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流れに入る者 ― 須陀洹

第一章
流れに入る者 ― 須陀洹
山は深い霧に包まれていた。
杉の梢を渡る風が、庵の軒をかすかに鳴らす。
夜の山は静まり返り、炉の火だけが赤く揺れていた。
青年トウマは、師の前に坐していた。
長い修行を続けてきた。
呼吸を観る修行。
心を観る修行。
欲と怒りを見つめる修行。
だが、胸の奥にはまだ一つの疑いが残っていた。
「老師……」
火の揺らぎを見つめながら、トウマは口を開いた。
「私は、本当に仏の道を歩んでいるのでしょうか。」
しばらく沈黙があった。
師は目を閉じたまま、静かに言った。
「よい問いだ。」
炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
「多くの修行者は、その問いを恐れる。」
師はゆっくりと続けた。
「だが仏道は、疑いを越える道ではない。」
トウマは顔を上げた。
「疑いを……越えないのですか?」
師は微かに笑った。
「疑いを見破るのだ。」
その言葉は、静かな雷のように響いた。
師は火を見つめながら言った。
「仏道の最初の門を知っているか。」
トウマは首を振った。
「須陀洹だ。」
「流れに入る者。」
トウマはその言葉を口の中で繰り返した。
「流れ……」
「真理の流れだ。」
師は言う。
「一度その流れに入れば、もう迷いの海に沈むことはない。」
「必ず悟りに至る。」
トウマの胸が強く打った。
「どうすれば……その流れに入れるのですか。」
師は静かに答えた。
「三つの鎖を断つことだ。」
指を一本立てた。
「第一。」
「我があるという思い込み。」
二本目。
「第二。」
「仏法への疑い。」
三本目。
「第三。」
「形だけの戒への執着。」
師は言った。
「これを見破ったとき、修行者は流れに入る。」
そしてトウマの目をまっすぐ見た。
「今夜、それを観よ。」
夜はさらに深くなった。
トウマは庵の奥で坐った。
灯りは消され、闇だけがあった。
彼は呼吸を観た。
吸う息。
吐く息。
静かに、ゆっくりと。
やがて思いが浮かんできた。
「私は修行者だ」
「私は悟りたい」
「私は道を歩んでいる」
その思いを見つめた。
すると奇妙なことに気づいた。
その思いは――
勝手に現れている。
自分が作っているわけではない。
ただ現れ、消えていく。
雲のように。
トウマの心が揺れた。
「では……」
「この『私』とは何だ?」
彼はさらに深く観た。
身体。
感覚。
思い。
記憶。
どれも変化している。
どこにも固定した「私」はない。
その瞬間だった。
まるで雷が走るように、理解が閃いた。
「我」というものは、ただの思い込みだった。
胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
長い間信じてきたものが、音もなく壊れていく。
涙が静かに流れた。
だがその涙には、悲しみはなかった。
ただ深い安らぎがあった。
そのとき。
疑いが現れた。
「本当にこれでいいのか?」
「これは悟りなのか?」
しかしその疑いを見た瞬間、トウマは笑った。
疑いもまた――
ただの現象だった。
それも生まれ、消える。
その瞬間。
疑いは完全に力を失った。
夜明け前。
トウマは庵を出た。
空はまだ暗く、東の空だけがわずかに白んでいる。
師は外で待っていた。
トウマは深く礼をした。
言葉が出ない。
師は一目見て言った。
「入ったな。」
トウマは顔を上げた。
「はい。」
師はうなずいた。
「須陀洹だ。」
山の空に、最初の光が差し込んだ。
師は静かに言った。
「お前はもう迷いの海には沈まない。」
「流れに入った者は、必ず海へ至る。」
トウマは空を見上げた。
世界は変わらない。
杉の山。
冷たい風。
朝の光。
だが一つだけ、確かに変わっていた。
もう道を疑う心はなかった。
彼は歩き始めた。
悟りの海へ向かう、
静かな流れの中を。

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