文殊菩薩――
その名は、まだ言葉になる前の「判断」の奥で、静かに響いている。
人が迷いの中で立ち止まるとき、
答えはすでに在るのに、それが見えなくなる瞬間がある。
文殊が司るのは、知識の量ではない。
物事の“ありよう”を、そのまま見抜く刃のような智慧だ。
古い経に語られるところによれば、
彼には人としての影があったという。
古代インド、コーサラ国の首都・舎衛城。
バラモン階級に生まれ、釈迦の言葉を聞き、
やがてそれを文字としてこの世に留める役目を担った者。
火のような信仰でも、水のような慈悲でもなく、
ただ、曇りなき「見極め」をもって。
釈迦如来の左脇に立つその姿は、
普賢の実践と並び、三尊として世界を支える。
だが時に、文殊は独りで現れる。
誰にも相談できぬ夜の只中に、
答えを求める者の前に。
獅子に乗るのは、力を誇るためではない。
恐れを越えて進む智慧が、最も静かで、最も強いからだ。
右手の剣は、怒りではなく、執着を断つために振るわれる。
左手の蓮華に載る経巻は、
言葉を超えた教えが、なお言葉として示されることの象徴。
密教において、文殊は童子の姿をとる。
五つの髻を結び、清らかなまま、鋭く在る。
それは未熟ではなく、
どこにも染まらぬ智慧のかたち。
人はよく言う。
「三人よれば文殊の知恵」と。
だが本当は、三人が集まったときに生まれるのは、
正しさではなく、問いだ。
文殊は答えを与えない。
問いを、正しい形に研ぎ澄ます。
オン・アラハシャ・ノウ。
その真言は、五大――空・風・火・水・地――を貫き、
思考が世界とずれる瞬間を、静かに正す。
学業成就、智慧明瞭。
そうした言葉で語られるご利益の奥に、
文殊はただ一つのことを示している。
――見るべきものを、見る力を持て。
迷いの闇を切り裂くのは、
光ではない。
曇りなき理解、その一瞬なのだ。




