しかし、考えてみればすぐわかる通り、「如来」というのは、如来そのもののことである。如
れ、仏さまをまつって、功徳をうえよと教えたもとになっている。
彩の「像」ではないのである。仏像は仏そのものではない。仏像は仏の模型であって、仏そ
のではない。ジャカが説いているのは「如米のみもと」である。仏像のみもとではないのだ。仏
のもとで功徳をうえよといっているのに、仏の模型のところで功徳をうえてなんになろう。
読者よ、あなたはそうお思いにならないだろうか?
わたくしはそう思ったのである。
そこで、当時、わたくしはしばらくのあいだ、生ける如来のいらっしゃるところをずいぶんさ
がしあるいたものである。
しかし、いずこにもおられなかった。
そこでわたくしは、シャカがなぜこういう説法をされたのかいぶかしく思い、結局これは初期
大乗経がまぎれこんだものであろうと考えて、七科三十七道品の修行に入り、このお経にたいする関心はしだいにうすれ、ついにはほとんど記憶から去ってしまったのである。
ところが、サヘト・マへトの奇蹟の翌年、ある日、突然、このお経がわたくしの脳裡にひらめいたのである、その一瞬、このお経のナゾがとけたのだ。
シャカは、時間と空間を超えて、未来にむかってこの説法をされたのである!
必要なとき、知来はいつでもおすがたを顕現されるのだ。
来であるシャカがなぜ、いまさららしく「如来のみもとにおいて」などと説かれたのか?
未来にすがたをあらわされるであろう如来について、シャカは説いたのである。
そうわたくしは直感したのだ。これでナゾは解けた。賢明なる読者ももはやおわかりになったことであろう。
花山に現形された「法無作の如来」こそ、シャカがこのお経で説かれた「如来」なのであった。さきの大柴燈護摩供当日のご霊示にあった通り、この「応供の如来」に供養することにより、「功徳が種え」られるのだ。
のだ。 修行法を超えた成仏法がここにあったのだ。サヘト・マヘトにおける霊性開頭のバイブレーシ 『ンは、修行なくして、だれでも受けられるのである。「王者の相承」を、だれでも受けられる
わたくしが、法解無作の如来の現形された京都花山の地に、あたらしきサへト・マへトを建設しようとしているのは、じつにそのためなのである。
三年前、ラグノウのホテルの一室で、自動書記により、わたくしはこうしるしている。
修行、学間、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知らされた。こころひ
そかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学も、あっというまに消しとんでしまった。叩きのめされてしまった。
これなんだ、これでなくてはならないのだ。これしかないのだ。目もくらむようなあの白銀の輝きにみちたバイブレーション!
一〇〇年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーションに如かぬことを思い知らされた。
これがそれだったのだ。これが究極のそれだったのだ。このためにこそわたくしはここにやってきたのだ。
おお、サヘト・マへト、聖なる地、
あなたはここに待っていてくださった。
わたくしがいまあなたから受けたものを、これからわたくしはひとびとにあたえねばなら
いま、わたくしは聖者であることをつよく自覚する。
とっ
すべてのひとびとがこの聖なるバイブレーションを受けることのできる聖地を、わたくしはひがしの国につくらねばならぬ。この輝きにみちたサへト・マへとの地を、そのまま、日本の国にうつさねばならぬ。それがわたくしの使命だったんですね。それをかならずはたすことをわたくしはあなたに響います。
どうか
地獄の業火か、きよらかな霊光かオーラ
なぜか? さきにわたくしは、わたくしの誓願につねにむなしさと絶望がつきまとっているとのべた。
シャカのむずかしい成仏法を修行しなければ間脳がひらかず、霊性問題が不可能であるとする
ならば、いったいどれほどのひとが、霊性間類することができるであろうか?
ごくかぎられた、わずかなエリートしか、到達することができぬであろう。
シャカの仏法が、「家仏教」であると批判される所以がそこにあった。
231話のか、きよらかな霊だか
第三章間開発―第三の目をひらく250
249シャカは未来にあらわれる如来を説いた




