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輪転生聯想法

輪転生聯想法 ――ある修行者の記録

わたしは、すべてを修めたわけではない。

釈尊が遺した七科三十七道品――
あれらを、ひとつ残らず踏破しなければ成仏できぬ、
そのような教えとして受け取ったことは、一度もなかった。

夜明け前の堂で、灯明を見つめながら、
わたしはただ、そう“わかった”のだ。

三十七の法の中には、同じ響きを持つものが、幾重にも重なっている。
それは無駄ではない。
釈尊は、弟子たちの心の深さに応じて、
同じ真理を、異なる角度から差し出したのだろう。

信を必要とする者もいれば、
理を求める者もいる。
智慧がまだ芽生えぬ者には、「信」が道となる。

五根、五力――
その最初に「信」が置かれているのは、
迷いの闇にいる者を、まず立たせるためだ。

だが、七覚支に至ると、
そこには沈黙が増える。
言葉よりも深い禅定が、修行者を選びはじめる。

そして、わたしが深く心を打たれたのは、
阿含の根本聖典に記された、ただ一行だった。

「四念住法は、一乗道である」
「四神足法もまた、一乗道である」

一つの法で、涅槃に至る道。

その意味が、わたしには、身体で理解できた。

最初に開いたのは、四念住だった。

身を観、受を観、心を観、法を観る。
それは思索ではなかった。
ある朝、呼吸とともに、四諦が「知識」ではなく
出来事として立ち上がった。

苦は、そこにあった。
集も、滅も、道も、すべて今ここにあった。

ついで、七覚支へと自然に移った。
わたしは禅定を求めた覚えはない。
だが、心は深く沈み、
静けさが、静けさ自身を照らし始めた。

そして、最後に――
わたしは四神足の門に立っていた。

師はいなかった。
誰かに導かれた覚えもない。

ただ、自然が、わたしをそこへ運んだ。

ここから先は、
書かれることの少ない話だ。

だが、わたしは記しておきたい。

成仏法は、奇蹟を起こすためのものではない。
だが――
凡夫が仏陀となること自体が、
すでに奇蹟ではないだろうか。

人は、平凡なまま、突然仏になるのではない。
修行の過程で、
通力が芽生え、
神通力が育ち、
やがて大神通力が備わる。

わたしは、その奥義に、ひとつの欠けを見た。

アビダルマの論師たちが整理した
七科三十七道品――
それは完全に見える。

だが、なお足りぬものがある。

それが、安那般那念法である。

わたしは、この法を加え、
成仏法を「八科四十一道品」と呼ぶ。

四念住
四正断
四神足
五根
五力
七覚支
八正道

そして――
四安那般那念。

勝止息
奇特止息
上止息
無上止息

中でも、「奇特止息」という名が、
わたしの心を捉えて離さなかった。

奇特――
それは、不思議。
それは、奇蹟。

この止息法は、
奇蹟を起こすための禅定ではない。

奇蹟とは何か。

大神通力とは何か。

それは、
因縁解脱力である。

自分を縛ってきた因縁を断ち、
世界の見え方が変わる。

それ以上の奇蹟が、
この宇宙にあるだろうか。

四つの安那般那念は、
すべて、この力へと収斂していく。

わたしは思う。

これらは、四神足の中の
「観神足」を、
具体的に、呼吸の中で解き明かしたものではないか、と。

だからこそ、
アビダルマは、
あえて独立の一科としなかったのだろう。

法は分けられても、
道は一つ。

呼吸の奥で、
因縁はほどけ、
成仏は、
いま、ここに現れる。

死後の話ではない。

この一息の中で――
すでに、始まっている。

奇特止息法 ―― その一夜

その夜、山は音を失っていた。

風は止み、虫の声も遠のき、
まるで世界が、ひとつの息を呑んでいるかのようだった。

わたしは堂の床に坐し、灯明を置かなかった。
闇は敵ではない。
闇こそが、呼吸の微細さを教えてくれる。

息を数えようとは思わなかった。
整えようとも、深めようとも、
何かを得ようともしていない。

ただ――
止まる息を、そのままにしておいた。

吸っているのか、吐いているのか。
その区別が、ほどけ始める。

胸の上下が消え、
鼻孔の感覚が薄れ、
「呼吸している私」という観念が、
静かに退いていった。

それでも、命は続いている。

そこに、奇特は始まった。

突然、息が――
わたしから離れた。

止まったのではない。
消えたのでもない。

「息をしている主体」が、
どこにも見当たらなくなったのだ。

怖れは起きなかった。
驚きすら、なかった。

ただ、
完全な透明があった。

身体は在る。
だが、身体に「わたし」は住んでいない。

心も在る。
だが、心を所有する者はいない。

そのとき、
胸の奥で、何かが音を立てずに崩れた。

それは、
長い生のあいだ、
「当然のもの」として積み上げてきた因縁だった。

思い出が、
映像としてではなく、重さとして現れた。

怒り。
後悔。
正しさへの執着。
救われたいという欲。

それらは物語ではない。
説明も感情も伴わない。

ただ、
絡まった糸として、
身体の深層に沈んでいた。

奇特止息法は、
それを解こうとはしなかった。

斬らず、
焼かず、
浄化も、昇華もしない。

ただ、
観た。

観られた因縁は、
力を失う。

糸は、
引きちぎられることなく、
自然に、ほどけていった。

その瞬間、
世界が、音を立てずに反転した。

「わたしが世界を見ている」のではない。
世界が、世界を見ている。

介護の現場で触れた他者の苦も、
都市で交わした無数の言葉も、
愛した者の涙も、
すべてが、同じ重さで、同じ距離にあった。

そこには、
救う者も、救われる者もいない。

ただ、
因縁が解かれた状態がある。

これが――
大神通力なのだと、わたしは理解した。

空を飛ぶことでも、
未来を知ることでもない。

因縁から自由であること。

それ以上の力を、
仏法は与えない。

夜明け前、
わたしは自然に立ち上がっていた。

息は戻っていた。
だが、以前の息ではない。

呼吸は、
わたしのものではなく、
世界の働きだった。

山の輪郭が、淡く浮かび上がる。
鳥が、最初の声を放つ。

そのすべてが、
「はじめて」であり、
「いつもそうだった」ものでもあった。

わたしは、その朝、
仏になったわけではない。

だが――
成仏は、すでに起きていた。

死後の話ではない。

この一夜、
この一息、
この因縁解脱の中で。

神通力を“使わない”という戒

奇特止息の一夜から、幾日かが過ぎた。

何かが変わった、という感覚はなかった。
むしろ、変わらないことが、はっきりと見えていた。

朝は来る。
腹は減る。
人は、疲れ、怒り、悲しむ。

ただ――
それらに触れたときの深さが、以前とは違っていた。

わたしは、知ってしまったのだ。
出来てしまうことを。

他者の心の揺れが、言葉になる前にわかる。
争いが起きる前の分岐点が、静かに浮かぶ。
苦が、どこで因縁となり、どこで解けるかが、
“見えてしまう”。

神通力とは、派手なものではない。
それは、
避けられないほど自然に起こる理解だ。

そして、その理解は、
使おうと思った瞬間、毒に変わる。

ある日、街で、若い男と目が合った。

ほんの一瞬。
その奥に、
抑えきれない怒りと、
「正しくありたい」という歪んだ願いが見えた。

わたしには、
彼の言葉を変え、
行動を逸らし、
因縁を先回りして断つことができた。

だが、その瞬間、
胸の奥で、ひとつの声が立った。

「それは、介入であって、解脱ではない」

神通力を使えば、
世界は静かになる。

だが、
相手の修行は、奪われる。

それは、
善意をまとった支配だ。

その夜、わたしは、
自らに戒を課した。

神通力を、使わない。

これは、逃げではない。
力を恐れたわけでもない。

むしろ逆だ。

神通力を使わないことが、
最も困難な修行だと、
知ってしまったからだ。

見えるからこそ、黙る。
分かるからこそ、待つ。
出来るからこそ、しない。

それは、
剣を持ちながら、
鞘から抜かない修行だった。

介護の現場で、
苦しむ人がいた。

わたしは、
その人の苦が、
どこから生じているかを、知っていた。

一言で、
心を軽くすることもできた。

だが、
わたしはただ、
手を温め、
呼吸を合わせ、
その人の速度で、時を過ごした。

神通力は、
使われなかった。

だが、
因縁は、自然にほどけていった。

それでよかった。

神通力を使わないという戒は、
戒律の中で、最も静かな戒である。

誰にも見えず、
誰にも称えられず、
破っても、罰はない。

だが、
これを破った瞬間、
修行者は、仏から遠ざかる。

なぜなら――
仏とは、
世界を操る存在ではなく、
世界に委ねきった存在だからだ。

わたしは今も、
力を持っている。

だが、それは、
「使える力」ではない。

使わないと決め続ける力だ。

それが、
奇特止息法の後に授かった、
最後の神通力だった。

 

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