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今日の九星盤 2026年1月13日

今日の九星盤

2026113

乙巳 二黒土星 歳
己丑 九紫火星 節
丁亥 六白金星 日

破壊の週 成の日

見返りを求めずに奉仕する日

万事思い通りに進まない日です。破壊の週の成の日だけに、悪いことや自分に不利なことが成立してしまいます。あちこちの地雷を自ら踏んでしまうような日になります。破壊の週前半で後先考えずに行動していると、全てこの日に返ってきます。何をするにも十分な余裕をもって行うことで、傷は浅く、不運からの素早いリカバリーが可能です。こういう日もあるさ、と割り切るくらいの心の余裕を持つことが大切です。無理に状況を変えようとせず、敢えて自分を俯瞰して見ることで、冷静に対処できるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

阿弥陀如来

 

命あるものすべてを救うべく誓いを立て、極楽浄土に導く

 

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは?

無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。

 

阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるといわれています。そのほか来迎の様子をあらわす場合もあります。

ご利益

極楽往生、現世安穏のご利益があります。また、戌・亥年生まれ守り本尊です。

阿弥陀如来(あみだにょらい)の像容

釈迦如来と同じく装飾品は一切ないです。来迎印という印は、極楽浄土に迎えに来たことを意味していますよ。この印相は施無畏・与願印に似ていますが、第1指ともう1本の指をねじるのが特徴です。

 

特殊な例としては、宝冠阿弥陀像、裸形阿弥陀像、斜めうしろを振り返る姿をしている見返り阿弥陀などがあります。

 

 

ホモ・エクセレンスの資格ライセンス

ホモ・エクセレンスの資格ライセンス

その技術は、まだ公には名を持たない。
ただ、選ばれた者たちはそれをこう呼んでいた――
ホモ・エクセレンスの資格ライセンス。
それは試験でも、血統でもない。
訓練によって、人が人を超えるための“通行証”だった。

一度、目にしたもの。
一度、耳にした言葉。
それらは、もはや記憶という領域を超え、魂の奥に刻まれる。
忘却という現象が、彼らには存在しない。
複雑な構造は、見るより先に理解される。
因果は瞬時に解体され、本質だけが静かに残る。
推理も分析も、もはや手順ではない。
それは“見える”という感覚に近かった。
言葉を介さず、思考が生まれる。
純粋思考――
概念が音になる前に、すでに創造は完了している。
もし、ヒトの平均知能を一・〇とするなら、
彼らは二・五、あるいは三・五に達するだろう。
その中でも最上位の脳は、
四次元を「理解する」のではなく、「住処」として扱う。

彼らは見る。
不可視と呼ばれてきた領域を。
赤外も、紫外も、
闇に沈んだ世界の輪郭を、当たり前のように受け取る。
彼らは聴く。
超音波のささやきを、風の一部として。
高度な知能と拡張された感覚が結びついたとき、
未来は予測ではなく、兆しとして訪れる。
それは超能力ではない。
自らの肉体と精神を、完全に統御した結果にすぎなかった。

思えば、最も恐るべき力は、
「自分を変える」能力だった。
思念ひとつで、性質を変え、
行動ひとつで、他者を動かす。
個人を越え、集団を、
やがて環境そのものを、自分の理に沿って創り変えていく。
――それが、彼らの担う能力の輪郭だった。

では、ホモ・エクセレンスとは何者か。
ホモ・サピエンス――
ほかならぬ、われわれ自身。
その延長線上に現れる、
「特別な能力を身につけた優秀なるヒト」。
ある者は、彼らをこう呼んだ。
ホモ・インテリゲンス――聡明なる未来人。

かつて、バリ大学の人類学者、
ジョルジュ・オリヴィエ教授は語った。
「未来の種属、超・ヒトは、
おそらく脳発達度係数三・九を持つだろう」
彼は続けた。
第四次元の理解。
複雑な全体を一瞬で把握する能力。
第六感の獲得。
無限に発展した道徳意識。
そして、
われわれの悟性では説明不可能な精神的特質。
――それらを備えた存在。
彼らの姿形も、行動原理も、
われわれには理解できないだろう。
なぜなら、われわれが“盲”であるのに対し、
彼らは千里眼の持ち主なのだから。

高度の知能は、
必ず高度の倫理を伴う。
彼らにとって、
いまの宗教や教義は、
かつての童話のように映るかもしれない。
神や仏を外に求める必要はなくなる。
なぜなら――
ヒトそのものが、神仏とひとしくなるからだ。
それは支配ではない。
霊性の獲得である。
無限に発展した道徳意識。
不可解と呼ばれてきた精神的特質。
それこそが、神仏の霊性にほかならない。

かつて、人類に必要なのは霊性だと説いても、
多くの者は耳を貸さなかった。
だが、時代は変わった。
危機は増大し、
文明は自らの限界に触れはじめた。
いま、
「霊性」という言葉を聞いたとき、
人々は直感的に理解する。
――それこそが、次の扉だと。

そうではなかったのである。

シャカの仏法は、だれでも成仏を可能にするのである。どんなひとでも、間脳を開発して霊性を開顕し、聖者になれる道をひらいていたのである。

指導者を目ざす者は、七科三十七道品ととり組むがよい。わたくしが指導しよう。

そうでない者は、生ける如来のもとで梵行にはげみ、「王者の相承」を受けるがよい。

わが教団に集まるひとたちを見てほしい。

わたくしの道場では、七科三十七道品の前段階である成仏法と、生ける如来への梵行を合わせた修行法を指導している。「準胝尊千座行」という。

この修行によって、特に宗教的素質に恵まれているとは思えぬひとたちや、ひとの何倍もの悪しきカルマに苦しんでいたひとたちが、「きよめられた聖者」のしるしであるきよらかなオーラを、身のまわりにただよわせはじめているのである。老若男女のすくなからざるかずのひとたちが、その頭上に、すきとおったきよらかなオーラをともしはじめているのである。そのひかりはまだ弱い。ときにきよらかならざる雑色のひかりがまじることもある。しかし、日に日に、そのひかりはつよくなりつつある。 どうしよく

ことに、若いひとたちの間に、力づよいオーラがともりつつある。この若ものたちには、確実

に未来がある。かれらはかならず生き残るだろう。次の世代は存在する。その確信がごく最近わたくしの中に芽生え、それはしだいに大きくなりつつある。それが、この本を書かせた原動力なのだ。

読者と、

いまや、人類は二つの道を選択するギリギリの時点にさしかかった。

核ミサイルによる地獄の業火か、

シャカの仏法によるきよらかな霊光か、

二つに一つである。

読者よ、

地獄の業火でこの地球を焼きつくしてはならない。

人類よ、

全人類がすべてこのすきとおったきよらかなオーラを身にともし、この地球を霊光にかがやく

天体と化そう。それが世紀の地球なのだ。

読者よまずあなたがオーラをともせ! 聖者になれ!

第三章 間脳開発————第三の目をひらく一

第一章 『ホロン革命』と『密教・

られます。そこで、この『高度の欠自

か、べつなものなのか、また、先生のおっしゃる『霊性』とはどういうものだって

ついてはっきりお示しねがいたいのですが、いかがでしょうか?」

そうK氏はいった。

わたくしはうなずいて言った。

「わたくしは、『密教・超能力の秘密』で、わたくしのいう特殊なシステムで修行して特別な能力を身につけたヒトを、ホモ・エクセレンスと名づけて、つぎのように解説しております」

とおホモ・エクセレンスの資格ライセンス

ここにひとつの技術がある。

その技術によって訓練すると、ヒトはだれでもいくつかのすぐれた力を持つようになる。 その力をあげてみよう

一度にしたいちど目にふれ、いちど耳にしたことは、ぜったいに忘れることのない記憶力。どのように複雑な構造でもでも、瞬間的に分析し、推理し、解しで、本質を把督してしまう涼と帰納の力。コトバという間思考を経ない純粋思考から見する的な創造力。

それは、ヒトの平均知能を一・〇とするならば、おそらく、二・五から三・五に達すもであろう。このグループの最高の脳は、やすやすと四次元を理解する。

二言の旅は、不可視光線(赤外観、需外線)を見ることができ、超音波を側くことができる。その為常感覚と高度の知能の結合からくる予知力。それらは、自分の肉を思うままに御する能力からくる。

三の物と思うままに自分を変え、他人を動かし、集団や環境を、自分の

のりに創造してゆく。

だいたい担上の能力であると

うにのべております」

『ホそ・サビエンスとは、ほかならぬわれわれ自身のことであるが、ホモ・エクセレンスとは、どういうヒトか?

ホモ・エクセレンスとは、ホモ・サピエンスが持たない特別な能力を身につけた「優秀なるヒト」という意味である。ある人たちは、この未来人に、ホモ・インテリゲンス(聡明なるとき)という名をつけている。

では、この優秀なる未来人、ホモ・エクセレンスは、どういう特殊な能力を持っているの

後の持ついくつかの特長をあげてみよう。

「未来の種属、超・ヒトは、おそらく、三・九という脳発達度係数を持つだろう」

と、世界的に著名な人類学者、バリ大学のジョルジュ・オリヴィエ教授は、その著『ヒト 、過去現在そして未来』(みすず書房刊)のなかでこう語りはじめる。

「(こういうきわめてすぐれた生物の能力を、それよりはるかに劣ったわれわれが、あれこれいうことはできないが)とにかく、この超・ヒトの知的能力は、辛うじて想像することができる。それは、たとえば、

第一章 「ホロン革命」と「密教・超能力の秘密」の対

1 第四次元の理解。

2 複雑な全体をとっさに把握する能力。

3 第六感の獲得。

無限に発展した道徳意識の保有。

5 とくにわれわれの悟性には不可解な精神的な特質。

などである。

わたしは、脳発達度係数三・九をもつ生き物の体のかたちや、すばらしい知能や、われわれにはとうてい理解できない行動がどんなものであるかは、想像力のゆたかな人達にまかせることにする。われわれがメクラであるのに対して、われわれの後継者たちは千里眼の持ち主なのだろうからよあとつず

「以上の文章で、わたくしのあげた五つの能力と、ジョルジュ・オリヴィエ教授のあげた五つの能力とは、その内容においてほとんどおなじといっていいものですが、わたくしのあげた五つの権力のうち、一と五。オリヴィエ教授のあげたうちの、1と、4と5、でしょう。とくに、オリヴィエ教授の、4 無限に発展した道徳意識、と、5 とくにわれわれの悟性には不可解な精神的な特質、でしょう。これが、わたくしのいう『霊性』であることが、それにひきつづいてつぎ

のようにわたくしがのべていることで、よくおわかりになることと思います。わたくしは、しめくくりとしてつぎのようにのぺております」

『高度の知能は高度に発達した倫理観、道徳意識をともなうから、現在の宗教や、宗教家あたりが説いている「教え」など、まったく低俗な、次元の低い幼稚なものとしてかえりみられず、宗教意識はごくあたりまえの常識になってしまって、ことさらにカミやホトケを念ずることなどなくなるだろう。ヒトが、カミ、ホーケとひとしくなるのである』

「ヒトが、カミ、ホトケとひとしくなるということは、ヒトが、カミ、ホトケの『霊性』を持ったということでしょう。オリヴィエ教授のいう無限に発展した道徳意識の保有”とくにわれわれの格性には不可解な精神的特質」こそ、まさにそれではないのですか?」

「なるほど、よくわかりました。しかし、そこでちょっと疑問に思うのは、なぜ、『密教・超能力の秘密』で、『霊性」ということばをストレートに打ち出さなかったのか、ということです。 どうして『高度の知能」という表現で通してしまったのか、という疑問です」

「時代、ということですね、『密教・超能力の秘密』は、初版が一九七二年七月五日に発行されています。いまからちょうど十一年前です。この時期に、霊性ということばを聞いても、ごく1

話のひとを除いて、多くのひとびとは興味を持ってはくれなかったでしょう。どんなによいことを説いても、ひとが興味を持ってくれなかったらなんにもならない。わたくしは学者でもないし、学僧でもない。伝道者です。伝道者としてのわたくしは、ひとびとがいかにしてわたくしの説く真用に興味をいだき耳をかたむけてくれるかの一点に、苦心します。いまから十年前、いま人類に必要なのは霊性だと説いても、多くのひとびとは、耳をかたむけなかったでしょう。しかし、いまはちがう。この十年間に、人類の危機は飛躍的に増大し、ひとびともそれに気がつきはじめた。霊性ということばを発したとき、ひとびとは直感的にいま人類に必要なのはそれだと気

がつく時期に来ている。

内容はおなじなのです。『密教・超能力の秘密」をよく読んでくれたら、わたくしがたんなる知能をさしていっているのではないことが、すぐ理解できるはずです。ヒトがカミになりホトケになるにはなにが必要か、たんなる知識でないことはすぐにわかるはずです。ふつう言う知は、大腸の皮質系における活動ですが、わたくしのいう「高度の知能」は、そうではない。まったくべつな部位における活動です。それは『密教・超能力の秘密』の中に明かしてありますか白、すぐに解できる。げんにそれを理解した多くの優秀なひとびとが、わたくしのもとに集ま 「てきております。いまこそ、遠まわしの表現はやめて、ストレートにいう時期がきた。それに

また、もうぱまわしにいっていたのではまに合わない時間に来ている。むしろわたくしは遅すぎ

71」とはなにか?

第一章「ホロン革命』と『教・超能力の秘密」の対70

 

 

・「霊性」とはなにか?

 

 

第一章 『ホロン革命』と『密教・超

千年に一人出る天才 

千年に一人出る天才

 

「――ふうん」
康安は、相槌とも独り言ともつかぬ声を落とした。
「行によって、いっさいの対象に向かう感覚を制御し、心を完全に止滅する。その止滅した心に、ありありと仏を映し出したなら……人は、そのまま仏になってしまうのではないか」
「うん、うん。覚えているよ」
康円は、身を乗り出すようにして続けた。
「あのときは、康融さんに“理屈にすぎぬ”と一笑に付されました。でも、今日の講義を聞いた瞬間、直感したのです。――弥勒の降臨説法とは、奢摩他・毘鉢舎那の行による現身成仏の顕れなのではないか、と」
康安は黙って聞いている。
「説法の主は、もちろん無着です。無着は、自分がいくら説いても大衆が信じないことを知っていた。だから、新菩薩が降臨して説法される、と告げて人々を集めた。そして自ら、奢摩他・毘鉢舎那の行によって――弥勒に“なった”のです」
「つまり、変身した、と言いたいわけだな」
「そうです」
康円は即座にうなずいた。
「しかし、それでは結局、弥勒三昧と同じではないか、という反論があるでしょう。ですが、違います。まるで違う」
康円の声に、熱がこもった。
「弥勒三昧の説法であれば、経文はああ書かれない。一座の大衆ことごとく、弥勒菩薩を拝して説法を聴聞した、と記されるはずです。しかし、実際の記述はこうです。
――ある者は、光り輝く弥勒菩薩の姿を見たが、声は聞こえなかった。
――ある者は、声だけを聞き、姿は見えなかった。
――ある者は、何も見ず、何も聞かなかった」
康円は、ひと息置いた。
「これは、体験の“ばらつき”を、あまりに正直に書いている。つまり、誰もが同じ三昧に入ったのではない。そのものが、出現したのです」
「つまり……」
康安が、確かめるように言った。
「無着が、弥勒として現れた、と?」
「そうです」
一瞬の沈黙。
「では無着は、法力で大衆を惑わせ、自説の権威づけをしたのではないか?」
康円は、首を横に振った。
「違います。あれほどの人が、そのようなことをする必要はありません。あれは権威づけではない。立証です」
康円の目が、鋭く光った。
「彼は、自分が弥勒に現身成仏できるほどの法力を身につけ、その瑜伽の技法がこの論書の中に記されている――そのことを、後世に“知ってほしかった”のです。
だから、あえて明言せず、行として示した。これは理論ではない、実践であり、実現可能なのだ、と」
「もし、それを最初から言っていたら?」
「似非学者たちに、常識で切り刻まれて抹殺されたでしょう。彼はそれを見通していた。だから、あの形を選び、有眼の士を待ったのだと思います。正しく理解する者を」
康安は、じっと康円を見つめている。
「だから私は思うのです。この『瑜伽師地論』の中には、無着が実際にやってみせた――現身成仏の瑜伽の法が、必ず書かれている」
「露骨には書いていないかもしれませんが、わかる者にはわかる形で。だから今まで、誰も気づかなかった。――われわれは、それを読み解かねばならない」
「ふうん……」
「さらに言えば、求聞持法も、ここに原形があるはずです」
「なぜそう思う?」
「無着は、弥勒から“日光三昧”を授かり、記憶力が飛躍的に高まったと伝えられています。求聞持法もまた、明星を拝して修する行。日輪と明星――天体と光。そこに共通の鍵がある」
康安は、深くうなり――
「……おどろいた」
と、突然大声をあげた。
康円は飛び上がった。
「な、なんです!」
「今日という今日は、ほんとうにおどろいた」
康安は声を落とし、ぐっと顔を近づけた。
「おぬしと、まったく同じことを言った男が、もう一人いる」
「……え?」
「弥勒の現身説法も、求聞持法の原形も、奢摩他・毘鉢舎那による速疾成仏論も――寸分違わずだ」
「その人は……?」
「入唐している。名は――空海」
康円の目が、大きく見開かれた。
「空海……?」
「おれより三つ下だ。だが、おれはその男に師事している」
「最澄師と比べて、どうなのですか」
康安は、しばし考え、
「最澄が五百年に一人の天才だとすれば……空海は、千年に一人だ」
康円は、息をのんだ。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
時代は、すでに動き始めていた。

 

海の向こうの名

空海の名は、最初、誰も大声では口にしなかった。
それは評判というより、微妙な違和感として広がった。
ある講義のあと、「あれ?」と誰かが首をかしげる。
論は正しい。引用も間違っていない。だが、どこか足りない。
――説明は尽くされているのに、息が通っていない。
「唐で、不思議な僧がいるらしい」
そんな噂が、比叡の裾野から、奈良の寺々へと、ゆっくり滲んでいった。
誰も見たことはない。
だが、否定の仕方が、先に変わり始めた。
「そんなことはありえない」
そう言おうとした者が、途中で言葉を失う。
なぜありえないのか、その理由が、どこかで崩れてしまうのだ。
康円は、日ごとに奇妙な感覚を覚えるようになっていた。
経を読む。
論を読む。
すると、これまで当然だと思っていた「読み方」が、
ふと、古くなった衣のように感じられる瞬間がある。
――誰かが、別の読み方をしている。
そんな確信だけが、理由もなく胸に残る。
「空海という僧を知っているか」
ある日、康円は、まったく別の寺の学僧からそう問われた。
その声は、探るようであり、確かめるようでもあった。
「いや……直接には」
「そうか。だが不思議だ。かの名を聞くと、
“自分が遅れているのではないか”という気がしてくる」
康円は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
それは、競争の遅れではない。
理解の遅れでもない。
立っている場所そのものが、ずれている感覚だった。
康安も、同じだった。
彼は、弟子たちの議論を聞きながら、
ときおり、理由もなく目を閉じる。
「……まだだ」
誰にともなく、そう呟く。
空海が語ったという言葉が、
康安の胸の奥で、反芻され続けていた。
――仏は、来るのではない。
――行が熟したところに、現れる。
「ならば、今は……」
康安は、ゆっくりと息を吐いた。
「この国そのものが、行を始めたのかもしれん」
その頃、都では、奇妙な変化が起きていた。
若い僧が、護摩の作法を問い直し始めた。
真言の意味を、「解釈」ではなく「働き」として語る者が現れた。
経の一字一句を暗誦していた学僧が、ある日ふいに言った。
「……覚えているのに、足りない」
何が足りないのか、本人にもわからない。
だが、その欠如は、確かに感じられていた。
空海は、いない。
だが、空白が、拡大している。
人々は、知らぬうちに、
「まだ来ていない誰か」を前提に、思考し始めていた。
――かれが帰ってきたら、どうなるのか。
――かれが語ったら、何が崩れるのか。
そして、誰もが同時に、こうも思っていた。
――もはや、帰国の瞬間が“始まり”ではない。
すでに、何かは始まっている。
海の向こうで、
一人の僧が沈黙のうちに積み上げている行が、
見えない潮となって、この国の思考の岸を洗っていた。
名だけが、先に来た。
姿は、まだない。
だが、仏法の空気は、
確実に、別の呼吸を始めていた。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
空海が帰るとき、
人々は初めて知るだろう。
「自分たちは、すでに迎えに出ていた」のだと。

そして――静かな帰国

空海が帰ってきた日、
都は、何ひとつ変わらなかった。
太陽はいつもと同じ高さにあり、
市の声も、寺の鐘も、
前日と寸分違わぬ調子で鳴っていた。
それゆえに――
誰も、その日を特別だとは思わなかった。
入唐の僧が帰国する。
それ自体は、珍しいことではない。
船が着き、名が届けられ、関所を越える。
その一連の手続きは、淡々と進んだ。
ただ、奇妙なことが一つだけあった。
――噂が、追いつかなかった。
名は、すでに知れ渡っていた。
だが、姿が、その名と重ならない。
「……あれが、空海か?」
港で、誰かがそう囁いた。
そこにいたのは、
異相でもなく、威容でもなく、
あまりに普通の、一人の僧だった。
背は高くも低くもなく、
眼差しは鋭いが、前に出ない。
歩みは静かで、周囲を見渡すこともない。
ただ、足音だけが、妙に記憶に残った。
康安が、最初に彼と再会したのは、
寺でも、朝廷でもなかった。
夕暮れの、まだ灯が入らぬ回廊である。
「……お帰りなさい」
そう言ったつもりだった。
だが、声は、思ったより低く、
どこか、問いの形をしていた。
空海は、立ち止まり、
ゆっくりと頭を下げた。
「ただいま戻りました」
それだけだった。
抱擁も、感慨も、
再会を祝う言葉もない。
だが、その場にいた康安は、
自分が“迎えた”のではないことを悟った。
――もう、来ていたのだ。
「唐では……」
言いかけて、康安は口をつぐんだ。
何を聞いても、
言葉にした瞬間、軽くなる気がした。
空海は、何も促さない。
だが、その沈黙は、拒絶ではなかった。
「すぐに、語られますか」
康安は、そう尋ねた。
空海は、ほんのわずか、首を振った。
「語るべき場が、まだ整っていません」
「……場?」
「ええ。人ではありません。
理解でもありません。
呼吸です」
康安は、その言葉に、身動きが取れなくなった。
翌日、
空海は、どこにも現れなかった。
講義もせず、
説法もせず、
誰かを集めることもない。
ただ、寺の一隅で、
淡々と行を続けている――
そう聞くだけだった。
だが、変化は、即座に起きた。
空海が何かを語った、という話はない。
しかし、
「昨日まで、理解できていた論が、今日は浅く感じる」
「同じ真言なのに、音が違って聞こえる」
「説明しようとすると、嘘になる気がする」
そんな言葉が、
あちこちで、同時にこぼれ始めた。
康円は、まだ空海を見ていなかった。
それでも、確信していた。
――もう、逃げ場はない。
この人が現れた以上、
仏法は、再び「わからない場所」へ引き戻される。
だが同時に、
行けば必ず触れる場所へも。
夜、康安は独り、灯の下で思った。
英雄ではない。
救世主でもない。
この男は――
仏法が、自分で歩いてきた姿なのだと。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
その言葉の意味を、
誰もが、これから思い知ることになる。
静かな帰国だった。
だがそれは、
嵐の前ではなく、
世界がすでに別の位相へ移ったあとの、静けさだった。

それは、説法ではなかった。
誰かが空海に語らせようとしたわけでもない。
問いを投げた者もいなかった。
ただ、偶然が、重なっただけだ。
夕刻。
寺の庫裏の一角で、数人の僧が低い声で論を交わしていた。
議題は、例の弥勒の現身説法。
いつものように、結論は出ない。
「結局、あれは譬喩なのか」
「いや、象徴だろう」
「現実に起きたと読むのは、無理がある」
言葉は、慎重で、無難だった。
誰も間違ったことは言っていない。
だが、誰も前に進んでもいない。
空海は、そこにいた。
端に座り、黙って湯を冷ましていた。
議論に加わる気配はなく、
視線も、特定の誰にも向けていない。
康安は、後になって思い返す。
――あのとき、すでに“行”は臨界に達していたのだ、と。
「……つまり」
若い僧が、言葉を探しながら続けた。
「実在したかどうかはともかく、
我々にとって大事なのは“教義的整合性”で――」
その瞬間だった。
空海の手が、止まった。
ほんのわずか。
だが、誰かが気づいた。
理由はわからない。ただ、空気が締まった。
空海は、顔を上げなかったまま、言った。
「――起きた、という前提で行じてください」
それだけだった。
説明もない。
補足もない。
声は低く、強くもない。
だが、その場にいた者の、
思考の足場が、音もなく崩れた。
「……前提、で?」
誰かが、思わず聞き返した。
空海は、もう一度だけ、言った。
「起きた、として行じる。
それ以外の扱い方は、行ではありません」
沈黙。
康安は、胸の奥が、ひどく静かになるのを感じた。
――反論できない。
なぜなら、これは主張ではない。
選択の提示だった。
起きたと“信じよ”とは言っていない。
起きたと“解釈せよ”とも言っていない。
ただ、
「起きたという前提で、行じてみよ」
と言っただけだ。
だが、それは――
学問の世界から、行の世界へ踏み出す一線だった。
誰かが、笑ってごまかそうとした。
「……それでは、歴史の検証が――」
空海は、初めて顔を上げた。
視線は穏やかだった。
だが、逃げ場がなかった。
「歴史は、あとから整います」
一言。
それ以上、何も言わなかった。
空海は、立ち上がり、
湯を捨て、
そのまま場を離れた。
残された者たちは、
しばらく、誰も動けなかった。
議論は、続けられたはずだった。
だが、続ける理由が、消えていた。
康安は、悟った。
――この一言で、すでに始まってしまった。
これから誰かが修行に入るたび、
誰かが行に詰まるたび、
誰かが「本当に起きたのか」と問うたび、
必ず、この言葉が立ち上がる。
起きたという前提で、行じてみよ。
それは命令ではない。
しかし、最も残酷な招待だった。
逃げる自由はある。
だが、進めば、もう戻れない。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
その言葉が、
この国で、初めて“実践の重さ”を帯びた瞬間だった。
空海は、一言だけ、発してしまった。
そして仏法は、
再び、安全でない場所へ戻った。