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苦行と瞑想
―― 習気を断つ道

山の夜は、深く静まりかえっていた。
杉の梢を渡る風の音だけが、庵の外でかすかに響いている。
炉の火は赤く揺れ、壁に長い影をつくっていた。
青年トウマは、師の前に静かに坐していた。
しばらく沈黙が続いたあと、師がゆっくりと口を開いた。
「トウマよ。
世の人は、仏陀は苦行を捨てたと言う。
だが、それは半分しか真実ではない。」
トウマは顔を上げた。
「半分……ですか?」
師はうなずいた。
「確かに仏陀は、六年の苦行ののちに言われた。
苦行だけでは悟りに至らぬと。」
炉の火が小さく爆ぜた。
「しかしな。
仏陀は決して苦行そのものを否定されたのではない。」
師はゆっくりと続けた。

「仏陀の道は、つまるところ二つに帰する。」
師の指が、静かに二本立てられる。
「苦行」
「そして
瞑想」
庵の空気が、少しだけ張り詰めた。
「『スッタ・ニパータ』にはこうある。」
師は低く詩句を唱えた。
この世の罪悪を離れ
地獄の責苦を越え
精励する賢者
その人を修行者という
さらにもう一節。
苦行と清らかな行いは
水を要しない沐浴である
トウマは静かに聞き入っていた。
「つまりな」
師は言った。
「苦行とは、身を痛めつけることではない。」
「では……何なのでしょう。」
トウマが問う。

師は少し笑った。
「それを話す前に、一つ昔話をしよう。」
習気の縄
ある日、仏陀は弟子たちと托鉢に出られた。
道端で、仏陀は一本の縄を指さされた。
「拾ってみよ」
弟子が拾い、匂いをかぐ。
「うっ……」
思わず顔をしかめた。
「腐った魚のような匂いがいたします」
仏陀はうなずかれた。
弟子は縄を投げ捨て、何度も手を拭いた。
しばらく歩くと、また縄が落ちていた。
弟子が拾い、匂いをかぐ。
今度は目を輝かせた。
「これは良い香りがいたします。
香料を縛っていた縄でしょう。」
そう言って弟子は、その縄を懐にしまった。
その時、仏陀は静かに言われた。
「実体がなくなっても、
影響は長く残る。」

「悟りを求める者は、
薫習をも断たねばならぬ。」
習気というもの
話を終えると、師はトウマを見た。
「トウマよ。
人は行いを正すことはできる。」
「だが、心の奥に残るものがある。」
「それが習気だ。」
怒らない。
しかし、怒りの気配は残る。
欲張らない。
しかし、欲しいという影は残る。
「悟りとは、
それすらも断つことだ。」
トウマは息を呑んだ。
「それは……
とても難しいことですね。」
師はうなずいた。
「だから苦行が必要なのだ。」
苦とは何か
「だが、多くの者は誤解している。」
師は言った。
「炎天下で立ち続ける。
逆立ちをする。
四足で歩く。」
「それらを苦行だと思っている。」
師は首を振った。
「それは荒行だ。」
「仏陀が否定されたのは
そのような無意味な荒行だ。」
炉の火が揺れた。
「本当の苦行とは何か。」
師は言った。
「自分の習気を断つことだ。」
沈黙。
そして師は続けた。
「煙草をやめる苦しさ。
酒を断つ苦しさ。
怒りを抑える苦しさ。」
「それこそが苦行だ。」
トウマは深くうなずいた。
「つまり……
自分の弱さと戦うことですね。」
師は静かに笑った。
「そうだ。」

身心脱落
師は炉の火を見つめながら言った。
「習気を断つとき、
人は何を経験すると思う。」
トウマは答えられなかった。
師は言った。
「それを身心脱落という。」
「身体も心も、
これまでの癖を脱ぎ捨てる。」
「その時、初めて
本当の瞑想に入れる。」

「苦行なくして定はない。」
「定なくして智慧はない。」
トウマの胸に、その言葉が深く響いた。
外では、杉の風が静かに鳴っていた。
師は最後に言った。
「よいか、トウマ。」
「苦行とは
自分を痛めることではない。」
「自分の習気を断つ勇気だ。」
炉の火が揺れる。
その光の中で、トウマは静かに目を閉じた。
心の奥に、ひとつの問いが生まれていた。
――自分の習気とは、何だろう。
山の夜は、深く静まり続けていた。

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