聖者への四つの階梯
・きよめられた聖者・須陀洹脳ホラーキーのバランスをとりもどす
る。 あやまりばんのうさきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳を殺す修行とは、この二つの脳が生み出す(あるいはこの二つの脂がいだいている) 迷妄と妄想とそこから生ずる煩悩を抹殺する修行である。ひと口でいうと、こころのまよいとけがれを一掃する修行である。その修行が須陀画の階梯でおこなわれ
グルは、特殊な想と実践とをもって、修行者のまよいとけがれを取り去る。仏教でいう「厭情世界」(理解のしかたがさかさまであること。実相の世界とかけはなれた虚仮の世界を実相の世界と思いあやまり執着すること)は、大脳辺縁系脳・新皮質脳がおかすまちがいである。それは「豚ホターキー」のアンバランスが生み出す迷妄なのである。
さきにのべたように、人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺してしまい、霊的世界の存在を認識する問脳を閉鎖してしまった。現象世界と霊的世界
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が共存している実相世界をただしく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系脳)を一時間めして、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。
いままでの宗教(仏教をふくめて)はすべて誤っていたのである。まちがいをおかしている心と、まちがいとおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮胃腸を使って新皮質脳を変えさせようとしていたのである。一時は理解し、納得するかにみえる
が、すぐに元にもどってしまう。
「なんじ悔いあらためよ」といい、「悟れ」という。すべて心が対象である。
こころを変えるのではなく、脳を変えるのだ。まちがった脳を閉ざして、ただしい脳のはたらきをうながす。
それによって、「脳ホラーキー」はバランスをとりもどすのである。
そうすれば、「悔いあらためよ」も「悟れ」も必要ないのだ。間脳がひらき、霊的能力がはたらき出せば、そんなことはわかりきったあたりまえのことになってしまうのであり、聖書もお経もまったく不要になってしまう。なぜならば、聖書や経典の説く世界がそのままただちに自分の世界になってしまうのだから、いまさら読んだり理解しようとする必要など無くなってしまう。
大乗経典あたりが一生けんめいに説いていることなど、幼稚しごくなものになってしまうのであ
し、実践したのだ。 七科三十七道品の成仏のカリキュラムとは、そういう方法なのである。わたくしはそれを発見
なければならないのである。 つぎに、「きよめられた聖者」は、いまのべた的なものだけではなく、発的にもきよめられ
それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとりのぞかなければならないということである。
霊的なけがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケのことである。これをندر ごとくとりのぞかなければならない。
あくみるのである。 自分にかかわりのある不成仏霊・霊のホトケを持っていると、それらが持つ邪まな性格や想念の影響からのがれることができないのである。さらにおそろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の足度」をするおそれがつよいのである。「運命の反覆」とはカルツの反種にほかならない。これが最もおそろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふつうの人の生活においても、赤惨な人生をおくった霊のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを赤倉に
世界的な学者で、フロイト、ホンダのあとどうけてあらわれたあたらしい心理学、「 心理学家的心」(Schicksalsanalyse)の創始者リポット・アンディ博士は、「家
族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾病、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが 「運命の反覆」である。わたくしは、この「運命の反覆」が、霊的現象をともなって特に顕著にあらわれるのをつきとめている。
つまり、ソンデイ博士のいう「家族的無意識」とは、霊的にいうと、不成仏霊・霊障のホトケということになるとわたくしは確信するのである。くわしいことは、抱著『チャンネルをまわせ』『守護霊を持て』(以上、平河出版社)を読んでいただきたい。
この不成仏霊と霊障のホトケの排除は、修行者自身では不可能なので、このとき、霊力あるグルの助けが必要なのである。この霊的な「きよめ」がないと、修行者は一歩も進めない。この霊的な「きよめ」によって、聖者、須陀洹は誕生する。
霊光の発生
聖者須陀洹は、また、「預流」の聖者、「逆流」の聖者ともよばれる。
「預流」とは、あたらしく聖者の流れに入った(預)という意味であり、「逆流」とは、生態・ 因縁の流れに逆う聖者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのままに生きてゆくよりほかなく、その流れに違うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う、つまり、生
死・因縁の法則から超越する聖者である、という意味である。
ところで、わたくしは、須陀祖が「預流」とよばれ、「預流」とはあたらしく聖者の流れに入った者、という意味であると知ったものの、どうして須陀洹になると聖者とよばれるのか、その理由がわからなかった。まあ、そういうものなのだろうくらいにうけとっていたのである。ところが、霊眼を持つようになって、すぐにその理由がわかったのである。
それは、須陀祖の境界に入ると、特殊な霊光が生じるのである。あるいは、その特殊なオーラが生じたから、須陀洹になったということなのであろう。
ご承知の通り、人間のからだをとりまく特殊エネルギーの雲、つまり、『オーラ』の概念は、 何十世紀もむかしにさかのぼる。聖人をえがいた古い絵は、キリスト教徒が光輪を考え出すずっと以前から、聖人たちが光りかがやくものの中に立っているのを示している。東洋の仏像は二十世紀もむかしから、光輪・光背というかたちで表現している。神秘的な性質を持つこのもやは、 ロンドンの聖トーマス病院のウォルター・キルナーによって最初に研究された。かれは、一九一一年に、色ガラスのスクリーンを通して見ることによって、ほとんどの人のからだのまわりに約バインチのかがやいた球を見ることができた。かれは、このオーラはそれを身につけている人の心の安らぎに応じて、参や色を変えると主張した。かれは、それを医学的診断の補助として用いて、ぎわになった。
と所作は、この修行のことをさすのである。
斯形合のオーラは、須陀説よりやや光が強くなり、すこし黄色みを帯びる。
3 次元を飛躍した聖者,阿那含
異性間の体験をし、霊界と交流する力を持つようになった聖者である。
オーラは生き生きとしたオレンジ色である。ジェット機の吐き出す炎を想い起こさせる色とバ
ワーを持っている。
4 次元を超越した聖者・アルハット
ファグのことである。ファグでないわたくしには、ブッグのことについてあれこれ書く資格はない。霊界の最上界に位置する仏界の体現者であるとだけ言っておく。
ブッダのオーラは、左様、つぎのようなものである。
第三章 間脳開発――第三の目をひらく 230




