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賢人の五階梯 ――ブッダが遺した成仏法』 序章 光を求める者

『賢人の五階梯 ――ブッダが遺した成仏法』
序章 光を求める者

静謐で現代的な叙情を保ちつつ、真輝が「賢さ」と「悟り」を探す旅へ踏み出す導入章としてお届けします。

序章 光を求める者

夜の終わりが近づく頃、真輝はまだデスクに向かっていた。
モニターの光が、部屋の白い壁を淡く照らしている。
プログラムのコードが流れ、思考が渦を巻く。
だが、心はどこか遠くにあった。

「こんなに考えても、何も変わらないな……」

自嘲のように呟いた声が、静かな部屋に響く。
頭では理解している。
努力も理性も、結果を生み出す。
けれど、心の奥にはいつも「満たされぬ空洞」が残るのだった。

その夜、窓の外には都会の霧がかかっていた。
遠くのビルの灯りがぼやけ、世界がゆっくりと溶けていくようだった。
真輝はふと、スマートフォンの画面を開いた。
SNSの言葉の洪水。ニュースの騒音。
どれも心を埋めてはくれない。

そのとき、不意に目にとまったのは、一つの古い言葉だった。

「賢人とは、智慧を積み重ねてゆく者である。
智慧は、清めの道の果てに咲く。」

引用の出典には、こうあった。――『阿含経』

胸の奥が静かにざわめいた。
「賢くなる」ということが、いつの間にか数字や地位の意味に変わっていた。
けれどこの言葉は、もっと根源的な何かを指しているように思えた。

その夜、真輝はノートを開き、書き記した。

「智慧とは何か。
賢くなるとは、どんな道なのか。」

ペンの先が震える。
心の奥で、何かが目を覚ます気配があった。

翌朝、彼は久しぶりに早起きをした。
薄明の中、静かな街を歩く。
コンビニの前を過ぎ、ビルの谷間を抜ける。
冷たい空気が肺に入り、思考が澄んでいくのを感じた。

その角に、古びた木造の建物があった。
小さな看板に、筆書きの文字が見える。
「禅学会館」

なぜか足が止まった。
その瞬間、扉の向こうから声がした。

「探していたのかね、光を。」

年老いた僧の声だった。
穏やかで、しかし奥に鋭い響きを持っている。

真輝は言葉を失ったまま、うなずいた。
老僧は微笑み、静かに告げた。

「では、光を掴もうとするのではなく――
光が、君を掴むまで待ちなさい。」

その言葉が、胸の奥深くに沈んでいった。

やがて、老僧は一冊の古びた経典を差し出した。
「七科三十七道品――ブッダの遺した成仏法だ。
もし、本当の智慧を求めるなら、ここから始めなさい。」

真輝は経典を受け取った。
その表紙には、静かにこう記されていた。

「賢人の五階梯」

――すべては、そこから始まった。

 

第一章 シュダオンへの覚醒 ――けがれを脱ぐ者

朝の光が、ビルの谷間をゆっくりと染めていく。
真輝は小さな経典を胸に抱き、禅学会館の庭に立った。
冷たい空気が頬を撫で、胸の奥に眠る雑念を揺さぶる。

老僧は静かに座り、彼を見つめた。
「シュダオンへの道は、まず自分を知ることから始まる。」
声は穏やかだが、言葉の重みが、胸骨を震わせた。

真輝は深く息を吸った。
心の中で渦巻く感情、過去の記憶、誰かへの怒り――
それらすべてが、まだ消えてはいなかった。

「まず、目に見えぬ汚れを洗うのだ。」
老僧は水面に小石を落とす。
波紋がゆっくり広がり、やがて静かに消える。
「心も同じ。乱れた波をただ見つめ、消えてゆくのを待つのだ。」

真輝は座り、瞑想を始めた。
呼吸を整え、息の一つひとつを感じる。
思考が浮かぶたび、捕まえず、評価せず、ただ通り過ぎさせる。

数時間が過ぎ、日が高くなる。
雑念の波が、少しずつ薄れ、心が澄んでいく。
胸の奥に、微かだが確かな光が差し込むのを感じた。

「これが……清めるということか。」
真輝の声は、ほとんど風に溶けた。
汚れを取り去るとは、ただ否定することではない。
自分を、すべての感情を、ありのままに受け入れ、見つめること。

午後になり、庭の木々が影を落とす。
真輝は立ち上がり、深く一礼した。
老僧は微笑む。
「今日の一歩は、ほんの始まりにすぎぬ。
だが、この小さな光が積み重なれば、やがて賢者の道となる。」

真輝は経典を胸に抱き直し、静かに歩き出す。
階段を下りるたび、世界が少しずつ変わって見えた。
空気の透明さ、風の匂い、足音の響き――
すべてが清らかに、胸に届く。

彼の目にはまだ全てが鮮やかに映っていた。
けれど、かつての混乱は消えつつある。
これが、シュダオンへの第一歩――
「けがれを脱ぐ者」の覚醒の始まりだった。

第二章 シダゴンへの歩み ――心を高める者

朝の光が、街路樹の葉を透かしてゆらめく。
真輝は再び禅学会館の庭に立ち、深く息を吸った。
昨日よりも、空気の透明さを肌で感じる。
胸の奥に灯った光が、少しずつ、身体の隅々に広がっていくのを覚えた。

老僧は静かに語りかける。
「シュダオンで清めた心は、まだ基礎にすぎぬ。
次は、光を高める修行だ。」

言葉の一つひとつが、真輝の心を揺さぶる。
高める――それは、他者を理解すること。
自己を超え、世界を知ること。

彼は瞑想を続ける。
呼吸を感じ、身体の感覚に集中する。
雑念は浮かぶが、先ほどのように恐れず、ただ見つめる。
「思考に巻き込まれず、感情に染まらず、ただ在る」
それがシダゴンへの第一歩だった。

午後、庭の静けさの中、子どもたちの笑い声が遠くに響いた。
真輝はそれを聞きながら、微笑みが自然に胸に広がるのを感じる。
慈悲の光――他者へのやさしさが、思考ではなく、身体で理解できる瞬間だった。

老僧は静かに立ち、彼の肩に手を置いた。
「光を高めるとは、力を増すことではない。
心を開き、世界に調和すること。
その中で、智慧は自然に育つ。」

夕暮れが近づき、空が朱に染まる。
真輝は経典を抱き、階段を下りる。
胸の中の光は、昨日よりも鮮やかに、彼を照らしていた。
日常の風景も、静かに、しかし確実に変わって見える。

――これが、シダゴンへの歩み。
光を清め、さらに高め、世界と調和する者の道。
真輝の胸の奥に、次なる扉が静かに開き始めていた。

第三章 アナゴンの試練 ――次元を超える者

夜明け前の街に、霧が静かに降りる。
真輝は屋上に立ち、手にした経典を抱いたまま、深く呼吸を整える。
胸の奥には、清めと高めの光が確かに宿っていた。
だが、今度はそれを超える試練が待っている。

老僧は後ろで静かに立ち、言葉を落とす。
「次は、次元を超える覚悟だ。
善も悪も、過去も未来も、すべてを超えよ。」

真輝の胸がざわつく。
善悪を越える――それは、思考を手放すことに等しい。
正しい・間違っているという判断を手放すこと。
安全な世界の境界線を捨て、未知の領域へ踏み出すこと。

瞑想の中で、彼は自分の感情や欲望を一つひとつ見つめた。
怒りも悲しみも、喜びも愛も、
そのすべてが波となって心に押し寄せる。
捕まえず、拒まず、ただその存在を感じる。

時間の感覚が溶ける。
思考はゆっくりとほどけ、意識は空間の広がりに溶け込む。
屋上から見下ろす街の灯りも、もはや「自分の世界」ではない。
光と影が、ひとつの呼吸で繋がっていることに気づく。

「無我……」
真輝の心に小さな声が響く。
自我の輪郭が、風に吹かれた水面のように揺らぎ、やがて消えていく。

霧が晴れ、夜が溶けるとき、胸の奥に広がる光は、以前よりも強く鮮やかだった。
それはもはや、個人の光ではない。
世界そのものとひとつになった光――
存在の次元を超えた覚醒の光だった。

老僧は静かに微笑み、手を振った。
「これがアナゴンの試練だ。
光は君を導き、君もまた光となる。」

真輝は屋上の端に立ち、風に身を任せる。
過去も未来も、正誤も善悪も、すべてが一瞬のうちに消えた。
残ったのは、ひたすらに広がる光――
そして、深い静寂。

胸の中で、ひとつの確信が芽生えた。
――光は、自己の内だけではなく、世界そのものに宿るものなのだ。

彼の覚醒は、まだ終わらない。
次に待つのは、光の完成――アラカンへの道である。

第四章 アラカン――光の完成

夜明けの街はまだ静かだった。
霧は消え、空は淡い蒼をまとい、ビルの輪郭が柔らかく浮かぶ。
真輝は広い屋上に立ち、深く息を吸った。
胸の奥で、これまでの歩みのすべてがひとつに重なり、光の柱となって立ち上がる。

老僧はもう後ろにはいない。
言葉も、教えも、今は必要ない。
すべての導きは、真輝自身の内に宿っていた。

「これが……完成か」
静かに呟く。
自己の輪郭は消え、心は世界と溶け合い、光がただ存在する。

足元の街路灯も、通り過ぎる人々の影も、微かな風も、
すべてが彼の一部となった。
世界を分ける線も、時間の制約も、過去や未来も、
一瞬にして溶け去った。

胸の奥に、ひとつの静寂が広がる。
その静寂は、孤独ではない。
喜びでも悲しみでも怒りでもない。
ただ、ひたすらに光が在る。

真輝は目を閉じ、微笑む。
光は胸を満たし、全身を駆け巡り、やがて身体の外へも広がっていく。
街は目覚めつつある。
人々の一瞬の呼吸、歩く足音、窓辺の光――
そのすべてが、静かな調和を奏でる。

彼は知る。
智慧とは、知識や計算ではなく、存在そのものと調和すること。
賢者とは、光を保つ者ではなく、光そのものになる者。

やがて太陽が顔を出し、街を黄金色に染めた。
光はただ、あたりまえに、そこにある。
そして、真輝の歩みもまた、あたりまえに世界の中に溶けている。

――これが、アラカンの完成。
光は完成し、自己は消え、存在は世界とひとつになった。

最後に、遠くから微かな声が聞こえる。
子どもが笑う声、鳥のさえずり、風の囁き――
光は、いまも歩いている。
世界のすべての中を、私たちの胸の奥を、静かに照らしている。

21世紀は智慧の時代

21世紀は智慧の時代

ニルヴァーナに至る五つの階梯

阿含宗の修行の目的は、ニルヴァーナへの到達である。

ゴータマ・ブッダの究極の教えが、ニルヴァーナにあることは、わたくしたちのよく知るところである。だから、わたくしたちは、仏教徒として、ブッダの忠実な弟子として、ニルヴァーナに到達するための修行をするのである。

そのための修行法として、ゴータマ・ブッダは、「阿含経」に、七科三十七道品の「成仏法」をのこされている。

これを修行すると、高度の智慧が発生する。要するに、段階的に、賢くなってゆくのである。だから、結果的には「頭が良くなる修行」ということになる。 賢人をつくり出すシステムといってもよいだろう。だが、目的はどこまでも二ルヴァーナだ。

五つの階梯がある。

五つの階梯とは、

一、基礎訓練

11 srotāpanna

sakṛdāgāmin

anāgāmin

五、arhat

・シュダオン

シダゴン

アナゴン

アラカン

説明すると、

シュダオン――けがれをすべてとり除いて清められた賢者

シダゴン高められた賢者

アナゴン ―(次元を) 飛躍した聖者

アラカン ――ニルヴァーナを完成した聖者、「ブッダ」ともいう。

一、基礎訓練

まず、賢者となる修行にたえる心身をつくらねばならない。ひと口でい

えば、精神的・肉体的に、マイナスの部分を無くすのである。

ばならない。 現代人は、いろいろなマイナス部分を持っている。これを是正しなけれ第一に完全なる心身の「癒し」である。

現代人は、大なり小なり、心の奥に、葛藤や、精神外傷(Trauma)を持っている。精神外傷は、人間の無意識層にひそみ、思いがけない時にほとばしり出て、思いもよらぬ失錯行為や、神経症的行動となって浮かび出てくる。どんなに頭がよくても、健全な人間としての活動はできない。いングによって、それを発見し、除去しなければいけない。潜在意識、深層意識の分析が必要である。

や、頭がよい人間ほど、その傾向がつよいといえる。徹底的なカウンセリそれに附随して、充分な栄養、睡眠、休息をとらねばならない。

わたくしの考えでは、現代人は、栄養がかたよっている。たんぱく質、脂肪、糖質、ヴィタミン、ミネラル等の適正な配分がなされていない。ぜいたくな食事でなく、適正な食事が必要なのである。

現代人は不眠の傾向があって、充分な休息もとれていない。リラックスしてよく眠り、短時間で充分な休息をとる方法を学ばねばならない。リラックスと充実である。

まう。 修行は、楽しくなくてはなが続きしない。つらいばかりでは萎縮してし修行の楽しさを教えなくてはいけない。

修行は楽しいものである。あたらしい世界のなかでの自分の再発見がある。再確認といってもよい。

魅力だ。 また、自分の能力の向上が、まざまざと自覚できる魅力がある。変身の

を作製する。 基礎訓練をつづけるなかで、本格的修行に入ったときの修行プログラム

人の才能、性格、体力など、千差万別である。一〇〇人の修行者がいれば、一〇〇の修行プログラムが必要なのだ。

忘れたが、入行に際しては、医師の健康診断書が要る。

かくて、次の段階に移る。

二、清められた賢者・須陀洹シュダオン

精神的・肉体的・靈的に清められる。

霊的に清められるというのは、先祖のなかで、非常に不幸な人生を送った人があると、「運命の反覆」現象を起こして、自分もおなじようなた人があると、「運命の反覆」現象を起こして、自分もおなじような不幸な運命をくり返すことがある。これを解消することである。

人は、自分ひとりで生まれてきたのではない。両親を通じて、欲すると欲せざるにかかわらず、先祖からさまざまなものを受けついでいる。つまり、自分の人生は、先祖を無視しては考えられないのである。運命の形成には、大きく先祖が影響しているということである。

世界的な心理学者で、フロイト、ユングのあとをうけてあらわれたあたらしい心理学「運命心理分析学,家族的深層心理学」(Schicksalsanalyse) の創始者リポート・ソンディ博士は、「家族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが「運命の反覆」である。

不幸で、悲惨な人生を送った先祖の抑圧意識が、子孫におなじような人

生を送らせようとするのだ。これが、リポート・ソンディのいう「運命の反覆」現象で、そういう先祖がいた場合、その先祖の抑圧意識を解消しなければならない。先祖の抑圧意識による「強制運命」が、修行の成果を妨げるのである。(くわしくは拙著『チャンネルをまわせ』その他を参照せられたい)

賢者須陀洹は、また、「預流」の賢者、「逆流」の賢者ともよばれる。

「預流」とは、あたらしく賢者の流れに入った(預)という意味であり、 「逆流」とは、生死・因縁の流れに逆う賢者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのまま、運命のままに生きてゆくよりほかなく、その流れに逆うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う。つまり、生死・因縁の法則から超越する賢者である、という意味である。

まよいそれは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には病弱を克服し、霊

内には先祖の悪しき影響い

それは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には病弱を克服し、霊的には先祖の悪しき影響から脱却しているため、生まれつきの因縁を変え、運命を変えてしまうことによると思われる。

三、高められた賢者・斯陀含

清められて須陀洹となった修行者は、つづいて、智慧と徳を高める斯陀含の修行に入る。

高められるとはなにが高められるのか?

智慧と徳と力が高められるのである。完成した賢者としての智慧と徳と力がそなわることである。

ちなみに、ここで智慧というのは、なんでもかんでも知っている物知り博士というような智慧ではなく、人生を成立させている真理・原則を体得

している智慧である。

中村元先生によると、智慧を意味する語は多数あるが、もっともふつうな原語は、prajñā(パーリ語ではpaññā)で、それは、jñā(知る)という語根に pra という接頭辞のついたものであって、jñāという語根はギリシア語の gnosis、英語のknow (知る)とおなじ語源に由来するという。漢訳仏典では「智慧」と訳されるのがふつうである。

仏教語として、「決断を智といい、簡択を慧という」また、「分別妄想を

「照見名」智、解了称」慧」(照見するを智と名づけ、解了するを慧と称す)

離れるはたらき」として、『大乗義章』九に、つぎのように説いている。 要するに、智慧を意味する語が多数あるということは、智慧には、多く

の段階と種類があるということであろう。

その最も高度のものは、それを持つ者以外には、想像もつかないものと

思われる。

ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。

思われる。

ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。

徳とは力である。ほんとうの力は徳から生じたものである。ほんとうの力とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである。徳から生じたのではない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろぼし、他人を傷つけ、社会を毒する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、権力とよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。 りんりよく

凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。

不徳の者は力がないから、なにをやっても中途半端になり、また、まわり合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。

ひと口でいえば、運気を増強する。運をよくするのだ。

運が悪かったらなんにもできない。修行を成就することもできない。

斯陀含の賢者は、完全な徳と力と智慧を身につける。かれには不可能が無くなる。

四、次元を飛躍した聖者・阿那含

る。 この段階に入ると、賢者は、聖者の域に入る。次元を飛躍した智慧を獲得し、霊性開題をして、霊界と交流する力を持つようになった聖者であ

五、次元を超越した聖者・可置

五、次元を超越した聖者・阿羅漢

ニルヴァーナに到達したブッダのことである。

以上、七科三十七道品の智慧の修行について説明したが、やや抽象的と思われるので、わかりやすく、図表にしてみた。(口絵参照)

阿含宗の修行の特徴として、護摩行と滝行がある。

護摩行は、「火の瞑想」、火界定の行である。

滝行は、「水の瞑想」、水想観の行である。

ともに、わたくしの修行体験から加えたもので、火と水によって心身をきよめ、たかめる「練行」である。
あろうと思っている。 この二つの行だけで、わたくしは、だれでも、斯陀含にまでは到達できるで

わざニルヴァーナにまで到達するのは、至難の業である。わたくしといえども、 そこまで修行者を導く自信はない。しかし、準・ニルヴァーナにまで到達させる自信はあるのだ。すべては、修行者の努力と熱意次第だ

 

ニルヴァーナに至る五つの階梯

ニルヴァーナに至る五つの階梯

阿含宗の修行の目的は、ニルヴァーナへの到達である。

ゴータマ・ブッダの究極の教えが、ニルヴァーナにあることは、わたくしたちのよく知るところである。だから、わたくしたちは、仏教徒として、ブッダの忠実な弟子として、ニルヴァーナに到達するための修行をするのである。

そのための修行法として、ゴータマ・ブッダは、「阿含経」に、七科三十七道品の「成仏法」をのこされている。

21世紀は智慧の時代

206

これを修行すると、高度の智慧が発生する。要するに、段階的に、賢くなってゆくのである。だから、結果的には「頭が良くなる修行」ということになる。 賢人をつくり出すシステムといってもよいだろう。だが、目的はどこまでも二

ルヴァーナだ。

五つの階梯がある。

五つの階梯とは、

一、基礎訓練

11 srotāpanna

sakṛdāgāmin

anāgāmin

五、arhat

・シュダオン

シダゴン

アナゴン

アラカン

説明すると、

シュダオン――けがれをすべてとり除いて清められた賢者

シダゴン高められた賢者

アナゴン ―(次元を) 飛躍した聖者

アラカン ――ニルヴァーナを完成した聖者、「ブッダ」ともいう。

一、基礎訓練

まず、賢者となる修行にたえる心身をつくらねばならない。ひと口でい

えば、精神的・肉体的に、マイナスの部分を無くすのである。

阿含

21世紀は智慧の時代

ばならない。 現代人は、いろいろなマイナス部分を持っている。これを是正しなけれ

第一に完全なる心身の「癒し」である。

現代人は、大なり小なり、心の奥に、葛藤や、精神外傷(Trauma)を

持っている。精神外傷は、人間の無意識層にひそみ、思いがけない時にほとばしり出て、思いもよらぬ失錯行為や、神経症的行動となって浮かび出てくる。どんなに頭がよくても、健全な人間としての活動はできない。いングによって、それを発見し、除去しなければいけない。潜在意識、深層意識の分析が必要である。

や、頭がよい人間ほど、その傾向がつよいといえる。徹底的なカウンセリ

それに附随して、充分な栄養、睡眠、休息をとらねばならない。

わたくしの考えでは、現代人は、栄養がかたよっている。たんぱく質、

脂肪、糖質、ヴィタミン、ミネラル等の適正な配分がなされていない。ぜいたくな食事でなく、適正な食事が必要なのである。

現代人は不眠の傾向があって、充分な休息もとれていない。リラックスしてよく眠り、短時間で充分な休息をとる方法を学ばねばならない。

リラックスと充実である。

まう。 修行は、楽しくなくてはなが続きしない。つらいばかりでは萎縮してし

修行の楽しさを教えなくてはいけない。

修行は楽しいものである。あたらしい世界のなかでの自分の再発見がある。再確認といってもよい。

魅力だ。 また、自分の能力の向上が、まざまざと自覚できる魅力がある。変身の

を作製する。 基礎訓練をつづけるなかで、本格的修行に入ったときの修行プログラム

人の才能、性格、体力など、千差万別である。一〇〇人の修行者がいれ

ば、一〇〇の修行プログラムが必要なのだ。

忘れたが、入行に際しては、医師の健康診断書が要る。

かくて、次の段階に移る。

二、清められた賢者・須陀洹シュダオン

精神的・肉体的・靈的に清められる。

霊的に清められるというのは、先祖のなかで、非常に不幸な人生を送っ

た人があると、「運命の反覆」現象を起こして、自分もおなじような下年

た人があると、「運命の反覆」現象を起こして、自分もおなじような不幸な運命をくり返すことがある。これを解消することである。

人は、自分ひとりで生まれてきたのではない。両親を通じて、欲すると欲せざるにかかわらず、先祖からさまざまなものを受けついでいる。つまり、自分の人生は、先祖を無視しては考えられないのである。運命の形成には、大きく先祖が影響しているということである。

世界的な心理学者で、フロイト、ユングのあとをうけてあらわれたあたらしい心理学「運命心理分析学,家族的深層心理学」(Schicksalsanalyse) の創始者リポート・ソンディ博士は、「家族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが「運命の反覆」である。

21世紀は智慧の時代

212

不幸で、悲惨な人生を送った先祖の抑圧意識が、子孫におなじような人

生を送らせようとするのだ。これが、リポート・ソンディのいう「運命の反覆」現象で、そういう先祖がいた場合、その先祖の抑圧意識を解消しなければならない。先祖の抑圧意識による「強制運命」が、修行の成果を妨げるのである。(くわしくは拙著『チャンネルをまわせ』その他を参照せられたい)

賢者須陀洹は、また、「預流」の賢者、「逆流」の賢者ともよばれる。

「預流」とは、あたらしく賢者の流れに入った(預)という意味であり、 「逆流」とは、生死・因縁の流れに逆う賢者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのまま、運命のままに生きてゆくよりほかなく、その流れに逆うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う。つまり、生死・因縁の法則から超越する賢者である、という意味である。

まよいそれは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には病弱を克服し、霊

内には先祖の悪しき影響い

それは、精神的には煩悩・迷妄を制御し、肉体的には病弱を克服し、霊的には先祖の悪しき影響から脱却しているため、生まれつきの因縁を変え、運命を変えてしまうことによると思われる。

三、高められた賢者・斯陀含

清められて須陀洹となった修行者は、つづいて、智慧と徳を高める斯陀含の修行に入る。

高められるとはなにが高められるのか?

智慧と徳と力が高められるのである。完成した賢者としての智慧と徳と力がそなわることである。

ちなみに、ここで智慧というのは、なんでもかんでも知っている物知り博士というような智慧ではなく、人生を成立させている真理・原則を体得

している智慧である。

中村元先生によると、智慧を意味する語は多数あるが、もっともふつうな原語は、prajñā(パーリ語ではpaññā)で、それは、jñā(知る)という語根に pra という接頭辞のついたものであって、jñāという語根はギリシア語の gnosis、英語のknow (知る)とおなじ語源に由来するという。漢訳仏典では「智慧」と訳されるのがふつうである。

仏教語として、「決断を智といい、簡択を慧という」また、「分別妄想を

「照見名」智、解了称」慧」(照見するを智と名づけ、解了するを慧と称す)

離れるはたらき」として、『大乗義章』九に、つぎのように説いている。 要するに、智慧を意味する語が多数あるということは、智慧には、多く

の段階と種類があるということであろう。

その最も高度のものは、それを持つ者以外には、想像もつかないものと

思われる。

ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。

思われる。

ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。

徳とは力である。ほんとうの力は徳から生じたものである。ほんとうの力とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである。徳から生じたのではない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろぼし、他人を傷つけ、社会を毒する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、権力とよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。 りんりよく

凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。

不徳の者は力がないから、なにをやっても中途半端になり、また、まわり

21世紀は智慧の時代・・・・・

21

合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。

ひと口でいえば、運気を増強する。運をよくするのだ。

運が悪かったらなんにもできない。修行を成就することもできない。

斯陀含の賢者は、完全な徳と力と智慧を身につける。かれには不可能が無くなる。

四、次元を飛躍した聖者・阿那含

る。 この段階に入ると、賢者は、聖者の域に入る。次元を飛躍した智慧を獲得し、霊性開題をして、霊界と交流する力を持つようになった聖者であ

五、次元を超越した聖者・可置

五、次元を超越した聖者・阿羅漢

ニルヴァーナに到達したブッダのことである。

以上、七科三十七道品の智慧の修行について説明したが、やや抽象的と思われるので、わかりやすく、図表にしてみた。(口絵参照)

阿含宗の修行の特徴として、護摩行と滝行がある。

護摩行は、「火の瞑想」、火界定の行である。

滝行は、「水の瞑想」、水想観の行である。

ともに、わたくしの修行体験から加えたもので、火と水によって心身をきよめ、たかめる「練行」である。

20世紀は智慧の時代・

あろうと思っている。 この二つの行だけで、わたくしは、だれでも、斯陀含にまでは到達できるで

わざニルヴァーナにまで到達するのは、至難の業である。わたくしといえども、 そこまで修行者を導く自信はない。しかし、準・ニルヴァーナにまで到達させる自信はあるのだ。すべては、修行者の努力と熱意次第だが――。

218

प्रथमः आगमसूत्रः तृतीयः अध्यायः अर्पणम्

प्रथमः आगमसूत्रः तृतीयः अध्यायः अर्पणम्

मया एतत् श्रुतम्-

एकदा विश्वसम्मानितः (शाक्यमुनिः) श्रावस्तीराज्ये एकान्तगीताउद्याने निवसति स्म ।

तस्मिन् समये आनन्दं प्राह विश्वसम्मानितः |

“आनन्द, सत्त्वस्य मूलं त्रीणि सन्ति। अक्षयानि क्रमेण निर्वाणावस्थां नयन्ति।”

एते त्रयः किम्?

एकं तथागते पुण्यं रोपयेत्। एतानि सद्भावमूलानि अक्षयानि सन्ति।

द्वितीयं सत्यधर्मे पुण्यं रोपयितुं। एतानि सद्मूलानि अपि अक्षयानि सन्ति।

आर्यसंघे पुण्यं रोपणं तृतीयम्। एतानि सद्मूलानि अपि अक्षयानि सन्ति।

आनन्द, एतानि त्रीणि सद्मूलानि अक्षयानि निर्वाणावस्थां नयन्ति।

तस्मादनन्द कुशलसाधनप्रयोगेन त्वया एतदक्षयपुण्यं प्राप्तुं प्रयत्नः करणीयः ।

एवं भवता अध्ययनं कर्तव्यम्” इति ।

तस्मिन् समये आनन्दः बुद्धस्य वचनं श्रुत्वा हर्षेण स्वीकृत्य व्यवहारे स्थापितवान् ।

वर्धित आगमसूत्रं त्रयोऽध्यायः नैवेद्यं [समस्तः पाठः श्रूयते स्म- एकदा बुद्धः वालिदेशे आसीत्, एकान्तोद्याने च वृक्षं रोपितवान्। ततः परं आनन्दः सम्मानितः अस्ति । अरिसुमियोषि

मूलं। अनिवार्यम्। क्रमिक निर्वाण। युङ्का तामेजो । तथागतस्थानं तथाकथितं पुण्यं कर्म प्रकारम्।

एतत् सद्भावमक्षयम्।於正法। पुण्यकर्मप्रकारः । इदं सद्भावमक्षयम्।於शोषु च जाति पुण्यकर्म। एतत् सद्भावम् अक्षयम् अस्ति। इति अनन् । एते त्रयः गुणाः अक्षयाः निर्वाणक्षेत्रे साध्याः। अतः अनन् । एषः एव भवतः धनं प्राप्तुं सर्वोत्तमः उपायः अस्ति। इति अनन् । अयं ग्रन्थः विज्ञानमाश्रितः अस्ति । तस्मिन् काले आनन्दो बुद्धस्य काव्यं रचितम् । आनन्दितः दण्डाधिकारी

मियोशिकोन् इत्यस्य आधुनिकव्याख्यानम्

सूत्रेषु सुमूलत्रयं तथागते (बुद्धे), सत्यधर्मे (शिक्षासु) संघे (संघे) च पुण्यस्य रोपणम् इति उपदिश्यते।
परम्परागतरूपेण अस्य अर्थः “त्रिरत्नानाम् अर्पणं, शरणं च” इति ।

आधुनिकपदार्थेषु : १.

बुद्ध को पुण्य रोपण
→ सिद्धव्यक्तित्वस्य आदर्शस्य वा (बुद्धस्य) सम्मानं कृत्वा तस्य लक्ष्यं कृत्वा।
दैनन्दिनजीवने एतस्य अनुवादः “सम्मानितव्यक्तिं वा आदर्शरूपं वा मनसि स्थापयित्वा” “प्रार्थना-ध्यानयोः माध्यमेन स्वस्य आदर्शस्य स्मरणं” इति भवति ।

धर्मं प्रति पुण्यं रोपयन्
→ सत्यं सम्यक् शिक्षां च पोषयन्।
विशेषतः अस्य अर्थः “पुस्तकपठनं”, “शिक्षणं निरन्तरं”, “यत्युक्तं अन्वेष्टुं तस्य अनुसरणं च” इति ।
सूचनाभिः परिपूर्णे समाजे “सत्यस्य समीपस्थं किं चयनं कर्तुं मनोवृत्तिः” एव योग्यता ।

संघाय पुण्य रोपण
→ सहकारिणां सहपाठिनां च सम्मानं कृत्वा परस्परं समर्थनं करणं।
आधुनिककाले अस्य अर्थः “समानविचारधारिभिः जनानां सह परस्परं साहाय्यं करणं” “समुदाये एकत्र शिक्षितुं” च ।
संयोगः एकान्तवासं न कृत्वा मनः दृढं करोति, पुण्यस्य अनन्तं विस्तारं च करोति।

मुख्य बिन्दु

दयामूलत्रयं धर्मार्पणमात्रात् परं गच्छति। तेषु संवर्धनं भवति- १.

आदर्शानां सम्मानः (बुद्धः), २.

सत्यं ज्ञात्वा (धर्म), २.

सहजीवैः सह सम्बन्धाः (संघः) ।

सूत्राणि उपदिशन्ति यत् एते “कदापि न समाप्ताः, निर्वाणं प्रति गच्छन्ति” यतोहि एतेषु मानवमनसस्य अनन्तविस्तारं कर्तुं अस्माकं सम्पूर्णजीवनस्य आकारं दातुं च शक्तिः अस्ति।

The First Agama Sutra, Chapter Three: Offerings

The First Agama Sutra, Chapter Three: Offerings

I heard this:

Once, the World-Honored One (Shakyamuni) was residing in the Garden of Solitary Gita in the kingdom of Shravasti.

At that time, the World-Honored One said to Ananda.

“Ananda, there are three roots of goodness. They are inexhaustible and gradually lead to the state of Nirvana.

What are these three?

One is to plant merit in the Tathagata. These roots of goodness are inexhaustible.

The second is to plant merit in the True Dharma. These roots of goodness are also inexhaustible.

The third is to plant merit in the noble Sangha. These roots of goodness are also inexhaustible.

Ananda, these three roots of goodness are inexhaustible and lead to the state of Nirvana.

Therefore, Ananda, by using skillful means, you should strive to obtain this inexhaustible merit.

This is how you should study.”

At that time, Ananda heard what the Buddha had said, accepted it with joy, and put it into practice.

The Increased Agama Sutra, Chapter Three Offerings [The entire text was heard: Once the Buddha was in the land of Vali, and planted a tree in the garden of solitude. Ever since then, Ananda has been honored. Arisumiyoshi

root. Indispensable. Gradual Nirvana. Yunka Tamezo. The so-called Tathagata place is a kind of meritorious deed.

This goodness is inexhaustible.於正法. The kind of meritorious deed. This goodness is inexhaustible.於shoshu and species meritorious deeds. This goodness is inexhaustible. This is Anan. These three virtues are inexhaustible and attainable in the realm of Nirvana. Hence Anan. This is the best way to get your money. This is Anan. This work is based on science. At that time, Anandon Buddha’s poem was written. joyful magistrate

A modern explanation of Miyoshikon

In the sutras, it is taught that the Three Good Roots are the planting of merit in the Tathagata (Buddha), the True Dharma (teachings), and the Sangha (Sangha).
Traditionally, this meant “offering to and taking refuge in the Three Jewels.”

In modern terms:

Planting Merit to the Buddha
→ Paying respect to a perfected personality or ideal (Buddha) and making it your goal.
In everyday life, this translates to “keeping in mind a respected person or ideal figure” and “reminding yourself of your ideal through prayer and meditation.”

Planting Merit to the Dharma
→ Cherishing truth and correct teachings.
Specifically, this means “reading books,” “continuing to learn,” and “seeking what is right and following it.”
In a society overflowing with information, “the attitude of choosing what is closest to the truth” itself is merit.

Planting Merit to the Sangha
→ Respecting fellow practitioners and peers and supporting each other.
In modern times, this means “helping each other with like-minded people” and “learning together in community.”
Connecting, rather than being isolated, strengthens the mind and expands merit infinitely.

Key Points

The Three Roots of Mercy go beyond mere religious offerings. They involve cultivating:

Respect for ideals (Buddha),

Learning truth (Dharma),

Connections with fellow beings (Sangha).

The sutras teach that these “never end, leading to nirvana” because they have the power to infinitely expand the human mind and shape our entire lives.