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三福道

三福道

山の夜は、どこまでも静かだった。
杉の梢を渡る風の音だけが、庵の外でかすかに響いている。
炉の火を前に、青年トウマは膝を正して坐していた。
その向かいに、老師は目を閉じたまま、ゆっくりと語り始める。
「仏教のすばらしさはな……」
火がはぜる音の合間に、低い声が落ちた。

「最初は、仏を礼拝するところから始まる。だが、そこで終わらぬ。礼拝する者自身が、やがて仏になることを目標とする。それが本来の仏道だ。」
トウマは顔を上げた。
「私たちも……仏になれるのですか。」
老師は静かにうなずく。

「釈迦はこう言われた。
“私が修行して悟ったように、おまえたちも修行すれば、同じ仏陀になれる” と。」
炉の火が、ひときわ強く揺れた。

「その道は、後世の創作ではない。教えは、阿含経の中に明らかに説かれている。成仏の方法――成仏法としてな。」
トウマの胸が熱くなる。

礼拝するだけではない。
祈るだけでもない。
自ら歩み、自ら悟る道。
それが仏教の核心なのだ、と。

しばし沈黙が落ちたあと、老師は話題を変えた。
「世間の人々は、福を求める。」
「福……幸せ、ですか。」
「そうだ。金銭、地位、長寿。だが仏教では、福を二つに分ける。世間福と、出世間福だ。」
炉の火を見つめながら、老師は続ける。

「世間福とは、財や寿命など、この世の幸福。だが出世間福とは、涅槃へと向かう福徳だ。」
「涅槃……」
トウマは小さくつぶやいた。
「それは単なる安らぎではない。煩悩を断ち、聖者の位に至ることだ。」
外では、雪が降り始めていた。

「その出世間福を生む道がある。」
「それが……三善根ですか。」
老師はゆっくりとうなずく。
「“三善根有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る” と説かれている。」
「窮尽す可からず……」
「無限だということだ。尽きることのない功徳。」
トウマの胸に、灯がともる。

「では、その三善根とは?」
老師は指を三本立てた。
「第一、如来のみもとにおいて功徳を種える。
第二、正法において功徳を種える。
第三、聖衆において功徳を種える。」

「種える……?」
トウマは首をかしげる。
老師は微笑んだ。
「積む、ではない。種える、だ。」
火の赤い光が、老師の横顔を照らす。
「徳は、突然降ってくるものではない。福は徳から生じる。徳なき者に福は生じぬ。」
「徳が少ないから、不幸になる……?」
「そうだ。世の人は福を欲しがるが、徳を種えようとはしない。だが仏道は逆だ。まず徳を種える。福はその実りだ。」

トウマは胸に手を当てた。
自分は、福を求めていなかっただろうか。
悟りという結果ばかりを焦ってはいなかったか。
「だが、よく聞け。」
老師の声が一段と深くなる。

「なぜ“如来の所に於て”と強調されるのか。」
庵の中の空気が張りつめた。
「如来とは、単なる像ではない。真理そのものに目覚めた者だ。真理と離れて徳を種えても、出世間福は生まれぬ。」
トウマの呼吸が静まる。

「真理のもとで種えられた徳だけが、涅槃へと芽吹く。」
外の雪は、音もなく降り積もる。
老師は目を閉じた。

「徳を種えよ。焦るな。
種はすぐには芽吹かぬ。だが、正しく蒔かれた種は、必ず実る。」
炉の火が静かに落ち着いていく。

トウマは深く頭を下げた。
礼拝から始まり、
修行へと進み、
やがて自らが仏となる。
その道は遠い。

だが、今ここに、確かに続いている。
雪の夜、庵の中で、
一粒の徳の種が、静かに蒔かれた。

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