでも、それは決して得られない。

その理由は何か。修習をしないからである。
では、何を修習しないからか。
それは四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を修習しないからである。

譬えて言うなら、鶏が卵を抱いても、時に応じて温めたり冷ましたりすることをせずに放っておいたなら、雛は自分の力で背や爪を用いて殻を破り、無事に生まれてくることはできない。
なぜなら、母鶏が適切に温めたり冷ましたりして育てることを怠っているからである。

同じように、比丘が修習せず、随順して成就しようとせずに、「解脱を得たい」と願ったとしても、それは不可能である。

しかし、比丘がよく修習し、随順して成就するならば、たとえ「解脱を得よう」と意図しなくても、自然に煩悩が尽きて心は解脱に至る。
なぜかといえば、修習に励むからである。

何を修習するのか。
それは、四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道である。

譬えて言うなら、巧みな木工師やその弟子が斧を使うとき、手に取って木を削り続けているうちに、斧の柄が少しずつすり減っていく。
しかし、彼はその減り具合を逐一知っているわけではない。
やがてすり減って尽きた時にはっきりと現れる。

同じように、比丘が精勤に修習し、随順して成就するならば、「今日いくら漏(煩悩)が尽きたか」「明日いくら尽きるか」と逐一知るわけではない。
けれども、ついに漏は尽き、解脱に至るのである。
その理由は何か。修習に励むからである。

さらに譬えるなら、大きな船が海辺にあって、夏の六か月間、風に吹かれ日差しに曝されると、船をつないだ縄がしだいに断ち切れていくようなものである。
同じように、比丘が精勤に修習し、随順して成就すれば、やがて束縛を解き、解脱を得るのである。
なぜか。修習が善く成就するからである。

このように仏が法を説かれたとき、六十人の比丘たちは、すべての煩悩を滅ぼし、心解脱を得た。

比丘たちは、仏の教えを聞いて歓喜し、受け入れて修行に励んだ。

そろった阿含宗

です。 おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃっておられます。それは、なにか?

――三証そろった阿含宗

『応説経」のこの部分が、成仏できるという「文正」なのです。「文証」について、ここで詳しく説明します。

仏教では、「文証」「理」「現匠」の三匠がそろわなければ、その教団の教法は正法ではないとします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。要するに、仏さまがお軽の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。

「死」の「若し比丘、修習し類成する者は尽解脱せしめんと欲せずとも両も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なのです。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。この部分が「応説経」 の、いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。 まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

しばしば「法華経」の信者が、「四十余年末顕真実(《初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実を明かさず)」という「文証」を振りかざします。「四十余年末顕真実」という言葉は、『法華経』 の開経とされる「無量義経」の一文です。したがって「四十余年末顕真実」と

「說」の「若し比丘、修習し隨願成就する者は足解脱せしめんと訳せずと雖も雨も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なのです。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。この部分が『応説経』 の、いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。

まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

しばしば『法華経』の信者が、「四十余年犬獸真実 (<初転法輪より>四十余年の間、いまだ真実を明かさず)」という「文証」を振りかざします。「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経』 の開経とされる『無量義経」の一文です。したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 「無量義経」に基づいての「文証」です。しかし、『法華経』は、お釈迦さまが入滅されて数百年も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、『無量義経』は『法華経』の権威を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる程であろうとされております。要するに、『無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけです。

ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたものでなければ、まったくお話になりません。「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、擁護してくださっていると

七七

は、あ

雜阿含経・応説経[全文]

雜阿含経・応説経[全文]

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非不知

方便

見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知被比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何、不修習故。不修習何等。謂不修習念処正動如

意足根力党道。梦如伏鶏生子衆多。不能随時蔭解消息冷暖。而欲

令子以背以爪啄卵自生安穩出設。当知被子無有自力堪能方便以背

以爪安微出設。所以者何。以被鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子放。

她是比丘。不動修習随顺成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所

以者何。不修習放。不修何等。謂不修念処正動如意足根力覚道。

吉比丘藤習成就者 不欲令編尽解脱。而被比丘自然漏尽。

解説。所以者何以修習、何所修習,謂修念処正動如意足

冷暖得所正復不欲令

子方便自隊卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。所以者何。

以彼伏

鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。

何所修習。

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丘。精勤修習随顺成就。不自知見今日爾所漏尽。明日爾所漏尽。

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処正勤如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。経夏六月風飄日暴。

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謂修習念処正勤如意

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