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――最終章
「はじまりなき場所」
夜は、音もなく広がっていた。
山の庵。
風は止み、木々は息を潜めている。
青年は、ただ座していた。
目は閉じているのか、開いているのか――
もはや、それすら判然としない。
やがて、声がした。
「……ここが、最後か」
それは問いではなかった。
確認でもなかった。
ただ、自然に現れた音だった。
背後に、老師がいる。
だが、青年は振り返らない。
振り返る者が、もう曖昧になっていたからだ。
「最後だと思うか」
静かな声が、闇に溶ける。
青年は、しばらく答えなかった。
いや――答えが立ち上がる前に、それは消えていた。
やがて、言葉がひとつだけ現れる。
「……いいえ」
間。
「ここは……最初でもある」
老師は、わずかに笑った気配を見せた。
「では、見てみよ」
その一言で、すべてが始まる――いや、始まらない。
青年の内に、ひとつの問いが浮かぶ。
「なぜ……世界は続くのか」
だが、その問いは、すぐにほどけ始める。
(続く……?)
その言葉に、わずかな違和感が滲む。
続くとは何か。
始まりがあり、流れがあり、終わりへ向かうもの。
だが――
青年の意識は、静かに“今”へと沈む。
過去を探る。
だがそれは、記憶として“今”に現れるだけだった。
未来を思う。
だがそれも、想像として“今”に浮かぶだけだった。
「……」
息が、ひとつ。
その瞬間、何かがほどける。
(続いていない……)
世界は、流れているのではなかった。
ただ――
一瞬。
また一瞬。
また一瞬。
それぞれが、初めて現れている。
フィルムのような連なりではない。
つながっているという証拠は、どこにもない。
それでも、
「続いているように、見える……」
青年は、目を開いた。
闇は、変わらずそこにあった。
だが、その“在り方”が変わっていた。
「では、終わりはどうだ」
老師の声。
青年は、すぐには答えない。
終わり。
止まること。
消えること。
(止まる……?)
その意味を、内側で探る。
もし、完全に止まったなら――
それを、知ることはできるのか?
その瞬間、理解が落ちる。
「……終わりは、経験されない」
言葉が、静かに現れた。
始まりも、見つからない。
終わりも、見つからない。
では、何があるのか。
青年の中で、すべてが透けていく。
ただ――
現れている。
それは、生まれていない。
消えてもいない。
だが、変わっているように見える。
同じ流れのようでいて、
どこにも固定されたものがない。
長い沈黙。
やがて、老師が問う。
「自由とは、何だ」
青年の中で、かすかに“誰か”が答えようとする。
選ぶこと。
制限がないこと。
だが、その思考は途中で止まる。
(選ぶ……者……?)
その中心を探す。
だが――
見つからない。
ただ、思考が現れ、消える。
感情が現れ、消える。
行動が起き、終わる。
そこに、“選んでいる者”はいなかった。
「……すべてが、起きている」
青年は、ゆっくりと口を開く。
「拒む中心が……ない」
その瞬間、胸の奥にあった“何か”が、完全にほどけた。
抑える必要がない。
掴む必要もない。
ただ、すべてがそのまま通っていく。
「……これが……自由」
それは、静かすぎて、ほとんど音にならなかった。
夜は、さらに深まる。
だが、もはや“時間”という感覚も、曖昧だった。
青年は、ただ在る。
世界は、続いていない。
毎瞬が、初めて。
終わりも来ない。
始まりもない。
それでも――
風が、かすかに動く。
虫の声が、遠くで震える。
呼吸が、自然に起こる。
だが、それは――
誰のものでもなかった。
「……もう、問いはないな」
老師の声。
青年は、答えない。
問いが、立ち上がらないからだ。
なぜ。
どうすれば。
誰が。
どれも、もう現れなかった。
ただ――
静寂。
それだけが、あった。
やがて、老師が最後に言う。
「到達した者はいるか」
沈黙。
「理解した者はいるか」
沈黙。
青年は、静かに目を開いた。
そして、わずかに首を振る。
「……いません」
だが、その顔には、かすかな微笑があった。
否定ではない。
ただ、そのままの事実。
誰もいない。
何も得ていない。
それでも――
すべてが、ここにある。
夜が、終わる気配を見せる。
東の空が、わずかに白む。
青年は、立ち上がる。
その動きもまた、自然に起きていた。
老師は言う。
「では――どう生きる」
青年は、しばらく空を見た。
答えは、探されなかった。
ただ、ひとつの感覚が、静かに現れる。
(忘れてもいい)
この理解を。
この静寂を。
すべてを知ったまま、知らないふりをして――
人として、生きる。
泣き、迷い、選び、失い、また立つ。
それを、あえてやる。
青年は、わずかに笑った。
「……遊びます」
老師もまた、笑った。
その瞬間、世界は再び――
はじめて、現れた。

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