求聞持 ― 天才を生む珠の物語
夜明け前、山の庵はまだ闇に沈んでいた。
若い修行者・蓮真(れんしん)は、灯明の前に端坐し、ただ呼吸の音だけを聞いていた。
学べども覚えられず、考えども言葉にならぬ。
知は積もるのに、智慧にならない。
その壁の前で、人は自らを凡庸と呼ぶ。
だが、師は静かに言った。
「知が足りぬのではない。
覆われているのだ」
蓮真は顔を上げた。
「人の心と世には、蓋がある。
恐れ、疑い、執着、疲弊。
それらが智慧を覆っている」
その夜、師は古い名を口にした。
求聞持聡明法。
聞いたことを忘れず、
観たものを曇らせず、
思考を越えて、智慧が自ら働きだす法。
虚空蔵の座
修行は、言葉よりも静かだった。
山の洞で、蓮真はただ真言を繰り返す。
呼吸は深まり、脊柱の奥に、かすかな熱が灯る。
それは力ではなかった。
意思でもなかった。
ただ、目覚めだった。
熱は昇り、胸を抜け、喉を越え、
やがて頭蓋の中心――
思考の奥、名づけられぬ場所へと注がれていく。
そのとき、虚空が開いた。
無限の夜空に、ひとりの菩薩が坐していた。
童子の姿、だが老いも若さも超えた眼。
虚空蔵菩薩。
その胸には、数えきれぬ記憶が眠っている。
人の祈り、失われた言葉、
まだ生まれていない智慧。
「求めるな」
声は、直接、心に届いた。
「思い出せ」
除盖障院
夢か、覚醒か。
蓮真は曼荼羅の中に立っていた。
そこは除盖障院。
人と世界を覆う、すべての蓋を取り除く場。
その中心に坐すのは、
不思議慧菩薩。
左手には蓮華。
蓮華の上には、ひとつの珠――
摩尼宝珠。
右手は施無畏の印。
恐れを終わらせるかたち。
「智慧とは、考え抜いた末に得るものではない」
菩薩は語った。
「覆いが外れたとき、
すでに在ったものが、働きだす」
その瞬間、蓮真は悟った。
天才とは、特別な人間ではない。
智慧が、遮られていない人間のことなのだ。
駄都 ― 珠の正体
修行が深まるにつれ、
摩尼宝珠は単なる象徴ではなくなった。
それは、光であり、
震えであり、
身体そのものだった。
師は言った。
「その珠は、駄都。
仏陀の真身舎利――
生命そのものの凝縮だ」
生命が、生命を照らす。
だからこそ、この法は人を壊さない。
智慧は、身体を衰えさせず、
むしろ若返らせる。
老いは、智慧の不足ではなく、
生命循環の滞りなのだ。
天才とは何か
やがて、蓮真は山を下りた。
記憶は澄み、
言葉は自然に湧き、
人の苦しみが、理屈ではなく感覚として分かる。
だが、彼は奇跡を誇らなかった。
「寝たきりの天才など、意味はない」
師の言葉が、今も胸にある。
智慧は、
世のため、人のために働いてこそ、
真に智慧となる。
核も、戦争も、環境破壊も、
すべては人の心にかかった蓋から始まる。
それを外すのが、
不思議慧のはたらきなのだ。
夜明け。
庵の前で、風が静かに木々を揺らす。
蓮真は微笑み、歩き出した。
天才になるためではない。
ただ、覆われていない心で生きるために。
虚空は、今日もすべてを記憶している。




