五蘊の瞑想法
ながら解説します。 「潮时,防蛇星」(以下、「応説経」)の講義を行います。まずは経文を読み、現代語に訳し
如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛
聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。 得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。
現代語訳
是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛聚等に住まりたまえり。爾の時、仏、諸比丘に告げたまわく、「我れ知見を必ての数に諸漏の尽きることを得たり。 不知恵に非ざるなり。云何が知見を以ての故に諸漏の尽きることを得、不知見に非ざるや。ゆる此れは色なり、 此れは色の集なり、此れは色の端なり、此れは気・想・ 行、識なり、此れは識の集なり、此れは識の減なりと」 じゅ
このように私は聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留)国の雑色牧牛聚落におとどまりになっておられました。その時、仏さまはもろもろの比丘に、次のようにお話しされました。
「私は知見を得たことによって、もろもろの煩悩がなくなりました。不知見ではななぜ、私は知見によって、もろもろの
ある。
と。
それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 これは受・想・行・識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集である、これは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である)これは識の集である、これは識の滅である」
解說
す。 知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておられます。漏とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま
「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受・想・行・識なり、此れは (受・想・行・)識の集なり、此れは(受・想・行・)識の滅なり」は、五重むぎという瞑想です。 人間は色(物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(意識)の五つの構成要素からできている、と仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(五陰)と呼びます。五蓮観
OKK
法とは、この五蘊のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。
お釈迦さまはここで、自分は五蓮観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃっておられます。
続きを見ましょう。
成仏できない僧侶たち
不修方便随順成就。而用心求令我諸
漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得
漏尽解脱。所以者何。不修習故。不
根力覚道。 修習何等。謂不修習念処正勤如意
「方便を修し随順成就せずして形も心を用いて、収れをして諸漏尽き、心に解説するを得せしめんと求むるも当に知るべし、彼の比丘は終に漏尽解脱を得ることわず。所以は何ん。像習せざるががなり。何等か修習せざ足る。霊ゆる創剣・正販・妙意足・帳・が・・重を
習せざるなり」
現代語訳
現代語訳
解説
「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解説を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに福尽解脱を得ることはできません。 それはなぜでしょうか?
修行していないからです。
なにを修行していないのでしょうか?
それは、いわゆる四念処法(四念处)・四正動法(四正断送)・四如意足法(四),五根法・五力法・七覚支出・心正、道を修行していないのです」
ここは、「応説経」の中でも特に重要なことが、説かれているところです。
たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?
超尽解説とは、(悩)がすべて尽きた状態ですから、完全解説、つまり成仏したということです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。
なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか?それは、四念処法・四正動法・四如意足法,五根法,五力法・七覺支法,八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。
す。
この四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七秒三下、七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正動・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで
お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。
わたくしは法話でしばしば、
「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」
と、お話ししています。みなさんの中には、
「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」
と考えている人がいるでしょう。しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。仏教の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対に成仏しないと説かれているわけです。
もよいでしょう。 日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、この七科三十七道品を修行した人は皆無といって
しかし、お釈迦さまは、
「彼の比丘はついに成仏することができない
と、おっしゃっておられます。「後」というこの三文字の中に、日本の大東今入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。
と説いているのです。 ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、 「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」
ただし、わたくしは、曹相報の祖である道元師(二〇〇―二五三)と真言熟の開祖弘樹太師空間(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、
「この三十、七品智宏(七科三十七道品の別名著者注)、すなわち伝習の眼睛孔、皮肉青館、科目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」
と成仏法を調鳴しておられます。また、弘法大師空海は「獄密教諭」で、
「第一の宝とは取り是れず『解康なり。第二の法宝とは露く窓、『響ののめ、 功徳なり。いわゆる三十七菩提分法なり」
と記しておられます。ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実
際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているかもしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったならば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏させることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。
仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信仰・修行に励むわけです。成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。
昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という
真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。
しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。
わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなければいけないと考えます。だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家といえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。しかし、ここ一番、これこそ大切なことなのだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないとわたくしは思うのです。その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないことを真実であるかのように説教をする。これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。
成仏法と伏到
雪如伏鶏生子衆多。不能随時蔭留消
息冷暖。而欲令子以特以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以背以爪安穩出殼。所以者何。以被寫母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習勋順成就。而欲
令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。訓不修念処正勤如意足根力覚道。
現代語訳
「笑えば鶏の生める手鳥にして、随時に消息冷暖すること能わずして、而も子をして齢を以て100を以て卵を啄き、自ら生まれ安穏に殻を出てしめんと欲するも、当に知るべし、彼の子自力も能く方便して背を以て爪を以て安穏に殻を出づるに堪ゆること有ること無きが如し。所以は何ん。彼の鶏母随時に蕎帽冷暖して子を長、奏すること能わざるを以ての故なり。是の如く比丘、 動めて修習し随願成就せずして、而も漏尽解脱を得せしめんどめんと欲するも是の処、有ること無し。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等をか修せざる。調ゆる念処・正
動・如意足・根・力・覚・道を修せざるなり」
「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親類が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というよ
十分にできなかった時があれば、その世話が十分に行き届かなかった卵の中のヒナをしようと、くちばしや爪で卵の数を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で絵をって明化することができません。
なぜでしょうか? ったからです。 時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなか
それと同じように、仏道修行者が(七軒三十七道品以外の)さまざまな修行に励んだとしても、 仏道修行は成就しませんし、高是解脱は得られません。
なぜでしょうか?
移行しないからです。
なにを移行しないのでしょうか?
いのです」 いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覺支法、八正道を修行しな
ここでお釈迦さまは、成仏法と修行の関係を、鶏のヒナが孵化することにたとえておられます。 親がいくつかの卵を産んだ後、親鶏は落銀冷暖、つまり温めたり、冷ましたり、あるいは空気の流通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、ヒ
ナ自身もくちばしや爪で一生懸命に殻を破ろうとする努力を行います。親鶏の努力とヒナの努力が相まって初めて、ヒナは殻を破って生まれることができるのです。
お釈迦さまは、この親鶏の努力とヒナの努力の関係は、ちょうど成仏法と修行者の関係と同じである、とおっしゃっているわけです。
たとえば、親鶏があまりにも卵を多く産み過ぎると、当然のことながら全部の卵に目が行き届きません。そうすると、風を送ってもらったり、温めてもらったりできない卵も出てきます。そのように十分に面倒を見てもらえない卵は、中でヒナがいくら外に出ようとくちばしでつついたり、足の爪で引っ掻いたりしても、絶対に生まれることはできません。
おられるわけです。 それと同じで、七科三十七道品の成仏法が得られなかったならば、どれほど他の修行を死にものぐるいで行ったとしても、決して成仏することはできないのだ、とお釈迦さまはおっしゃって
成仏するには、正しい成仏法と修行者の努力、この二つが絶対に必要なのです。
続きを読みます。 わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまという方は、本当に比喩が巧みです。誰にでも分かるようにお話をされる、希有の名説法家だといえるでしょう。
若比丘修習随顺成就者。雖不欲令漏
尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解
脱”所以者何。以修習故。何所修習。 謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼
伏着善養其子。随時蔭留。冷暖得所。
正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸
子自能方便安穩出殼。所以者何。以
彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比
丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。
而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以
者何。以勤修習故。何所修習。謂修
念処正勤如意足根力覚道。
「若し比丘、修習し随朋成就する者は濕冬解説せしめんとせずと難も而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力。 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、簡時に蒸餾冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら卵を呼きて出てしめんと欲せざるも、然かもだの諸の子自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏鶏随時に蒸餾冷暖所を得るを以ての故なり。是の如く比丘よ、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解肌を欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を得ん。
所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修
習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・
覚・道を修するなり」
現代語訳
「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏
尽解説をしたいと思っているこ
「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏
尽説をしたいと思っていなくても、自然に心に解脱を得て漏尽解説を得るのです。
それは、なぜでしょうか?
修行したからです。
なにを修行したのでしょうか?
いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七党支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。 なぜ野化することができたのでしょうか?
親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。
弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて
も、自然に心に解脱を得て、福尽解脱を得るのです。
なぜでしょうか?
修行したからです。
なにを修行したのでしょうか?
からです」 いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行した
さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。
です。 胃がきちんと卵の顔を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなくでも、自然にを破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない島であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話
おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃっておられます。それは、なにか?
三証そろった阿含宗
『応説」のこの部分が、成仏できるという「文証」なのです。「文証」について、ここで詳しく説明します。
仏教では、「文証」「理」「歌」の三話がそろわなければ、その教団の教法は正法ではないとします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。要するに、仏さまがお経の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。
「応」の「若し光丘、育成する者は解説せしめんと訳せずとも面を彼の比
氏、自然に高尽し心に解を得ん、所以は何ん、修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なのです。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。この部分が「応説経」 の、いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。
よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。
まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。
しばしば「法華経」の信者が、「四十余天認真実(<初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実を明かさず)」という「文証」を振りかざします。「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経」 の開騒とされる「解賦、養」の一文です。したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 「無量義経」に基づいての「文証」です。しかし、『法華経』は、お釈迦さまが入滅されて数百年も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、『無量義経」は『法華経』の権歳を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる偽経であろうとされております。要するに、「無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけです。
ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたものでなければ、まったくお話になりません。「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、擁護してくださっていると
因縁の鎖を断ち切る成仏法
中略譬如大舶在於海辺。経
夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比
丘。精勤修習。随順成就。一切結縛
使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善
修習故。何所修習。謂修習念処正動
如意足根力覚道。說是法時六十比丘。
不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸
比丘開仏所說。歓喜奉行。
「―――中略譬えばだ艦の辺に在り夏六月を経て風
日に暴れなば藤蔵淅ぐ断するが如く、是の如く比丘
よ、精勤して修習し、随順成就せば一切の結標・便・郷
・纏より漸く解説することを得ん。所以は何ん。善く
修習するが故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念
処・正動・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。
是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず
心に解脱を得たり。仏、此の経を説き已りたまえるに諸の比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、歓喜し奉行しき。
現代語訳
「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤蔓がやがて断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結縛・使・頌伝・磯から解説することができるのです。
」
〇八四
一分一秒といえどもうかうかしていられないぞ、という思いにわたくしは駆り立てられます。
みなさんも、毎日の勤行の際、このことを考えながら勤行しなさい。お釈迦さまはどれほどたいへんなことを、わたくしたちに呼びかけていらっしゃるのか? どれほど重要なことを、わた
くしたちに説いてくださっているのか? それを考えて修行に励みなさい。
このお経を読めば、お釈迦さまのお心が分かるはずです。
*開本経を説く前にあらかじめ序説として説かれる経
21 *2経 仏教学の学術語で、インド以外の地域、中国や日本などで撰述された経典をいう。
時の何の雪の使っている糸の太い脚は、一日や二日で擦り切れることはないが、毎日使用しているうちにやがて手
指の形に擦れて細くなり、最後には折れてしまう。修行もそれと同じである、というたとえ話




