雨が、静かに石畳を打っていた。
薄暗い書庫の奥で、老師は一冊の古い経典を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
「大乗経典は、新皮質脳の経典。阿含経は、間脳開発の経典です」
その言葉に、青年は思わず身を乗り出した。
「では……これまでの宗教は、何をしていたのですか?」
老師は、しばし沈黙した。
「ほとんどが、方向を誤っていたのです」
静かな声だったが、その響きは鋭かった。
「多くは理論に訴え、思想に訴え、言葉に訴えた。新皮質が納得する“教え”を整えた。しかし、それは第三の目を開くどころか、霊性の場を圧縮する方向へと働いてしまった」
青年の胸に、不安が広がる。
「しかし、開祖たちは違ったのでは?」
「その通りです」
老師の目が、かすかに光った。
「すぐれた宗教の開祖は、みな高い霊性の輝きを持っていた。その光は、理論ではなく“力”だった。人の間脳を震わせ、霊性の場を開く波動だった」
だが、と老師は続ける。
「弟子たちは、それを新皮質で理解できる形に変えてしまった。力の宗教を、教えの宗教に変えてしまったのです」
外で雷が遠く鳴った。
青年は問いかける。
「では、霊性を開発するには?」
「方法です」
老師は即答した。
「教義ではない。理論ではない。技法、技術――再現可能な方法でなければならない」
書架の奥から、一冊の経巻が取り出される。
「最もすぐれた宗教である、ゴータマ・ブッダ の仏教でさえ、その本質は見失われました」
「阿含経……」
青年がつぶやく。
「そうです。仏教経典は数えきれぬほどあります。しかし、実際にシャカが説いたとされる最古層の教えを伝えるのは、阿含経だけです」
老師は静かに続ける。
「たとえば 法華経 や 阿弥陀経 など、大乗経典は後代に成立したものです。思想としては壮大であり、救済の理想も崇高です。しかし、それは“教え”として体系化されたものです」
青年は戸惑いながらも問う。
「では、阿含経にある“方法”とは?」
老師は、経巻を開いた。
「七科三十七道品――あるいは三十七菩提分法」
部屋の空気が張りつめる。
「七つのシステム、三十七種のカリキュラム。これは理論ではありません。実践の体系です。霊性の場を開き、人が覚者へと至るための具体的手順です」
青年の鼓動が速くなる。
「成仏法……」
「そう。シャカ自身がこの方法によって覚醒し、弟子たちに伝えた」
雨音が次第に弱まっていく。
「人類は長いあいだ、教えを積み上げてきました。だが方法を忘れた。だから霊性は衰えた」
老師の声は、深く、しかし温かかった。
「もし七科三十七道品が再び実践されるなら、失われた均衡は取り戻せるかもしれない」
青年は経巻に手を触れる。
そこには、理論ではなく、道があった。
言葉ではなく、歩むべき技法があった。
雷雲の切れ間から、わずかな月光が差し込む。
その光は、まるで新皮質の思考を越えて、間脳の奥に触れるようだった。
「これだけが……ほんとうの仏法なのですか?」
老師は静かに答えた。
「少なくとも、覚者へ至る“方法”が明確に示されているのは、そこだけです」
青年は深く息を吸い込んだ。
理論の時代は終わりつつある。
これから始まるのは、実践の時代――
七つのシステム、三十七の道標が、静かにその扉を開こうとしていた。




