七科三十七道品という“方法”が、再び息を吹き返すなら。
夜の書斎には、重たい沈黙が落ちていた。
卓上のランプの光だけが、向かい合う二人の顔を淡く照らしている。
「この十年で急増した“四大悪因縁”は――生まれつきではない」
老師は、静かに言った。
「生まれてから、後天的に生じたものです。原因はひとつ。霊的世界と現象世界のバランスが、急激に崩れたことにあります」
Kは息をのんだ。
「それは……どういう意味ですか?」
「ホロンの原理で考えれば、よくわかります」
老師は、ゆっくりと語り始めた。
「かつて アーサー・ケストラー は、部分でありながら全体でもある存在を“ホロン”と呼びました。そして、それらが階層的に組み合わさる構造を“ホラーキー”と名づけたのです」
人体を例に取れば、細胞、組織、器官はそれぞれ独立しながらも、全体に奉仕している。だが、もし細胞が自己主張を強め、全体との調和を失えば――異常増殖、すなわち病が起きる。
「社会も同じです」
老師の声は、低く響いた。
「ヒト・ホラーキー、家庭ホラーキー、社会ホラーキー。それぞれが、霊的ホロンと現象的ホロンの二面で成り立っている。だが今、現象世界だけが極限まで肥大し、霊的ホロンが崩壊した」
Kの胸がざわめいた。
「それが……霊障?」
「そうです」
新皮質脳は発達し、合理性は極限に達した。だが、霊的世界を認識する器官――間脳の働きは失われた。
「人類は現象世界には君臨した。しかし、霊的世界には盲目となったのです」
沈黙が落ちた。
窓の外では、遠くの街灯が無機質に光っている。
「世界は、霊的世界と現象世界が共存している。だが階層が違う。だからこそ、間脳と新皮質という別々の器官が与えられていた。しかし……」
「片方が、失われた」
Kがつぶやいた。
「その結果、人は霊的世界を“無い”と言うようになった。感知する器官を失ったのだから、当然でしょう。しかしその無知が、霊性の欠如を生んだ」
老師は、ゆっくりと顔を上げた。
「これは、狂った状態です。理性と情緒が分断され、合理的思考と不合理な信念が共存する精神分裂的な慢性分離。霊性に根ざした叡智の欠如です」
Kは拳を握った。
「では……人間性を回復すればいいのでは?」
老師は、首を振った。
「人間性?」
その声音は、どこか悲しみを帯びていた。
「同一種を殺し続ける存在は、人間だけです。戦争は、人間の条件の中心的特徴ともいえる。人間性の回復などというのは、本質を知らぬ者の言葉です」
Kの背筋が冷える。
「では……どうすれば?」
老師は、はっきりと言った。
「人間性を捨てよ。霊性を取り戻せ」
その言葉は、刃のようだった。
「しかし皮肉なことに、霊性を説くべき宗教者さえ、霊を否定し、教義と理論に走っている」
Kは思い出した。
大乗経典の壮麗な思想。哲学的体系。宇宙論。
「それらはすべて、新皮質に訴えるものです」
老師は言った。
「もちろん尊い。しかし、間脳を開く“方法”は、そこにはない」
「方法……?」
「技法です。技術です。霊性は、理論では開かない」
やがて、老師は静かに言った。
「ぜひ読んでいただきたいのです。大震覚者――ゴータマ・ブッダ の直説を」
Kは目を見開いた。
「阿含経……」
「そうです。シャカが実際に説いた教えは、阿含経に記されたものだけです」
そして老師は、机の引き出しから一冊の古びた書物を取り出した。
「そこに記されているのが――七科三十七道品」
部屋の空気が変わった。
「七つのシステム、三十七種のカリキュラム。人が霊性を開発し、ブッダへと至る具体的修行法です」
Kの鼓動が速くなる。
「それが……成仏法」
「そうです。これは教義ではない。方法です。実践です。間脳の霊性の場を開くための体系です」
老師の目が、深い光を宿した。
「シャカ自身が、この方法によって覚醒した。そして弟子たちに伝えた。これこそが、ほんとうの仏法です」
窓の外に、夜明け前の薄明かりが差し込み始める。
世界は、まだ崩壊の縁にある。
ヒトも、家庭も、社会も、同時に揺らいでいる。
だが――
もし七科三十七道品という“方法”が、再び息を吹き返すなら。
霊的世界と現象世界のホラーキーは、再び均衡を取り戻すのではないか。
Kは、ゆっくりとその書物に手を伸ばした。
夜は、静かに終わろうとしていた。




