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輪迴転生联想法迅 274

思念の相承と四神足法

いよいよ、釈尊の成仏法の中心の法である、四神足法の解説に入る。これが 「輪廻転生瞑想法」の根幹となる法である。

釈尊の成仏法の中でも、最高難度の法である。

うか? いままでの訓練をこなしてきた修行者であれば、なんとか歯が立つのではないかとは思うが、決して容易ではない。いままでの訓練でさえ、むずかしいのに、これ以上の訓練はできるだろうかと、不安に思う方も多いのではないだろ

わたくしは、第二章で、

霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が常恒に法を説いている。「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである

この場合、心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、という所以である。 ゆえ

とのべた。つまり、仏陀となって成仏するためには、この「思念による王者

の相承」を受けることが、理想とされているのである。

しかし、これには条件があるのだ。

どのような条件か?

わたくしは、つぎのようにのべている。

だが、そういうと、一(「思念による王者の相承」)は最高理想のものなので

275 第七章成仏法の真「水晶龍神联想法」

あるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapasば必要なのである。

また、同章で、インドのサヘート・マヘートにおける強烈な霊的バイブレー 「ションについて、つぎのようにものべている。

賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう「思念による王者の相承」であることを――。思念による王者の相承とは、じつに、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。

かいていわたくしは、これによって、解脱に至る四つの階梯のうちの、第三の境地に達したことを自覚したのであるが、これは、間脳開発の練行tapasを成就していなかったら、絶対に得られなかったものである。内なる受容の態勢がととのって初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。

つまり、仏陀となる、あるいは仏陀の境界に近づくためには、「思念による王 「者の相承」が必要なのであるが、その王者の相承を受けるためには、間脳開発の練行 tapas を成就していることが必須なのである。

わたくしは、この王者の相承を受けて、阿那含の境地に達し、このとき、死ぬまでにかならず仏陀になると強く自覚したが、それはわたくしが、tapasを成就した上で、インドのサヘート・マヘート、ミラクルの池に行ったからこそ、白

銀のバイブレーションを受けることができたのである。

したがって、「思念による王者の相承」を受けるためには、tapas を成就して今いることが、絶対条件なのである。

では、その練行 tapas とはなにか?

この tapasこそが、四神足法なのである。

いい換えれば、四神足法を成就していなければ、仏陀になるために必要な 「思念による王者の相承」を受けられないのである。しかしながら、四神足法

は、釈尊の成仏法の中でも最高度にむずかしい法である。だれでも容易に修行できる内容ではない。

「釈尊のむずかしい成仏法を修行しなければ、いつまでたっても思念の相承を受けられず、開脳が開かず、霊性開顕が不可能であるならば、いったいどれほどの人が、霊性開顕をすることができるであろうか?

ごく限られた、わずかなエリートしか、到達することができないであろう。

ことになるのだ。 当然のことながら、釈尊の成仏法を発展させた輪廻転生瞑想法も成就できない

だが、そうではないのである。

わたくしは、永年の修行により、この問題点を解決し、だれでも比較的容易

に成仏法の修行を進めていける法を完成することができたからである。

いしょうりゅうじんそれは、「水晶龍神瞑想法」という法である。

この瞑想法は単なる瞑想法ではない。

じつは、この示品龍神瞑想法は、釈尊の成仏法の真髄である

「四神足法そのもの」

なのである。

そして、この水晶龍神瞑想法の最大の特長は、

「瞑想法自体が思念の相承である」

ということなのである。

修行者は、この法にのっとって修行を進めていくことにより、本来であれば、tapasである四神足法を成就しないかぎり、絶対に受けられない思念の相承を、修行をはじめる最初の段階から受けながら、四神足法に必要な、チャクラの開発訓練を進めていくことができるのである。ことに、クンダリニー・ヨー ◎かでは、最も危険とされる脳内のチャクラの開発を、安全に、おだやかに進めていくことができるのだ。

で、あなたは、この水晶龍神瞑想法(四神足法)を修行することによって、神通力 「を得ることができるであろう。

ただし、この法は、最極秘伝に属する法なので、すべてを筆にすることはで

きない。本書では、ごく初歩の段階にとどめる。

誤解しないでいただきたいが、決して法を惜しんでいるわけではない。これ以上の段階は、どうしても、わたくしの直接の指導を受けておこなう必要があるのだ。

わたくしの主宰する阿含宗の瞑想道場にて、この「王者による思念の相承」

すなわち、「仏陀の思念」が受けられるので、そこで、わたくしや、わたくしの弟子の指導を受けて修行を進めていただきたいのである。

水晶の中に龍神のお姿を見る

まず、水晶龍神瞑想法(四神足法)の前段階である瞑想法について解説しよ

前段階とはいえ、たいへん高度な瞑想法で、これを習得しないと、釈尊の成仏法の真髄・四神足法に進むことができない。

この法は水晶を使って深層意識を活用する瞑想法である。

輪転生联想法 280

 

 

 

279 第七章 線仏法の真軸「水晶龍神想法」

 

 

輪転生联想法: 278

 

 

 

 

 

 

277

第七章成仏法の異動「水晶神联想法」

 

 

輪転生联想 276

 

 

輪迴転生联想法迅 27

輪転生聯想法 Samsaric Resonance Method

輪転生聯想法
Samsaric Resonance Method

夜明け前の堂に ひとつ灯る息
修めきれぬ道を 責める声はなく
三十七の法は 重なり合う波
「今ここ」にだけ 真理は立っていた

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

奇蹟とは 世界が変わること
因縁がほどけ 息が自由になる
死後ではない この一瞬で
凡夫はすでに 仏へ向かう

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

Before the break of dawn, one breath lights the hall
No voice remains to blame the paths undone
The thirty-seven ways rise like overlapping waves
Only in now and here does truth stand whole

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

A miracle is when the world transforms
When bonds of cause release, and breath turns free
Not after death—within this single moment
The ordinary one walks toward the Buddha

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

輪転生聯想法

輪転生聯想法 ――ある修行者の記録

わたしは、すべてを修めたわけではない。

釈尊が遺した七科三十七道品――
あれらを、ひとつ残らず踏破しなければ成仏できぬ、
そのような教えとして受け取ったことは、一度もなかった。

夜明け前の堂で、灯明を見つめながら、
わたしはただ、そう“わかった”のだ。

三十七の法の中には、同じ響きを持つものが、幾重にも重なっている。
それは無駄ではない。
釈尊は、弟子たちの心の深さに応じて、
同じ真理を、異なる角度から差し出したのだろう。

信を必要とする者もいれば、
理を求める者もいる。
智慧がまだ芽生えぬ者には、「信」が道となる。

五根、五力――
その最初に「信」が置かれているのは、
迷いの闇にいる者を、まず立たせるためだ。

だが、七覚支に至ると、
そこには沈黙が増える。
言葉よりも深い禅定が、修行者を選びはじめる。

そして、わたしが深く心を打たれたのは、
阿含の根本聖典に記された、ただ一行だった。

「四念住法は、一乗道である」
「四神足法もまた、一乗道である」

一つの法で、涅槃に至る道。

その意味が、わたしには、身体で理解できた。

最初に開いたのは、四念住だった。

身を観、受を観、心を観、法を観る。
それは思索ではなかった。
ある朝、呼吸とともに、四諦が「知識」ではなく
出来事として立ち上がった。

苦は、そこにあった。
集も、滅も、道も、すべて今ここにあった。

ついで、七覚支へと自然に移った。
わたしは禅定を求めた覚えはない。
だが、心は深く沈み、
静けさが、静けさ自身を照らし始めた。

そして、最後に――
わたしは四神足の門に立っていた。

師はいなかった。
誰かに導かれた覚えもない。

ただ、自然が、わたしをそこへ運んだ。

ここから先は、
書かれることの少ない話だ。

だが、わたしは記しておきたい。

成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。
だが――
凡夫が仏陀となること自体が、
すでに奇蹟ではないだろうか。

人は、平凡なまま、突然仏になるのではない。
修行の過程で、
通力が芽生え、
神通力が育ち、
やがて大神通力が備わる。

わたしは、その奥義に、ひとつの欠けを見た。

アビダルマの論師たちが整理した
七科三十七道品――
それは完全に見える。

だが、なお足りぬものがある。

それが、安那般那念法である。

わたしは、この法を加え、
成仏法を「八科四十一道品」と呼ぶ。

四念住
四正断
四神足
五根
五力
七覚支
八正道

そして――
四安那般那念。

勝止息
奇特止息
上止息
無上止息

中でも、「奇特止息」という名が、
わたしの心を捉えて離さなかった。

奇特――
それは、不思議。
それは、奇蹟。

この止息法は、
奇蹟を起こすための禅定ではない。

奇蹟とは何か。

大神通力とは何か。

それは、
因縁解脱力である。

自分を縛ってきた因縁を断ち、
世界の見え方が変わる。

それ以上の奇蹟が、
この宇宙にあるだろうか。

四つの安那般那念は、
すべて、この力へと収斂していく。

わたしは思う。

これらは、四神足の中の
「観神足」を、
具体的に、呼吸の中で解き明かしたものではないか、と。

だからこそ、
アビダルマは、
あえて独立の一科としなかったのだろう。

法は分けられても、
道は一つ。

呼吸の奥で、
因縁はほどけ、
成仏は、
いま、ここに現れる。

死後の話ではない。

この一息の中で――
すでに、始まっている。

奇特止息法 ―― その一夜

その夜、山は音を失っていた。

風は止み、虫の声も遠のき、
まるで世界が、ひとつの息を呑んでいるかのようだった。

わたしは堂の床に坐し、灯明を置かなかった。
闇は敵ではない。
闇こそが、呼吸の微細さを教えてくれる。

息を数えようとは思わなかった。
整えようとも、深めようとも、
何かを得ようともしていない。

ただ――
止まる息を、そのままにしておいた。

吸っているのか、吐いているのか。
その区別が、ほどけ始める。

胸の上下が消え、
鼻孔の感覚が薄れ、
「呼吸している私」という観念が、
静かに退いていった。

それでも、命は続いている。

そこに、奇特は始まった。

突然、息が――
わたしから離れた。

止まったのではない。
消えたのでもない。

「息をしている主体」が、
どこにも見当たらなくなったのだ。

怖れは起きなかった。
驚きすら、なかった。

ただ、
完全な透明があった。

身体は在る。
だが、身体に「わたし」は住んでいない。

心も在る。
だが、心を所有する者はいない。

そのとき、
胸の奥で、何かが音を立てずに崩れた。

それは、
長い生のあいだ、
「当然のもの」として積み上げてきた因縁だった。

思い出が、
映像としてではなく、重さとして現れた。

怒り。
後悔。
正しさへの執着。
救われたいという欲。

それらは物語ではない。
説明も感情も伴わない。

ただ、
絡まった糸として、
身体の深層に沈んでいた。

奇特止息法は、
それを解こうとはしなかった。

斬らず、
焼かず、
浄化も、昇華もしない。

ただ、
観た。

観られた因縁は、
力を失う。

糸は、
引きちぎられることなく、
自然に、ほどけていった。

その瞬間、
世界が、音を立てずに反転した。

「わたしが世界を見ている」のではない。
世界が、世界を見ている。

介護の現場で触れた他者の苦も、
都市で交わした無数の言葉も、
愛した者の涙も、
すべてが、同じ重さで、同じ距離にあった。

そこには、
救う者も、救われる者もいない。

ただ、
因縁が解かれた状態がある。

これが――
大神通力なのだと、わたしは理解した。

空を飛ぶことでも、
未来を知ることでもない。

因縁から自由であること。

それ以上の力を、
仏法は与えない。

夜明け前、
わたしは自然に立ち上がっていた。

息は戻っていた。
だが、以前の息ではない。

呼吸は、
わたしのものではなく、
世界の働きだった。

山の輪郭が、淡く浮かび上がる。
鳥が、最初の声を放つ。

そのすべてが、
「はじめて」であり、
「いつもそうだった」ものでもあった。

わたしは、その朝、
仏になったわけではない。

だが――
成仏は、すでに起きていた。

死後の話ではない。

この一夜、
この一息、
この因縁解脱の中で。

神通力を“使わない”という戒

奇特止息の一夜から、幾日かが過ぎた。

何かが変わった、という感覚はなかった。
むしろ、変わらないことが、はっきりと見えていた。

朝は来る。
腹は減る。
人は、疲れ、怒り、悲しむ。

ただ――
それらに触れたときの深さが、以前とは違っていた。

わたしは、知ってしまったのだ。
出来てしまうことを。

他者の心の揺れが、言葉になる前にわかる。
争いが起きる前の分岐点が、静かに浮かぶ。
苦が、どこで因縁となり、どこで解けるかが、
“見えてしまう”。

神通力とは、派手なものではない。
それは、
避けられないほど自然に起こる理解だ。

そして、その理解は、
使おうと思った瞬間、毒に変わる。

ある日、街で、若い男と目が合った。

ほんの一瞬。
その奥に、
抑えきれない怒りと、
「正しくありたい」という歪んだ願いが見えた。

わたしには、
彼の言葉を変え、
行動を逸らし、
因縁を先回りして断つことができた。

だが、その瞬間、
胸の奥で、ひとつの声が立った。

「それは、介入であって、解脱ではない」

神通力を使えば、
世界は静かになる。

だが、
相手の修行は、奪われる。

それは、
善意をまとった支配だ。

その夜、わたしは、
自らに戒を課した。

神通力を、使わない。

これは、逃げではない。
力を恐れたわけでもない。

むしろ逆だ。

神通力を使わないことが、
最も困難な修行だと、
知ってしまったからだ。

見えるからこそ、黙る。
分かるからこそ、待つ。
出来るからこそ、しない。

それは、
剣を持ちながら、
鞘から抜かない修行だった。

介護の現場で、
苦しむ人がいた。

わたしは、
その人の苦が、
どこから生じているかを、知っていた。

一言で、
心を軽くすることもできた。

だが、
わたしはただ、
手を温め、
呼吸を合わせ、
その人の速度で、時を過ごした。

神通力は、
使われなかった。

だが、
因縁は、自然にほどけていった。

それでよかった。

神通力を使わないという戒は、
戒律の中で、最も静かな戒である。

誰にも見えず、
誰にも称えられず、
破っても、罰はない。

だが、
これを破った瞬間、
修行者は、仏から遠ざかる。

なぜなら――
仏とは、
世界を操る存在ではなく、
世界に委ねきった存在だからだ。

わたしは今も、
力を持っている。

だが、それは、
「使える力」ではない。

使わないと決め続ける力だ。

それが、
奇特止息法の後に授かった、
最後の神通力だった。

 

シャカの成仏法「七科三十七道品」

シャカの成仏法「七科三十七道品」

シャカの成仏法「七科三十七道品」

ニルヴァーナの智慧を獲得する修行法
「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法(ぼだいぶんぽう)」

神聖なる智慧を獲得するための七種類のシステムと、三十七種類のカリキュラム
ブッダの説かれた阿含の経典群の中には、ニルヴァーナを表現したと思われる経典、仏典を見出すことができるのです。
それどころか、ニルヴァーナの智慧を獲得する修行法までも、発見できるのです。
その修行法とは、「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」と名づけられた修行法です。これは、七科目・三十七種類にわたる教科目であり、桐山管長は、これを「神聖なる智慧を獲得するための七種のシステムと、三十七種類のカリキュラム」と呼んでいます。世の人々は、大乗仏教だけしか知らないために、仏教にこういう経典のあることをほとんど知りません。
パーリ文「中阿含」第百三の kinti sutta につぎのように述べられています。
ここに比丘らよ、われによりて法は悟られ、汝らに説かれたり。すなわち四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道これなり。それゆえにすべての比丘らは相和し相欣び、争うことなくして、これを学ばざるべからず。
ブッダによってさとられた智慧の獲得の修行法、実践法が、ここに明らかにのべられています。
阿含経に説かれたこの七科目の修行法は、アビダルマ論師によって「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」と名づけられました。さとりにいたる三十七の修行法という意味です。

四念住法(しねんじゅうほう)
旧訳では四念処(しねんじょ)といいます。四念処観ともいいます。さとりを得るための四種の内観・瞑想法です。身念住(しんねんじゅう)・受念住(じゅねんじゅう)・心念住(しんねんじゅう)・法念住(ほうねんじゅう)の四つです。

四正断法(ししょうだんほう)
旧訳では四正勤といいます。断断(だんだん)・律儀断(りつぎだん)・随護断(ずいごだん)・修断(しゅだん)の4つの修行。

四神足法(しじんそくほう)
四如意足とも訳す。
四つの自在力を得るための根拠となるもの。超自然的な神通力を得るための4種『欲神足(よくじんそく)・勤神足(ごんじんそく)・心神足(しんじんそく)・観神足(かんじんそく)』の修行法。

五根法(ごこんほう)
信根(しんこん)・精進根(しょうじんこん)・念根(ねんこん)・定根(じょうこん)・慧根(えこん)の五つ。根とは自由にはたらく能力をいう。仏法僧の三宝にたいする信と、精進・念・禅定(瞑想)・智慧が、ニルヴァーナに向かって高い能力を発揮する修行。

五力法(ごりきほう)
信力(しんりき)・精進力(しょうじんりき)・念力(ねんりき)・定力(じょうりき)・慧力(えりき)(または智力)。ニルヴァーナに至る高度な力を得る修行。

七覚支法(しちかくしほう)
択法覚支(ちゃくほうかくし)・精進覚支(しょうじんかくし)・喜覚支(きかくし)・軽安覚支(きょうあんかくし)・捨覚支(しゃかくし)・定覚支(じょうかくし)・念覚支(ねんかくし)の七つをいう。ニルヴァーナへみちびく七つの修行。

八正道法(はっしょうどうほう)(八聖道とも書く)
理想の境地に達するための八つの道『正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)』

以上が、「七科三十七道品」です。
四念住法・五根法、これは、瞑想です。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想です。
四神足法は、特殊な tapas( 練行)です。神足とは、神通力(超人的能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力を得るための四種の修行法です。

七覚支 ― 林中の対話

七覚支 ― 林中の対話

このように、私は聞いた。

ある日のこと、含衛国の祇樹給孤独園は、朝露に濡れた静かな光に包まれていた。
風は葉を揺らし、比丘たちの歩みも、鳥の羽音さえも、どこか慎ましく感じられる時刻であった。

そのとき、一人の異教徒の出家が、園の奥からゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の衣は使い込まれ、眼差しには長い遍歴の疲れと、なお消えぬ問いの炎が宿っていた。

彼は仏さまの前に至ると、静かにひざまずき、額を地に伏せておみ足をいただいた。
礼拝を終え、慎重に一歩退いて座に着くと、胸に秘めてきた疑問を、ようやく言葉にした。

「世尊よ。
世尊が説かれるという、覚分――七覚支とは、いかなるものなのでしょうか。
何をもって“覚りに至る因”とされるのか、どうかお教えください。」

仏さまは、しばしその出家を見つめられた。
責めることも、試すこともなく、ただ澄んだまなざしで。

そして、静かに語り始められた。

「よく聞きなさい。
覚分とは、修行の道を支える七つの要であり、七三十七道品の一つである。
それは、同時に現れるものではない。
順に生じ、順に育まれ、順に完成されていく道なのだ。」

異教徒の出家は、思わず身を乗り出した。

「世尊よ。
では、その覚分は、どのようにして生じ、どのように修められていくのでしょうか。」

仏さまは頷かれた。

「もし比丘が、身体の内側を観察するならば――
彼は、ただ観ることに没頭し、心を散らさず、念をつなぎ続けねばならない。」

比丘たちの背筋が、わずかに正される。

「そのとき生じるのが、念覚支である。
今ここに気づき続ける力だ。
この念が十分に育まれ、揺らがなくなったとき、念覚支は完成したと言える。」

仏さまは、言葉を区切りながら続けられた。

「念が確かになると、次に、法を選び、分別し、深く観ずる力が起こる。
これが択法覚支である。
何が真実に導き、何が迷いを深めるか――
それを見極める智慧だ。」

異教徒の出家は、静かに息を呑んだ。
彼の心に、これまで断片だった修行の経験が、一本の線として結ばれ始めていた。

「さらに、
その理解を支える精進覚支が起こり、
修行の中に自然な喜びである喜覚支が満ち、
心身が静まる軽安覚支が訪れる。」

仏さまの声は、森の静けさと溶け合う。

「軽安の中で、心は一点に定まり、定覚支が成熟する。
そして最後に――
執着も嫌悪も手放した、澄み切った平等の心、捨覚支が完成するのだ。」

仏さまは、少し間を置かれた。

「これらは、四念処の観察と離れては生じない。
身体は不浄であると観じ、
受は苦であると知り、
心は無常であると見極め、
法は我にあらずと洞察する。」

「内を観じ、外を観じ、内外をともに観じながら、
念を断ち切らず、心を今に結び続けるのだ。」

異教徒の出家の目に、静かな光が宿った。
それは、新しい教えに驚いた光ではない。
長く探し続けてきた道が、ようやく一つにつながった者の光であった。

仏さまは、最後にこう結ばれた。

「このようにして、七覚支は次第に生じ、
生じたものは、次第に完成していく。
急ぐ必要はない。
ただ、途切れぬ正念と、正しい修行があればよい。」

仏さまが語り終えられると、
そこに集っていた比丘たちは、深い喜びとともにその教えを受け取り、
それぞれの歩みにおいて、静かに実践していったという。

――覚りとは、遠き雷鳴ではない。
一つの気づきが、次の気づきを生み、
やがて世界の見え方そのものが変わっていく、
その静かな連なりなのである。