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仏教

如意輪観音 Cintāmaṇicakra Avalokiteśvara — The Bodhisattva Who Relieves Suffering and Fulfills All Wishes —

如意輪観音

Cintāmaṇicakra Avalokiteśvara
— The Bodhisattva Who Relieves

Suffering and Fulfills All Wishes —

六臂の光 静かに揺れて
宝珠と法輪 胸に照らす
「願いを 否定しないで」
風のような 声がした

Ong handma shindamani jinbara un

ओङ्ग हन्दामा शिन्दमणि जिन्बरा उन

叶わぬ願いも 消えはしない
心の奥で 根を張って
願いは僕を 変えていく
それが本当の 願成就

Ong handma shindamani jinbara un

ओङ्ग हन्दामा शिन्दमणि जिन्बरा उन

Six arms of light, softly swaying,
Jewel and Dharma wheel glow in my chest.
“Do not deny your wishes,”
A voice like the wind gently said.

Ong handma shindamani jinbara un

Even unfulfilled wishes never disappear,
They take root deep within the heart.
Through wishing, I am transformed—
That is the true fulfillment of prayer.

Ong handma shindamani jinbara un

 

如意輪観音

如意輪観音

人々を苦悩から救い、あらゆる願いを叶える観音菩薩

三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種字はキリーク(ह्रीः、hrīḥ)[2]。

「如意」とは意のままに智慧や財宝、福徳もたらす如意宝珠という宝の珠のことで、「輪」は煩悩を打ち砕く法輪を指しています。その2つを手に持った観音菩薩ということで如意輪観音といいます。
如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。
六観音の1つに数えられ、天界道に迷う人々を救うとされますが、6本の手で六道すべてに救いの手を差し伸べるともいわれています。

 

智慧、財福、福徳授与、安産、延命のご利益があるとされています。

 

片膝を上げ、そこに肘をかけて指先を頬に当てている思惟の姿です。足裏は両方を合わせており、輪王座と呼ばれる姿勢が如意輪観音の特徴です。どうすれば人々を救えるのかと悩んでいる姿だとされています。ほとんどが6本の手の六臂像で造られており、手には如意宝珠と法輪(輪宝)を持っています。

二臂の如意輪観音像の像容には、

輪王座に坐し、右手は「思惟」の相、左手は光明山を按ずる相、則ち典型的な六臂像から左右第一手のみを残したような姿。

結跏趺坐または半跏に坐し、右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶ「施無畏与願印」の姿。

半跏に坐し、右手は肘を右膝あたりに置いて頬のあたりに添える「思惟」の相、左手は自然に下げて掌を下に向けて左太腿(膝よりやや上あたり)ないしは半跏した脚の足首あたりに置く半跏思惟の姿。

などが代表的である。古来著名なものは、滋賀・石山寺の秘仏本尊像である。飛鳥の岡寺の本尊像も二臂である。法隆寺の隣にある中宮寺の本尊像は、右脚を左膝に乗せる半跏に坐し、右手を思惟相とする典型的な半跏思惟像である。この像は古来如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性が高い。

オン・ハンドマ・シンダマニ・ジンバラ・ウン

 

如意輪観音 ― 願成就の覚醒譚 ― 願いは、叶えるものではなく、育てるものである ―  

 

如意輪観音 ― 願成就の覚醒譚
― 願いは、叶えるものではなく、育てるものである ―
夕暮れの公園。
ベンチに腰掛けた真輝は、
夕焼けに染まる空を、ぼんやりと見つめていた。
普賢菩薩の行願に触れてから、
彼は多くの人と関わり、動き、与えるようになった。
だが、ふと心に浮かぶ思いがあった。
「努力しても、報われないことがある。
祈っても、願いが叶わないことがある。」
「願うこと自体が、間違いなのだろうか。」

如意宝珠の光
そのとき、夕焼けの空に、
ひときわ柔らかな光が浮かんだ。
それは、星でも、街灯でもなかった。
掌に収まるほどの、小さな光。
光の中から、
一尊の菩薩が現れた。

如意輪観音――
六臂を持ち、
如意宝珠と法輪を携え、
安らかな姿で坐していた。
「願いを、否定するな。」
その声は、風のようにやさしかった。
願いの重さ
「私は、願いが叶わないたびに、
自分が足りないのだと思ってしまいます。」
真輝は、正直に語った。
「努力が足りない。
信じ方が足りない。
祈りが足りない……」
如意輪観音は、静かに首を振った。
「願いは、努力の報酬ではない。
願いは、心が世界とつながろうとする声だ。」
「叶わぬ願いにも、
無意味なものはない。」

願いの種

如意輪観音は、如意宝珠を掲げた。
宝珠は、光りながらも、
どこか種子のようでもあった。
「願いとは、種である。」
「種は、すぐには花にならない。
土に埋もれ、見えなくなり、
ときに、腐ったように見える。」
「だが、見えぬところで、
確かに根を張っている。」
真輝は、自分の胸の奥に、
いくつもの“願いの種”が眠っていることを感じた。
叶わなかった夢。
報われなかった努力。
届かなかった想い。
それらは、消えたのではなく、
まだ、土の中にあったのだ。

願成就の真意

「では、願成就とは何なのですか。」
真輝は、問いかけた。
如意輪観音は、穏やかに微笑んだ。
「願成就とは、
願いが“叶うこと”ではない。」
「願成就とは、
願いによって、あなたが変わること。」
「願いによって、
あなたの心が広がり、
他者を思い、
世界とつながるようになること。」
その瞬間、
真輝は、これまでの人生の“願い”が、
すでに彼を変えてきたことに気づいた。
それが叶わなかったとしても、
それが、彼を今の彼へと導いていた。

仏眼仏母のまなざし

空間の奥に、
仏眼仏母の眼が、再び輝いた。
「見る眼が開かれたとき、
願いは、執着ではなく、道標となる。」
如意輪観音は、深く頷いた。
「願いは、握りしめるものではない。
育て、委ね、やがて、手放すものだ。」

結び

夕焼けは、夜へと変わっていた。
真輝は、ベンチを立ち、
ゆっくりと歩き出した。
願いが叶うかどうかではなく、
願いと共に、どう生きるか。
それが、如意輪観音の教えであり、
真輝の新しい歩みであった。

準蹄観世音菩薩 ― 覚醒譚 ― ― 六道を越える白き手 ―

 

準蹄観世音菩薩 ― 覚醒譚 ―
― 六道を越える白き手 ―

夜の雨が、静かな山寺の石畳を濡らしていた。
軒下に立つ青年・真輝(まき)は、胸の奥に言いようのない重さを抱えていた。
「どうして、救いたいと願うほど、苦しみが増えていくのか……」
人を助けたいと願いながら、現実の中で何も変えられない無力感。
それは、慈悲そのものが試される夜であった。
そのとき――
堂内の奥から、白い光が静かに満ち始めた。
六本の腕の影
仏堂の奥、月光に照らされた曼荼羅の中に、
一尊の菩薩が、まだ眠るように佇んでいた。

 

準蹄観世音菩薩――
六臂(ろっぴ)をもつ観音。
六道に迷う衆生を、六つの智慧の手で救う存在。
しかし、その像はまだ「眼を閉じて」いた。
目覚めていない仏。
覚醒を待つ慈悲。
真輝は、なぜかその前から離れられなかった。
仏眼仏母の囁き
香の煙が揺れる中、
堂内の空気が、ふと変わった。
「その苦しみを、見ることから逃げるな。」
声は、外からではなかった。
内から――
心の奥の奥から響いてきた。

真輝の意識の奥に、
仏眼仏母の微笑が、静かに浮かんだ。
「慈悲とは、救う力ではなく、
真理を“見る眼”を与えること。」
その瞬間、
準蹄観世音菩薩の像の胸元に、淡い光が灯った。
六道の夢
真輝の意識は、深い夢へと沈んでいった。

 

彼は、六つの世界を巡っていた。
地獄道――
怒りに燃える者たちが、互いを焼き尽くそうとしていた。
餓鬼道――
満たされぬ欲に喉を焼かれ、飢えに苦しむ魂たち。
畜生道――
恐怖と支配の連鎖の中で、ただ生き延びるために生きる存在。
修羅道――
誇りと競争に縛られ、永遠に戦い続ける者たち。
人間道――
希望と絶望の狭間で揺れ動く者たち。
天道――
喜びの中にありながら、やがて堕ちることを忘れている存在。
そのすべてに、同じ問いがあった。
「私は、なぜ苦しいのか。」

 

白き六手の覚醒
そのとき、六つの光が現れた。
怒りの世界には、柔らかな手が怒りを抱きとめ、
欲の世界には、空を示す手が欲をほどき、
恐怖の世界には、勇気を授ける手が触れ、
争いの世界には、和合を示す手が現れ、
人間の世界には、希望を指し示す手が伸び、
天の世界には、無常を悟らせる手が静かに掲げられた。
それが、準蹄観世音菩薩の六臂であった。
「救いとは、引き上げることではない。
気づかせることだ。」

六つの手が、同時に光を放った瞬間――

真輝の胸に、ひとつの確信が生まれた。
「苦しみを消そうとしなくていい。
苦しみの意味を、共に見ることこそ、慈悲なのだ。」
開眼
夢から覚めると、
堂内の準蹄観世音菩薩の像の眼が、静かに開かれていた。
六臂は、まるで今にも動き出すかのように、
空間そのものを包み込んでいた。
僧の声が、背後から響いた。
「準蹄観音は、六道を超える慈悲の象徴。
その覚醒は、誰か一人の心の目覚めと共に起こる。」
真輝は、自然と合掌していた。

準蹄観音の言葉
そのとき、堂内に、柔らかな声が満ちた。
「私は、苦しみを消す者ではない。
苦しみを、目覚めへと変える者。」
「私の六つの手は、六つの世界を抱く。
だが、七つ目の手は――
“見る眼”を持つ者自身の心にある。」
真輝の胸の奥で、何かが、静かに開いた。
それは、力でも、奇跡でもなく、
“逃げずに見る”という覚悟であった。

結び
その夜から、真輝の生き方は変わった。
苦しみを取り除こうと焦るのではなく、
苦しむ人の隣に座り、
共に見ることを選ぶようになった。
それこそが、
準蹄観世音菩薩の覚醒を、この世界に定着させる行であった。
堂内の曼荼羅では、
仏眼仏母が静かに微笑み、
一字金輪仏頂が輪宝を掲げ、
そして準蹄観音は、六臂を広げて、
すべての世界を包み続けていた。

仏眼仏母 ― 真理を見つめる眼 ―

 

仏眼仏母 ― 真理を見つめる眼 ―

 

薄闇の堂内に、香の煙が静かに漂っていた。
僧は金色に輝く尊像の前に膝をつき、深く息を整えた。
その尊は、仏眼仏母――真理を見つめる眼を神格化した存在。
人を仏へと生まれ変わらせる「眼」をもつ母であった。
彼女は微笑んでいた。
怒りでも威圧でもない、すべてを見抜いたうえでなお包み込む微笑。
その眼差しは、過去も、現在も、未来も、ひとつの光として映していた。
「人は真理を見ることで目覚める。
そして目覚めた者こそ、仏なのだ。」
そう語るかのように、仏眼仏母の眼は静かに輝いていた。
彼女は、ただ仏を生む母ではない。

人に真理を“見せ”、仏として生まれ変わらせる、宇宙の慈悲そのものだった。
三つの姿
経典によれば、仏眼仏母には三つの顕現があるという。
大日如来の変化身として現れるとき、彼女は法界そのものを映す眼となる。
釈迦如来の変化身として現れるとき、彼女は衆生を導く慈悲の母となる。
金剛薩埵の変化身として現れるとき、彼女は煩悩を砕き、悟りへと導く金剛の眼となる。
その三昧耶形は、如来の眼、金剛の眼、あるいは如意宝珠。
その種子は「ギャ」あるいは「シリー」。
すべては、「目覚めを生む力」を象徴していた。

 

開眼の儀
僧が唱える真言が、堂内に響く。
「オン ブツゲン ブツモ ソワカ……」
その音は、像に命を吹き込み、
眠っていた仏の眼を、静かに、しかし確かに、開かせる。
仏像はその瞬間、ただの像ではなくなる。
真理を見る眼を宿し、
人を目覚めへと導く存在となる。
仏眼仏母は、その儀式の中心にいる。
彼女こそが「目を開いて仏として生まれ変わらせる者」だからだ。
一字金輪仏頂との関係
仏眼仏母の背後には、もうひとつの尊格が静かに立っていた。

一字金輪仏頂――
「ボロン」という一文字に、すべての功徳を凝縮した、最勝最尊の仏。
彼は輪宝をもって悪神を折伏し、
仏眼仏母は眼差しをもって悪神を摂受し、導く。
打ち砕く力と、抱きとる力。
剣と眼。
怒りと慈悲。
二尊は、表と裏のように、
決して離れることなく曼荼羅の中に並び立っていた。

「人肌の如来」と呼ばれる一字金輪仏頂が、
人の苦悩をそのまま受け止めるならば、
仏眼仏母は、その苦悩を“悟りの眼”へと変える存在であった。
下化衆生の誓願
『大日経疏』は語る。
――諸仏は、衆生を観察し、
最も相応しい姿をとって、この世に現れる。

観音として現れるときもある。
文殊として現れるときもある。
普賢として、不動明王として、愛染明王として、薬師如来として――
しかし、そのすべての背後で、
衆生に真理を見せる眼が、静かに開かれている。
それが、仏眼仏母であった。

 

結び
僧は静かに合掌した。
仏眼仏母は、遠くの存在ではない。
誰かの心に、
ふと気づきが生まれるその瞬間、
すでにそこに、彼女の眼は宿っている。
「目覚めは、外から与えられるものではない。
ただ、見ることを思い出すだけなのだ。」
香煙の中で、
仏眼仏母は、今日も微笑んでいた。