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仏教

白銀の輝きにみちたバイブレーション

超常的パワーをわたくしにあたえてくれたことだけはたしかであった。

そしてまたそれは、それだけのことではなかった。つぎの次元への大きな飛躍台となるものだったのである。それはおよそ「密教・超能力の秘密』刊行後十年のちに起きた。

 

 

一九八〇年十一月、わたくしはインド仏跡巡拝の旅に出た。その旅行においてそれは起こった。

一九八一年七月発行の「一九九九年カルマと霊障からの脱出』(平河出版社)よりの抜粋である。

白銀の輝きにみちたバイブレーション

五百、六日、七日、と旅程は順調にすすんでいった。

しかし、日を経るにしたがって、わたくしのこころは沈んでいった。

仏跡のひとつひとつみなすばらしいものではあったが、わたくしのこころひそかに期待していたような感動はあたえてくれなかったのである。ま

本殿

ことに不選ないいかただが、このわたくしがこうしてインドまできたのだ。なにかあるはずだ、そう気負っていたものが崩れおちていた。

八日目。

仏跡巡拝さいごの日であった。

しゅうえん

仏陀終焉の地、クシナガラ。

仏陀が十八年間説法されたという祇園精舎サヘト・マヘト。

これでおわりであった。あとの旅程は、デリーから、エローラ、アジャンタの石窟寺院で、仏教にゆかりはあるが、仏跡そのものではない。

わたくしのこころは、 もはや仏跡からはなれていた。だから、その朝、

道路事情が非常にわるいため、クシナガラかサヘト・マヘトか、いずれか一方にしぼらねばならなくなったと聞かされたとき、わたくしは、どちら

でもよい、と思いながら、なに気なく、

「サヘト・マヘトにしよう」

といったのだ。

それを告げた秘書が、

「やはり、そうですか」 といったが、わたくしはべつに気にもとめなかった。 動き出したバスの中で、秘書がこういった。

「前から、リンポーチェがいっておられたんです。桐山先生には、どこをおいても、サヘト・マヘトにはかならず行っていただきたい、と。ですから、さっき先生のご決定を聞いて、やはりそうかと思ったんです」

「ふうむ、リンポーチェがそういっていたの?」

「はい、日本にいるときからそうでした。カトマンズに出迎えられたときも、くりかえしていっておられました。さっきも、ぜったいにサヘト・マヘトにするよう、先生に申し上げてくれといっておられました」

わたくしはうなずいたが、べつにふかくは考えなかった。しかし、そのサヘト・マヘトに、真っ向からわたくしを叩きのめすすさまじい衝撃が待ちかまえていたのである。

そうです。わたしもここへ来るまで知りませんでした」

そう、リンポーチェがいった。

「仏陀が十八年間説法されたこの精舎のそばで、生涯を終えるのが、わた

くしのかねてからの念願でした」

サンガラターナ師は、あたりに響きわたるような大きな声で語った。ややなまりのある英語であった。がっしりとした頑丈そうな体格で、声が大きいのは健康なのだろう。八十一歳という年齢を聞いてびっくりした。どうみても六十歳代としかみえないのである。

師が先に立って、精舎を案内してくださった。われわれが師をガイドに得たことはじつにしあわせであった。観光会社がつけてくれたガイドも、 この地のことにはあまり知識がなく、リンポーチェにしても、数年前に一度しか来たことがなかったのである。他の仏跡地のように、サヘト・マトには案内人がいないのである。もし、サンガラターナ師がおられなかったら、われわれは、祇園精舎をただあるきまわるだけで、ひとつひとつの

春総本殿

遺跡について、くわしいことはなにひとつ知ることはできなかったであろう。師はわが家の庭のごとく、愛情をこめて、あれこれと指さしながら説

明して行く。

小高い丘の上に立って、わたくしは師の説明を聞いていた。

そのとき、突然、それがやってきたのだった。

師の大きな声が突然すうっと遠のいたかと思うと、右ななめ前方から、 がぁんと、頭から観にかけてなぐりつけられたような衝撃を感じたのだ。

せんこう目の中を白い閃光が飛んだ。剣道で力いっぱい面を打たれたとき、目の中を走るあの閃光に似ていた。わたくしは思わずくらくらとして、額に手をあてた。一種のバイブレーションであることはわかった。わたくしも密教の修行者として各地の霊場をあるき、何度か霊的なバイブレーションをうけている。しかし、こんなすさまじい叩きつけるようなバイブレーショ

ンははじめてであった。しかもまったく無防禦だったので、完全に不意をつかれたという感じだった。どこでも霊場へ入るときには、それなりの心

がまえをして入る。だからつよいバイブレーションをうけてもうけとめられるのだが、ここでは全く無防禦だったので、その衝撃はことにつよかったのだ。数秒つづいたように感じたが、それはほんの一瞬のようであった。師の大きな声がふたたび耳によみがえってきた。

「待ってください」

わたくしは手をあげて師を制した。

「ちょっと待って。わたくしはいま、ものすごいバイブレーションを感じたのです。それはものすごいバイブレーションで、そう、あの方向からきました。あれはなんですか? あの凹地は」 くぼち

わたくしは、その衝撃がきたと思われる方向をゆびさした。五十メートルほど前方に、雑草の生いしげった凹地があった。そこから、それがきたと思われた。

「ああ、あれですか」

と師はうなずいた。

宗総本殿

「あれは、ミラクルの池です」

「ミラクルの池?」

「そう、ミラクルの池。仏陀が奇蹟をおあらわしになった。そこであそこ

を、ミラクルの池とよぶのです」

「そのミラクルとは、どんなミラクルなのですか?」

・「それは、仏陀が空中を浮揚してこの池の上に立ち、上半身を火に、下半

身を水にかえたのです」

「ほう、それはどういうことですか?」

それはですね、と師の説明によると、こうであった。

スラバスティの大長者スダッタ(須達多)が、仏陀のために大金を投じてここに土地を求め、大精舎を建立した。仏陀の名声は四方につたわり、教

えを乞うもの踵を接した。 きびす

どうこの附近には、ジャイナ教その他の外道の寺院がたくさんあった。それらの寺院の指導者たちは、仏陀の名声をねたみ、いろいろ、仏陀を中傷、

批難した。中でもとくに、仏陀を口のうまい山師にすぎないといいふらし

こうぜつに口舌の徒であるという批難であった。当時のインドの宗教界では、指導

た。口さきで理論を説くだけで、なに一つ神通力を持っていない、要する者となるためには、なんらかの神通力を持つことが、必須の条件とされていた。ところが、仏陀は、無用に神通力をあらわすことをきらって、この地に来てから一度もその力を示すことがなかったのである。

他の教団の指導者たちは、これを、仏陀にその力がないからだと考え、 これを攻撃したわけである。仏陀が大神通力の持ちぬしであることを知っている高弟たちは、一度、ぜひその力を示されるようおねがいしたが、仏陀は承知されなかった。いよいよ神通力などないと思いあがった他教団の指導者たちは、自分たちのパトロンである他の長者や勢力者たちを通じて、スダッタに、仏陀と神通力の試合を申し入れた。負けたほうがこの地を去るという条件である。スダッタもついにことわりきれず、仏陀に試合を逃した。あるいは、スダッタも仏陀の神通力を見たかったのかも知

総本殿

ない。仏陀もスダッタの立場を考慮され、ついにこれを承諾された。

その日、他の教団の指導者たちが、これみよがしにさまざまな神通力を競い合ったさいごに、仏陀がすがたをあらわされた。

せいりょうちひぞうさ仏陀は三層の高楼の露台にそのおすがたをあらわされたのである。いかなる神通力をあらわされるのかと群衆が固唾をのんで見守るなか、なんと仏陀は露台の手すりを無雑作に乗り越えられ、空中に足を踏み出されたのである。一瞬、手をはなされる。仏陀墜落! とみるまに、仏陀はそのままゆっくりと空中を浮揚して、庭園にむらがる大衆の頭上を越え、きよらかな清水をたたえた庭園の池の上に立たれたのである。微風に小説をたてる清涼池の水の上に、仏陀はしずかに立っておられるのである。群衆が思わずわが目をうたがったつぎの瞬間、仏陀の上半身は火炎となって燃えあ

がり、下半身は玉のような水と化したのである。

目のあたりに見る大神通力に、なみいる他教団の指導者や、土地の勢力者をはじめ、すべてのひとびとはその場にひれ伏して、頭をあげ得なかっ

わたくしは、額に手をあてて師の説明を聞いていた。途中からふいに、

説明もおわった。 やわらかなバイブレーションとともに、ひとつの概念――思考の流れがしずかにわたくしの脳髄ふかく流れこんでくるのを感じたのである。わたくしは、自分の思念をまったくとめて、それをすなおにうけいれていた。突知、さいごに、すさまじい戦慄が走った。全身の血がいっぺんにひいてゆくような、名状しがたい恐怖感の襲撃だった。それがおわったとき、師の

「先生、その、上半身が火となって、下半身が水となる、というのは、どこういうことでしょうか?」

とだれかがわたくしに質問した。

「ああ、それはね、全身のチャクラが、すさまじいパワーで、エネルギーを放射したのでしょう。空中浮揚をするために、仏陀は全身のチャクラにすさまじいエネルギーを集中した。池の上に降り立って、そのエネルギ

総本殿

を放射したのでしょう。そのエネルギーの放射が、炎のように見えたのだね。チャクラがエネルギーを放射すると、全身が炎につつまれたように

なって見えます。これは、ヨーガ・スートラなどにも書いてある。そういうとき、しばしば、からだが透明状になることがある。下半身が水になったというのは、仏陀のおすがたがそのとき、透明になったので、池の水が反映して、水のように見えたのでしょう。このミラクルは、クンダリニー・ ヨーガの最高の技術をみせられたものと、わたくしは考えます。そういえば、わたくしは、以前、仏陀は、クンダリニー・ヨーガの熟達者だった、 と文献を引用して本に書いたことがあります」

た。 そう、わたくしは説明しながら、はやく、ひとりになって、思考をまとめたいと思っていた。さきほど流れこんできたあの思念の流れ―――あれはいったいなんであったのか? 必死に、わたくしは、それを散らすまいとしてみつめつづけていた。はやく、ひとつのものにまとめたいと思ってい

それができたのは、それから数時間後、ラクノウという都市に着いて、 ホテルに入ったときであった。

思ったのである。 わたくしは、あわただしく自分の室に入って、シャワーを浴びると、すぐに定にはいった。ミラクルの池でのあの体験を、もう一度再現しようと

定にはいると、すぐに手がはげしく動いた。「自動書記だな」と直感し

た。これは、霊的状態になって手が無意識に動き、文字を書くのである。 すぐに、ノートを、と思ったが、あいにく、このホテルは、宿泊するのではなく、午後九時発の夜行列車に乗るまでの三、四時間を、休息と食事のために入ったので、トランクその他、筆記用具を入れた鞄はすべて、みんなの荷物といっしょに、下のロビーに預けてしまっていた。手もとには何もない。しかし、とりにいっているひまはない。時機を逸したら、もう二度

とこの手の動きはもどって来ないかも知れぬのだ。

わたくしはあわただしく座を立って、机のひき出しをさがした。あっ

た!さいわい、ホテルのメモ用紙が数枚あった。ボールペンもある。むしゃぶりつくようにペンをにぎると、それは勢いよくメモの上を走った。

最初、それは、脈絡のない単語や名詞の羅列であった。しかし、それは、ミラクルの池のあの思念の流れと一致していた。わたくしは、食事もとらず、出発までの時間を挙げてこれに傾注した。整理して、さいごに書きあげたのがつぎの文章であった。

ホテルのそれは突然ななめ前方からやってきた。

メモ

一瞬、目がくらむほどの衝撃だった。

そんなことなどぜんぜん予期しておらずまったく無防備だった自分は、

あっというまにその衝撃に叩きのめされてしまったのだ。

修行、学問、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知らされた。

こころひそかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学も、あっという

まに消しとんでしまった。叩きのめされてしまった。

これなんだ、これでなくてはならないのだ。これしかないのだ。目もくらむようなあの白銀の輝きにみちたバイブレーション!

一〇〇年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーション

に如かぬことを思い知らされた。

これがそれだったのだ。これが究極のそれだったのだ。このためにこそ

わたくしはここにやってきたのだ。

おお、サヘト・マヘト、聖なる地、 あなたはここに待っていてくださった。

わたくしがいまあなたから受けたものを、これからわたくしはひとびとにあたえねばならぬ。

いま、わたくしは型者であることをつよく自覚する。

マ示総本殿

すべてのひとびとがこの聖なるバイブレーションを受けることのできる想地を、わたくしはひがしの国につくらねばならぬ。この輝きにみちたサ 〈ト・マへトの地を、そのまま、日本の国にうつさねばならぬ。それがわたくしの使命だったんですね。それをかならずはたすことをわたくしはあなたに誓います。

そうですか。

もう一度、わたくしはこの地に来なければならないのですね。だが、そのときなにが起きるのでしょうか? そのとき起きる或ることを、わたくしは非常なおそれの感情とともに予感します。

ああ、あの一瞬の霊的バイブレーション!

一〇〇年の苦行も万巻の書物も、このバイブレーションなくしては、路傍の石ころにも劣るのだった。このバイブレーションをあたえることので

きる聖者こそ、真の導師だったのだ。理解できました。

104

それは、瞑想からはじまる It Begins with Meditation

 

それは、瞑想からはじまる
It Begins with Meditation

 

それは 瞑想からはじまる
静かな問いが 胸を打つ
電子と魂が 触れ合うとき
世界は 内側からひらく

✨タパスよ 魂を鍛えよ
✨思念よ 王者の道を開け
✨言葉を超えた 光の相承
✨この身このまま 仏となれ

On Abirawunken
अबिरावुन्केन् इत्यत्र

Ong Sanmaya Satvan
ओंग सनमाया सतवन

On a Foon
On a Foon इति

 

闇を裂く 静寂の祈り
都市は曼荼羅へと変わる
星より高く 法輪は回り
心は今 大日に還る

🌟オン・アビラウンケン 宇宙は我なり
🌟オン・サンマヤ・サトバン 命は不二
🌟オン・ア・フーン 光よ 我を貫け
🌟この身このまま 仏となれ

On Abirawunken
अबिरावुन्केन् इत्यत्र

Ong Sanmaya Satvan
ओंग सनमाया सतवन

On a Foon
On a Foon इति

 

It Begins with Meditation

When circuits and spirit touch as one
The world opens from within
✨O Tapas, temper the soul
✨O Thought, open the royal path
✨Transmission of light beyond words
✨In this very body, become Buddha
On Abirawunken
Ong Sanmaya Satvan
On a Foon

lPrayer of stillness that rends the dark

The city transforms into a mandala
Higher than stars, the Dharma wheel turns
The heart now returns to Mahāvairocana
🌟On Abirawunken — I am the universe
🌟Ong Sanmaya Satvan — Life is non-dua

🌟On a Foon — O Light, pierce through me
🌟In this very body, become Buddha
On Abirawunken
Ong Sanmaya Satvan
On a Foon

それは、瞑想からはじまる

 

それは、瞑想からはじまる

 

それは、ひとつの静かな問いから始まった。
「エレクトロニクスと霊性を結ぶものは、何ですか?」
わたくしは、前章で紹介した『間脳思考』について語っていたとき、そう尋ねられた。
そして、ほとんど考える間もなく、こう答えた。
――それは、瞑想からはじまる。
だが、その言葉は、終わりではなかった。
むしろ、そこからが始まりだった。
しばらく話が進んだあと、別の声が静かに投げかけられた。
「では、間脳を開発するのも、瞑想なのですか?」
わたくしは、首を横に振った。
「瞑想は、手段にすぎない。
それだけでは、大脳辺縁系と新皮質しか動かせない。
腹想だけでは、間脳は目覚めない。
間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは生じない。
そして、オーラが生じなければ、カルマを越えることはできないのです。」
その場に、沈黙が落ちた。
「では……何が必要なのですか?」
わたくしは、ひとつの言葉を置いた。
――tapas(タパス)。
練行。補行。魂の鍛錬である。
学者はそれを「苦行」と訳すが、わたくしは、そうは呼ばない。
これは、自己を壊すための行ではない。
自己を変容させるための行である。
それがなければ、どれほど高い教えも、どれほど深い象徴も、ただの概念に終わる。
思念による王者の相承
古くから、チベット密教ニンマ派では、解脱の完成に三つの道があると説かれてきた。
一つ目は、「思念による王者の相承」。
それは、法身タターガタ――如来が、
言葉も象徴も介さず、直接、相手の心に自らの心を伝える方法である。
だが、ここでいう「心」とは、思考や感情ではない。
それは、存在そのものの波動であり、力そのものである。
この相承を受けた者は、たちどころに仏陀として完成する。
それゆえ、王者の相承と呼ばれる。
理想であり、究極であり、到達点である。
だが――
それを受けるための器がなければ、光は、ただ通り過ぎる。
存在とは、何か
存在とは、何か。
それは、究極において「放動」である。
波動であり、振動であり、動きである。
人間とは、「自分」という波動をまとった存在である。
カルマとは、その波動の癖であり、過去から引き継がれた重力である。
人は、地球の引力から逃れられないように、
カルマの引力からも逃れられない。
老い、病み、死ぬ。
出会い、別れ、執着し、苦しむ。
それらすべては、カルマと因縁という見えない重力によって、
人間が縛られている証である。
だが――
もし、その波動そのものを変えてしまったなら?
それは、引力からの脱出。
反重力の修行である。
存在の次元が、変わるのだ。
間脳という、鍵
人間の存在の波動を変える原点は、間脳の視床下部にある。
そこは、感情でも、思考でもない。
生と死、欲望と沈黙、肉体と霊性の境界にある場所。
この間脳の波動が変わると、全身の波動が変わる。
すると、人は、カルマの規制を受けない存在へと変容する。
それは、もはや「人間」と呼ぶだけでは足りない。
高次の霊的存在――そう呼ぶほかない。
このとき、特殊な霊光が発生する。
それが、オーラである。
オーラとは、感情の色ではない。
全身の存在波動が変化した証明である。
そして、その発光源は、間脳にある。
瞑想だけでは、この次元変化は起こらない。
瞑想は必要である。不可欠である。
だが、それは「条件」の一部にすぎない。
鍵ではない。
象徴と、言葉と、そして……
第二の方法は、「象徴による持明者の相承」。
象徴とは、言葉、形、色、音に、宇宙的な思想を圧縮したもの。
持明者とは、純粋な心で実相を見ることのできる者。
彼らは、導師から象徴を示されることで、
言葉を超えた教法を理解し、密教の核心へと到達する。
第三の方法は、「耳を通した言葉による人の相承」。
ラマが言葉を用い、理を説き、弟子に理解させる。
これは、ほとんどの人間が通る道である。
わたくしは、これらをこう分類する。
思念による王者の相承 → 間脳系=霊的バイブレーション
象徴による持明者の相承 → 新皮質系=マントラ、タントラ、象徴
耳を通した言葉による人の相承 → 大脳辺縁系=言葉、音楽、感情
これら三つは、世界中の宗教に共通する、究極への道である。
だが――
それでも、まだ足りない。
欠けているもの
究極至上のものに到達するために、
これら三つだけでは不十分である。
欠けているものがある。
それが――
tapas。練行である。
どれほど高い相承も、
どれほど深い象徴も、
それを受け止める存在が変わらなければ、光は根づかない。
tapasとは、自己の存在波動そのものを鍛え、変容させる行である。
苦しむための行ではない。
耐えるための行でもない。
受け取るための行である。
最高の光を、受け取る器になるための行である。
結び
だから、わたくしは言う。
それは、瞑想からはじまる。
だが、瞑想では終わらない。
思念も、象徴も、言葉も、
すべては道であり、扉であり、準備である。
だが、存在そのものを変える火――
その火を起こすのは、練行である。
カルマという引力を越え、
存在という波動を書き換え、
人が、人を超えるとき。
その始まりは、静かな瞑想であり、
その完成は、沈黙の奥に燃える、tapasなのである。

それは瞑想からはじまる

 

それは瞑想からはじまる

わたくしは、前章で紹介した「間脳思考』で、エレクトロニクスと霊性を結ぶものはなにかと質問されて、それは瞑想からはじまると答えた。

そのあと、話がだいぶ進んでから、

「それでは、間脳の開発をするのも、瞑想ですか?」

と聞かれた。わたくしは、

手段にすぎない。瞑想は、大脳辺縁系と新皮質脳しか動かすことができない。だ

から腹想だけではだめなのである。間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは発生しない。したがって、カルマを越えることはできないのである。

では、なにが必要なのか?

特殊なtapas (練行) (補行)である。

学者は tapas を苦行と訳しているが、わたくしはこれを、練行と訳したい。そ

してこの練行が絶対に必要なのである。

思念による王者の相承

いている。 チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説

一、思念による王者の相承

ひみようしゃ二、象徴による持明者の相承

rgyal ba dgongs pa’i brgyud pa

4ャルワゴンペーギュー

-rig’dzin brda’i brgyud pa ギューパ

75

 

て、人間が成立しているのだ。このカルマと因縁の緊縛から完全に解説したときが、雪作の完成である。いうならば引力からの脱出である。反重力の修行なのだ。その修行によって自分の存在の次元が変わるのである。

存在とはなにか? それは究極のところ『放動”である。自分”という波動を変えてしまうのだ。それにより『カルマ”という波動を越えてしまうのである。

人間という存在の彼動を変える原点は、間脳の視床下部にある。ここの波動を変えることにより、全身の波動が変わり、特殊な精神波動と肉体波動を持つ存在になる。それは、カルマの規制を受けない、ふつうの人間とはまた異なった、高 「度な霊的存在とよぶよりほかない存在となるのである。これが成就すると、特株な「霊光」が発生するようになる。この特殊なオーラの発生は、全身の波動が変化したことを示すのである。オーラについてはまたあとでのべるが、このオーラの発光源は間脳なのである。瞑想だけでは、以上のような『次元の変化”は不可能である。もちろん、心の安定、集中、まったく新しい高い次元へのメディテイト等、瞑想はこの修行に絶対必要なものである。しかし、それはひとつの

 

 

「いいえ」

とかぶりをふった。

「瞑想じゃないのですか?」

「いいえ」

とわたくしは、これにもかぶりをふった。

彼は、けげんそうな表情でわたくしを見つめた。

そこでわたくしは答えた。

「それは瞑想からはじまるのです」

なるほど、というように彼はうなずいた。わたくしは説明した。

それは瞑想からはじまるのだが、瞑想だけではないのだ。「霊性の完成は、瞑

想だけでは不可能なのである。心の安定、欲望の調節、本能の抑制、といった程度のものでは、とうてい到達できない境界である。思念、想念の変化くらいでは、絶対に行き着くことのできない次元なのだ。

なぜか?

◎霊性完成の到達点は、カルマからの超越である。

カルマとはなにか? いうならば、地球における引力のようなものである。

地球上に存在するものすべて、地球引力の支配下にある。いかなるものも、引力から逃れることはできない。いや、地球という存在そのものが、引力によって成り立っているのである。人間におけるカルマもそのとおりである。人はすべて、輪廻のカルマの絶対的な規制を受けている。このカルマから、もろもろの 「因縁」が生じて、人間を緊縛しているのである。いや、カルマと因縁によっ

 

である。

いる。 霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如米)が常低に法を説いて

この「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。この場合、 心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、という所以である。

この「象徴による持明者の相承」とはどういうものかというと、象徴とは、あ言葉、かたち、資色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものをいい、また、持明者(rig、dzin)とは、純粋な心で実相をそのまま見ることがで

る真知の世界に到達した者たちのことである。この相承

きる良知の世界に到達した者たちのことである。この相承(方法)では、真知の理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の従麩に到達する教法を授けられるのである。

以上のすぐれた方法に対し、ふつうの人間は、霊感はなかなか得がたく、また象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。そこで、ラマが、いろいろな言葉をもちいてくわしく説き明かし、弟子に理解させていく。

いわゆる「口頭伝授」である。これが、三の「耳を通した言葉による人の相承」である。

以上の三つの方法を、わたくしは、つぎのように分類する。

一、思念による王者の相承

二、象徴による持明者の相承

間脳系=霊的バイブレーション

―新皮質系=マントラ、タントラ、言葉、

音楽、象徴

三、耳を通した言葉による人の相承大脳辺縁系=言葉、マントラ、音楽

これは、チベット密教だけではない。世界中のいかなる宗教でも、究極至上のものに到達するためには、この三つの方法しかないであろう。 きゆうきよくしじよ

しかし、究極至上のものに到達するためには、この三つだけでは不十分なのである。欠けているものがある。なにが欠けているのか? さきにのべた練行」 tapasである。

だが、そういうと、一は最高理想のものなのであるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapasは必要なのである。

練行とはなにか

では、その練行tapasとはどんなものか?

それには、ひとつの例として、わたくしの修行体験をお話しするしかないと思われる。

た求聞持法の行法は、その秘密技術のヒントになるべきもののみをつらねたに過ぎず、その秘密技術は――おそらく、自分自身の訓練努力によってみずからが発見せよとつきはなしているのにちがいなかった。それを発見するだけの努力をし、発見できるだけの資質のあるもののみがそれをわがものとする資格があるのだ、と、つめたく未来を見すえている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆたかな天分を持つ興教大師覚纓が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就を得たという難解の行法となっているのである。 そうでなければ、覚綬ほどの才能が、なんで七たびも失敗しようか。 (中略) なんげ

(二度目の修法に、私は、古代ヨーガの技術をとり入れた。ひしひしと感得するものがあった。五〇日のその行で、求聞持法の成就はみられなかったが、私の考えのまちがいでなかったことがよくわかった。この方法で、求開持法はかならず成就する。つよい確信を得た。この技法を積みかさね、

延長してゆけばよい。一

延長してゆけばよい。これしかない。ぜったいの自信を得た。

この、私の技法によれば、従来のごとく、山にこもって五〇日ないし

一〇〇日、明星を拝しつづける必要がなかった。常住坐臥、閑寂の部屋な

かんじゃく

らば、時、ところをえらばなくてもよいのであった。ただ、最初の三日な

さんきょのうり

いし七日間、山居して明星とあい対し、これをふかく脳裡にとどめておけ

ばよかった。あとは、三〇日、五〇日、一〇〇日、よしんば一〇〇〇日か

こうぼうかろうとも、日常の生活の行忙のうちにトレーニングを積みかさねてゆけ

ばよいのであった。この発見はすばらしいものであった。これでなくて

は、法はついに民衆と無縁のものになってしまう。五〇日、一〇〇日、特

定の山にこもらねば成就しないというのでは、ごくかぎられた人たちのみ

しか参加することはできない。民衆と無縁になってどこに法の存在価値が

ために、民衆のために、どうしても――。

あろう。私は、このシステムによって、この法を完成せねばならぬ。法の

そして、(三度目の必死の修法に私は入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニン ・ングのときであった。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに、古

代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨーガの秘法から私が創案した特殊な手印とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質と脳髄は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。チャクラの開発も順調にすすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

夜明け、

その刹那、 まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。しびれの感覚であった。かるい失心、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。

「ああッ!」

と私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流がながれた感覚が走った。落雷があったと感じた。目の前を紫電が走った、つぎの瞬間、眠

前でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ暗にな

敵でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ暗になった。失明!

という考えが、チラリと脳裡をよこぎった。と、そのときであった。頭の内奥、深部に、ポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私の脈博とおなじリズムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。ちょうど、 この修法をはじめる数十日まえ、山にこもって見つめたあのときの暁けの明星のように――それはつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。

「そうか!」

私は力いっぱい膝をたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

第三の発見視床下部の秘密

私は幼少のときから剣道をしこまれた。藩の剣術師範の家柄に生まれ、 若年の折、江戸お玉ヶ池の千葉門で北辰一刀流を学んだという祖父に、は

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第二章 開脳の開発法

 

仏陀 人間の生命の再生 The Buddha Rebirth of Human Life

 

仏陀

人間の生命の再生

The Buddha
Rebirth of Human Life

 

私は見た 輪の深さを
生と死が 絡む道を
救いを求め 泣く声が
風より先に 胸を打つ

生まれ変わる そのたびに
苦は形を 変えてくる
断ち切るのは 神ではない
気づいた心 ただそれだけ

名もなき民衆

今日を生きて 明日を恐れ
死の先を 夢に見る
終わらぬ命が あるならば
なぜ心はこんなに重い

 

生まれては また迷い
業に縛られ 歩いてる
救いがあると 信じたい
この輪の

外へ 出るために

 

 

I have seen how deep the wheel goes
Where life and death are tightly bound
The cries that search for saving grace
Reach my heart before the wind makes sound
With every birth, the shape of pain

Is changed, yet never truly gone
No god can cut these chains away
Only the waking mind moves on
The Nameless People
We live today, we fear tomorrow
We dream of what lies past the end

If life goes on and never breaks
Why do our hearts feel crushed again?
Born again, we lose our way
Bound by karma, step by step
We want to trust there is a path
That leads us past the wheel at last