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この精神集中の状態は一つに分けることができる。 「ひとつは

これは、ひとつのことに心を中するのである。

歌がその代表であるが、神における実、またえるなど、精神集中法のひとつである。要はひとつのこと中し、そこに止まり、動かないことである。 げると、

この精神集中の状態は一つに分けることができる。

「ひとつは「意識的精神集中」へ、ひとつのことに意識を集中し、他のものに心を向けない、これを底的に意識的におこなうのである。これは修行のはじめのさして、だれでも通るものである。

今の段階が、「無意識的精神集中」の状態である。これは、高度のもので、 意識的精神集中をつづけているうちに、習練によって条件づけられ、ついに、とくに意識しないでもひとつのことに心を集中することができるようになる。

これによって無意識の意識層をコントロールし、ふつうでは絶対に統御できない無意識の意識を、ある特定の対象に向けることができるようになるのであ

心の流れにまかせるとは

つぎに、ビバシャナ(観)である。

る。 これは、ひとつのことに注意をとどめない。心の動きのひとつひとつに心を向けていくが、ひとつのことにとどまっていない。心の流れにまかせるのであ

これにも、「意識的瞑想」と「無意識的瞑想」がある。

【意識的瞑想」は、表面意識が心の流れを観ている。

「無意識的取想」は、深層意識の心の流れそのものになっている。

では、その深層意識の流れを観ているものはなにか? だれが深層意識の流

れを観ているのか? それは「無意識的精神集中」の心である。

だから、「止」と「観」は密接な関係があるのである。いまおこなわれている

瞑想のほとんどは、「止」か「観」か、どちらかにかたよっている。禅は「止」

にウエイトがかかり、瞑想(としてやっているもの)は、「観」が主である。しか

まってヒノらない定は、これまたほんとうの想ではないのである。

「親」はおなじように修せられなければならない。モうして、非常に )をするためには、おなじように常に高度の集中(上)が体 『きれていなければ不可能なのである。

では「意識的想」と「無意識的想」とはどうちがうのか?

ひと口でいうならば、

想は「個の世界」を観、

無意識的想は「金の世界」を観る。 といったらよいであろう。

意識的想は「自分だけの世界の流れ」を観るのである。

無意識的想は「人類そのものの(世界の)流れ」を観るのである。いや、 もっと拡大した世界だ。「宇宙そのものの流れを観る」といったらよいであろう。

無意識の意識層には、原初からの人類の記憶がすべておさめられている。い

や、人類以前からの記憶がすべて秘められている。

わたくしは、「輪迴転生瞑想法ー」で、このことについてのべている。「個体発 「生」と「系統発生」の意識と記憶について語った第二章を、もう一度読み返してみていただきたい。

無意識の意識層には、人間が人間以前であった時代からの記憶が秘められている。宇宙生成以来の記憶がそこにあるのだ。その記憶の流れを如実に観るのである、最高度の瞑想は釈尊の瞑想がそれであった。

「輪転生瞑想法Ⅱ」で紹介したが、もう一度、釈尊の瞑想を見ていただこう。

釈尊はこう語っている。

「――そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動であった」

これは、「無意識的精神集中」の最高度の段階に入ったことを示す「止」の極致である。

「そしてわたしの心の後はおのずからの光景に向けられていった」

「無意識に入ったのである。

「それは一生だけではなく、二生三隻、十度、二十生、そして無限の生涯の、生きかわり死にかわりした光景が展開してきた」

るのである。 十隻、二十生どころか、人間以前であったころの光景だって展開してくるのである。地球ができたばかりの原始の海で、発生した利部の原形質の記憶だってよみがえらせうるのだ。コアセルベートの目に、できたばかりの地球はどのように映ったであろうか?それを、釈尊は(そしてわれわれも)観ることができ

「それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしは超人的な眼力でその相を見た。そこには貴いもの、賤しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いていた」 しゅくごう

彼は、無限にもひとしい時間を進化してきた。その間、彼は、貴いもの、賤

しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの生涯を無

してきた。彼の心の眼は、もはや全宇宙を観ている。業の法則を通じて彼は全宇宙の流れを観ている。おそらく彼は世界の終末までを見とどけていたのにちがいないのである。

―――釈尊の瞑想とは、まさにこういうものだったのである。

この境地を理解することのできない人たちによって、この瞑想法は消されてしまった。

樹本聖典において語られた釈尊の瞑想体験は、すべて誇張された神話か伝説のようにとられてしまった。自分の至りえぬ高い境地は、すべてつくりものと 「思って非難することしかできない人たちによって、こんなにも貴重なものが失われてしまったのである。

なぜ、釈尊の言葉を信じて、釈尊のあとをたどろうと思い立つことをしなかったのであろうか?――しかし、わたくしたちは、いま、そのあとをたどりつつ

あるのである。

アーカーレヤ

輪回転生联想法

 

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