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行らす者 ― 気息の門

小説章
「行らす者 ― 気息の門」
山の庵には、夜の静けさが満ちていた。
外では風が杉の枝を渡り、かすかな音だけが闇を揺らしている。
青年は老師の前に坐していた。
長い修行を重ねてきたはずだったが、今夜の空気はどこか違っていた。
炉の火が、ぱちりと鳴る。
老師はゆっくり口を開いた。
「ここで――一つの言葉に留意せよ。」
青年は姿勢を正した。
「行らす、という言葉だ。」
その響きは古く、経典の奥から響いてくるようだった。
「修行とは、ただ呼吸することではない。
気息を行らすのだ。
身と心において、止め、そして念ずる。」
老師は静かに自らの胸に手を置いた。
「身正息――
身において気息を止念する。」
次に、額へ指を向ける。
「心止息――
心において気息を止念する。」
青年は目を閉じた。
呼吸が、次第に細くなる。
吸う息も、吐く息も、ただ流れるのではない。
止める。
観る。
念ずる。
老師の声が、さらに低く響いた。
「では問おう。
身と心の、どこに止めるのか。」
沈黙。
やがて老師は答えた。
「それは――場所である。」
火の光が揺れ、青年の顔を照らす。
「体と脳の、ある特定の場所。
古来、チャクラと呼ばれた門だ。」
その言葉とともに、青年の意識は内側へ沈み始めた。
胸の奥。
喉。
眉間。
頭頂。
そこに、かすかな脈動がある。
「気息を置き、念を重ねる。
すると何が起こるか。」
老師は目を閉じたまま続けた。
「心の解脱入息。
心の解脱出息。」
吸う息が、光となる。
吐く息が、空へ溶ける。
青年の内で、何かが触れられた。
まるで脳の奥――
眠っていた場所が、微かに目覚めるように。
「プラーナは、ただの空気ではない。」
老師の声。
「気息と念のエネルギーが、内なる門を刺激する。
その時、修行者は――」
火が強く燃え上がった。
「人間の境界を越え始める。」
青年の呼吸が消えた。
いや、止まったのではない。
呼吸そのものが、全身へ広がったのだ。
身と心が分かれていた感覚が、ゆっくり溶けていく。
やがて老師は言った。
「だが、これはまだ途中にすぎぬ。」
静かな声だった。
「この修行の先に、覚悟へ至る道がある。
気息も、思念も、すべてが一つに入る段階だ。」
青年は薄く目を開いた。
「それが……最奥なのですか。」
老師は首を横に振った。
「いや。」
炉の火が静まる。
「次に説かれるのは――
四つの最上深秘の禅定。」
その名を告げる時、庵の空気さえ変わった。
「四安般念法。」
青年の胸が震える。
「釈尊は言われた。
これ以上の呼吸法は存在しない、と。」
老師は微笑した。
「だが忘れるな。
これは単なる呼吸法ではない。」
ゆっくりと言い切る。
「これは――禅定法だ。」
長い沈黙。
外では夜がさらに深まっていた。
「なぜ、この聖典が長く知られなかったと思うか。」
青年は答えられなかった。
老師は静かに言った。
「そこまで到達した修行者が、ほとんどいなかったからだ。」
火が小さくなる。
そして老師は、少し柔らかな声になった。
「驚いているだろう。
いきなり奥義を聞いたのだからな。」
青年は正直にうなずいた。
「しかし安心せよ。」
老師の眼が、深く優しかった。
「どれほど深い法でも――
初歩から歩めば、誰でも堂奥に至る。」
外で風が止んだ。
世界が、息を潜める。
「では――」
老師は姿勢を正した。
「ここから、初歩に戻ろう。」
青年は再び坐り直した。
真の修行が、
今ようやく始まろうとしていた。

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