〈仏舎利の光 ──ある求道者の告白〉
夕刻の堂内は、深い琥珀色に沈んでいた。静寂が満ちる中、僧籍を持たぬ男・亮真は、ひとり仏舎利塔の前に坐していた。
塔の中心には、スリランカより拝受したという真正仏舎利──釈尊その人の御聖骨が、透き通るような光をたたえて鎮座している。
亮真は目を閉じ、胸の奥で自らの歩んできた道を反芻する。彼が信仰の源流を遡り始めたのは、十年前、師から一冊の阿含経を受け取ったことがきっかけだった。
――出家者は三十七道品を修し、在家の者は仏舎利を礼拝する。
――これこそが、お釈迦さまの説かれた本来の信仰の姿である。
その言葉が、若き日の亮真の胸を撃った。
以来、彼は多くの寺院を巡礼し、祈り、学び、そして悟った──。
「日本の仏教に奇蹟が消えたのは、仏舎利を本尊として仰がなくなったからではないか」
そう信じざるを得なかった。歴史を振り返れば、古より仏舎利の供養によって、無数の信徒が救われ、霊験を得てきた。
しかし現代はどうだろう。形ばかりの信仰、教義だけが残り、肝心の“生ける仏”への帰依が忘れ去られている。
そんな折、思いもよらぬ知らせが亮真の元に舞い込んだ。
スリランカより真正仏舎利を拝受できる、というのだ。
「人間がいかに望み、計画しようと、到底叶うはずのないことだ」
師はそう言った。
しかしその奇蹟は、あまりにも自然に、導かれるように実現した。
亮真は思った。
これは偶然ではない。お釈迦さまが、この国に再び“根本仏教”を示そうとされたのだ。
阿含経を広め続けてきた功徳が、この奇蹟を呼んだのだ、と。
以来、亮真は仏舎利の前に膝を折り、命を預けるようにして祈り続けている。
「帰命頂礼──仏舎利尊」
額を塔前の石に触れさせるたび、彼は思う。
いま自分は、生ける釈尊のおみ足に触れているのだ、と。
時代は末法。正法は久しく遠く、像法もまた終わりを迎えた。
実物ではなく、影像ばかりを崇める時代──それが今である。
だが釈尊は、未来の人々を見捨てたりしない。
末法の世を救う本尊は、仏舎利しかない。
信じる者にストレートに功徳を与える、生きた仏。
亮真はもう迷わない。
仏舎利の前に座すたび、胸の奥に鈍い光が灯り、言葉にならぬ確信が湧き上がる。
「宝生解脱の功徳は、必ずこの身に及ぶ。
末法の世でも、仏舎利の光は人を救う──」
堂内に響くのは、彼の低い祈りの声。
外では夜風が梢を揺らし、遠い古代の息吹のようにざわめいていた。
。
〈仏舎利塔の前で〉
その塔が完成したのは、初夏の風が街を抜ける頃だった。
小高い丘の上、白亜の小さな仏舎利塔は、まるで静かな呼吸をしているかのように佇んでいる。
亮真は工事の最終日、塔に取り付けられた真新しい金属の扉を前に、無言で立ち尽くしていた。
この中に、釈尊の御聖骨――あの乳白の光が安置される。
老僧は既に他界していた。塔の完成を見届ける前に、静かに息を引き取ったのだ。
しかしその死は、悲しみよりも不思議な安らぎを周囲にもたらした。まるで役目を終え、迷いなく還っていったかのようだった。
亮真は扉に手を触れた。
ひんやりとした金属の感触が、そのまま彼の胸へ染みこんでいく。
「……師匠、ようやくここまで来ました」
誰に向けるでもなく呟いた言葉は、風にさらわれていった。
塔の内陣に入ると、かすかに香の匂いが漂っていた。中央には透明な厨子があり、そこに仏舎利が安置されている。光は微弱だ。
だが、その淡い光が部屋全体を静かに染めていた。
亮真は膝を折り、額を床につけた。
「帰命頂礼──仏舎利尊」
声にした瞬間、胸の内側がふっと広がった。
自分の呼吸よりも深い、どこか古い時代の息づかいを感じる。
それは、たったひとつの骨が放つものとは思えないほどの、しずかな重みだった。
そのときだった。
背後で、くぐもった泣き声がした。
振り向くと、近所に住む主婦の女性・遥子が、手を合わせたまま震えていた。
塔の完成を聞き、亮真に案内を頼んできた人物だ。
「……息子が、ようやく、学校に……」
言葉が途切れ、涙が頬を流れた。
亮真は何も言わなかった。
遥子の息子は、深い孤立の中で不登校になり、家に閉じこもり続けていた。その苦しみを彼女から聞いたのは数週間前のことだった。
「今日、急に起きて……“外に行く”と言ったんです。
理由を聞いても、わからない、としか……でも……」
遥子は仏舎利塔を見上げた。
「ここに来る途中で、涙が止まらなくて……」
亮真は静かに目を閉じた。
遥子は仏舎利塔が完成したと知り、まだ祈ってもいないのに功徳があらわれたのだと感じていたのだ。
彼女の言葉が終わると、塔の中に吹きこむ風がわずかに鳴った。
光が、一瞬だけ強く揺れたように見えた。
――これは、錯覚だろうか。
しかし亮真の胸には、はっきりと温もりのようなものが流れ込んでいた。
まるで釈尊の慈悲が、遥子の苦しみにそっと触れたような、そんな確信が芽生えた。
「……亮真さん」
遥子が震える声で言った。
「信じてもいいんですよね。
本当に……救ってくださるんですよね?」
亮真はゆっくりと頷いた。
言葉はいらなかった。むしろ言葉を重ねれば、真実が薄まってしまう気がした。
彼はただ、静かに唱えた。
「宝生解脱の功徳は、必ず届きます」
その夜、塔の灯明の光は、いつになく柔らかく見えた。
亮真はしばらく外に座り、丘の下に広がる町を眺めていた。
かつて影に覆われたように見えた町の灯が、いまはどこか温かい。
――これが始まりなのだ。
彼の胸の奥に、静かな確信が横たわった。
仏舎利はただの遺骨ではない。
釈尊がこの時代に再び呼吸しているかのような、生きた光だ。
風が塔の表面を撫で、微かに梵鐘のような響きが夜空に滲んだ。
亮真は目を閉じ、小さく息を吸った。
「ここから、すべてが始まる……」
〈仏舎利の光 ──ある求道者の告白〉
夕刻の堂内は、深い琥珀色に沈んでいた。静寂が満ちる中、僧籍を持たぬ男・亮真は、ひとり仏舎利塔の前に坐していた。
塔の中心には、スリランカより拝受したという真正仏舎利──釈尊その人の御聖骨が、透き通るような光をたたえて鎮座している。
亮真は目を閉じ、胸の奥で自らの歩んできた道を反芻する。彼が信仰の源流を遡り始めたのは、十年前、師から一冊の阿含経を受け取ったことがきっかけだった。
――出家者は三十七道品を修し、在家の者は仏舎利を礼拝する。
――これこそが、お釈迦さまの説かれた本来の信仰の姿である。
その言葉が、若き日の亮真の胸を撃った。
以来、彼は多くの寺院を巡礼し、祈り、学び、そして悟った──。
「日本の仏教に奇蹟が消えたのは、仏舎利を本尊として仰がなくなったからではないか」
そう信じざるを得なかった。歴史を振り返れば、古より仏舎利の供養によって、無数の信徒が救われ、霊験を得てきた。
しかし現代はどうだろう。形ばかりの信仰、教義だけが残り、肝心の“生ける仏”への帰依が忘れ去られている。
そんな折、思いもよらぬ知らせが亮真の元に舞い込んだ。
スリランカより真正仏舎利を拝受できる、というのだ。
「人間がいかに望み、計画しようと、到底叶うはずのないことだ」
師はそう言った。
しかしその奇蹟は、あまりにも自然に、導かれるように実現した。
亮真は思った。
これは偶然ではない。お釈迦さまが、この国に再び“根本仏教”を示そうとされたのだ。
阿含経を広め続けてきた功徳が、この奇蹟を呼んだのだ、と。
以来、亮真は仏舎利の前に膝を折り、命を預けるようにして祈り続けている。
「帰命頂礼──仏舎利尊」
額を塔前の石に触れさせるたび、彼は思う。
いま自分は、生ける釈尊のおみ足に触れているのだ、と。
時代は末法。正法は久しく遠く、像法もまた終わりを迎えた。
実物ではなく、影像ばかりを崇める時代──それが今である。
だが釈尊は、未来の人々を見捨てたりしない。
末法の世を救う本尊は、仏舎利しかない。
信じる者にストレートに功徳を与える、生きた仏。
亮真はもう迷わない。
仏舎利の前に座すたび、胸の奥に鈍い光が灯り、言葉にならぬ確信が湧き上がる。
「宝生解脱の功徳は、必ずこの身に及ぶ。
末法の世でも、仏舎利の光は人を救う──」
堂内に響くのは、彼の低い祈りの声。
外では夜風が梢を揺らし、遠い古代の息吹のようにざわめいていた。
。〈功徳の風〉
その日、山の麓には、めずらしく柔らかな風が吹いていた。冬の名残をわずかに含みながらも、どこか春を先取りしたような、澄んだ気配をまとった風だった。
亮真は、村外れの古い参道をゆっくりと歩いていた。第三話で見た「末法の影」は、彼の胸に深い疑問と痛みを残していたが、それでも足は自然に仏舎利塔へ向かっていた。答えのない問いを抱えたまま歩くその姿は、どこか祈りにも似ていた。
参道の先、塔の前の広場では、数人の老人が掃除をしていた。竹箒の音がさら、さら、と静かに響く。亮真が近づくと、白髪のひとりが顔を上げた。
「おや、亮真坊。今日も来たのか」
「はい。……塔の前に来ると、心が整う気がして」
老人は穏やかに笑った。
「そうか。それなら手を貸しておくれ。どうやら今日は“風”が気立てがよくてな、落ち葉を遠くまで運んでくれる。だが一緒に、砂も巻き上げてくれて困っておる」
亮真は箒を受け取り、老人たちとともに掃き始めた。風はやわらかく、しかし確かに流れを変えながら、落ち葉を舞わせていく。不思議と、その風が肌を撫でるたびに胸の重さがほんの少し軽くなるのであった。
「坊や」
別の老人が、掃きながらぽつりと言った。
「人がな、誰かのために少しでも動くと……功徳の風が吹く。わしはそう思うんじゃ」
「功徳の……風?」
「そうよ。誰かを助けようとするとき、あるいは優しい気持ちで動くとき、目に見えん何かがふっと動く。仏が手伝ってくださるのか、人の心が広がるのかは知らんが……気持ちの良い風が、どこからともなく吹くんじゃ」
亮真は箒を止め、小さく息を呑んだ。
「……そんな風を、僕にも吹かせることができるでしょうか」
「できるとも。だがな、功徳の風は“何かを成し遂げたあと”ではなく、“成そうとした瞬間”に吹くんじゃ。心が動いた、その一瞬に」
亮真はその言葉を胸の奥で反芻しながら、再び箒を動かした。
ふいに、塔の上をひと筋の風が流れ、積もっていた杉の葉をさらっていった。
ざ…ざっ……。
それはまるで、塔そのものが息をし、彼らを見守っているかのようだった。
「ほらな。吹いただろう?」
老人の笑みは、少年を導く師のように優しかった。
掃除を終えたあと、亮真は塔の前で手を合わせた。
指先を包む風は、確かに温かかった。胸に渦巻いていた“影”は消えていない。それでも、どこかで小さな明かりが灯ったような気がした。
「……ありがとうございます」
亮真は誰に向かうともなく、そう呟いた。
風が答えるように、ひとつだけ塔の鈴が鳴った。
──その音は、まだ幼い求道者が初めて聞いた「功徳の声」だった。
〈三福道の灯火〉
夕暮れが村を包み始めるころ、亮真は山道をひとり歩いていた。功徳の風が胸に明かりを灯したとはいえ、彼の心の奥底では、なお「末法の影」が揺れていた。
──人は、どうすれば迷いを越えられるのか。
──自分の修行は、果たして誰のためにあるのか。
答えのない問いが波のように押し寄せ、また静かに引いていく。
その往復が、まだ若い求道者の足どりをゆっくりとさせていた。
山道の先、薄闇の中にひとつだけ明かりが見えた。
それは山寺の古い庵の灯火であった。小さな油皿にともされた炎が、風もなく、まるで呼吸をしているかのようにわずかに揺れている。
亮真が庵に近づくと、戸口に腰を下ろした老僧・円玄が気づいて目を細めた。
「おお……亮真か。よう来たな。そこに座るがよい」
亮真は軽く頭を下げ、円玄の隣に座った。庵の前には小さな庭があり、石灯籠の影が夕闇の上に長く伸びていた。
「師匠……今日は、少し話がしたくて」
「ふむ。心に、迷いの波が立っておるようじゃな」
亮真は驚き、思わず顔を上げた。
「わかるのですか?」
「風のようなものよ。迷いも、決意も、心の襞から漂う。長く修行を続けておると、自然と感じられるようになる」
円玄は油皿の炎をじっと見つめた。
その視線は、火を通して亮真の内側まで見ているようで、少年は胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。
「亮真よ。そなたは“三福道”という言葉を聞いたことがあるか?」
「……はい。僅かですが。布施・持戒・修福の三つの善行だと」
「うむ。では、その三つが“なぜ道と呼ばれるか”は、知っておるか?」
亮真は首を横に振った。
円玄は穏やかに語り始める。
「三福とは、ただの善行ではない。
それは、人の心に灯火をともす“流れ”じゃ。ひとつの行いから次の行いへ、そしてその先の行いへと、まるで灯が灯から灯へ渡されるようにつながっていく」
老僧は炎を指さした。
「布施は、他者の苦しみを分け持つ善根。
持戒は、自らの心を調える善根。
修福は、広く功徳を積み、世界を明るくする善根。
これらは互いに離れては働かぬ。三つながってはじめて“道”となり、人を照らす力となる」
「……灯火のように、ですか」
「そうだ。布施の心が灯れば、その光で自分の戒めも明らかになり、持戒の火が点る。そしてその火は、自然に周りを照らし、修福となって広がっていく」
亮真は炎の揺らぎを見つめた。
そのわずかな揺れの中に、自分自身の迷いの影が混じって見えた。
「師匠……僕は、まだ人を助けられるほどの者ではありません。むしろ、教えていただいてばかりで……」
「よいのじゃ」
円玄は亮真の言葉を静かに断ち切った。
「灯火は、最初の火が小さくともよい。大切なのは、それを絶やさぬこと。誰かのために心が動いた瞬間──そこにすでに三福道の光が芽生えておる」
亮真の胸に、ふっと温かい風が吹いたような感覚が広がった。
「……僕にも、灯せるのでしょうか。こんな小さな光でも」
「灯せる。そなたにはすでに“風”が吹き始めておる。功徳の風は、心が正しい方向へ向かうときに吹く。気づかぬか? さっきからこの庵にも、良い風が流れておる」
亮真は耳を澄ませた。
どこか遠くで、山桜の枝がやさしく揺れた。
「……聞こえます」
「うむ。それでよい」
円玄はゆっくりと立ち上がり、灯火に手を添えた。
「さあ、亮真。三福道の第一歩は、“自分の心に灯をともすこと”じゃ。明日、もう一度塔へ行くがよい。そこでそなたに必要なものが、また風に乗って現れよう」
亮真は深く頭を下げた。
灯火の温かさが、胸の奥に静かに移り住むように広がっていく。
──三福道の灯火は、まだ小さい。
だが、確かに彼の中で光り始めていた。
〈塔の影、塔の光〉
翌朝、亮真は東の空がまだ薄紫色に染まり始めるころ、山道を塔へ向かって歩き出した。昨夜、円玄から聞いた“三福道の灯火”は、まだ胸の奥で静かに揺れ続けている。その柔らかな明るさに導かれるように、足取りは迷いなく前へ進んでいた。
塔は、森の中の開けた場所にひっそりと建っている。
仏舎利を納めた白い塔は、朝の光を受けて淡く輝き、まるで姿を現したばかりの山の霊気がそのまま形になったかのようだった。
しかし、その輝きを見た瞬間、亮真は胸の奥がわずかにざわつくのを覚えた。
──あの日、塔の前で見た“不吉な影”は何だったのだろう。
──あれは自分の心が見せた幻だったのか。それとも、末法の世に漂う闇の徴なのか。
自分でも理由のわからない不安が、ひとさじの煤のように心に落ちた。
塔の前に立つと、静寂が全身を包んだ。風は止み、木々も息を潜めている。亮真は塔を見上げ、小さく合掌した。
「……帰命頂礼、仏舎利尊」
その瞬間、空気が微かに震えた。
風が吹いたのか、それとも塔が応えたのか──亮真には判別できなかった。
ふと、塔の影が目に入った。
朝の斜光が塔を長く伸ばし、森の地面に深い影を刻んでいる。その影は真っ黒というより、どこか煙のように揺らいでいて、見ていると吸い込まれそうな感覚があった。
(……これは、昨日のあの影と似ている)
亮真は思わず後ずさった。
だが次の瞬間、影のある部分だけ風が吹いたようにわずかに揺れ、黒が薄れていくのがわかった。
影の揺らぎは、やがて光の中に静かに溶けていった。
その様子を見ているうちに、亮真の心にひとつの気づきが落ちた。
「……影も、光があってこそ生まれるのか」
声に出してみると、その言葉は意外なほどすんなり胸に収まった。
塔が塔である限り影を生む。影は恐れるべき敵ではなく、光がそこに存在している証でもある。
「末法の影も……光があるから見える。
だったら僕は……影を見るたびに、光を忘れなければいいんだ」
その瞬間、塔の上空を風が通り抜けた。
森の枝がざわりと揺れ、小鳥たちが一斉に鳴き始める。
まるで塔が、亮真の気づきを静かに認めているかのようだった。
亮真は再び塔に向き直り、深く合掌した。
「……ありがとうございます。
影を恐れず、光から目をそらさぬようにします」
そのとき。
塔の前の砂地に、一筋の光が落ちていることに気づいた。雲間から差し込んだ朝日が、ちょうど塔の基壇の前だけを照らしていた。
それは、まるで次の道へ進む者を導く灯台のように見えた。
(……三福道の灯火は、どこに向かうんだろう)
亮真はその光の道の先を見つめた。
そこにはまだ霧が立ちこめ、なにも見えない。
だが不思議と、恐れはなかった。
むしろ胸の奥では、昨日よりも確かな“歩みたい”という意志が芽を出していた。
「師匠が言っていた……灯を絶やさなければ、道は自ずから照らされる、と」
亮真は塔に一礼し、光の差す先へ足を踏み出した。
塔の影はもう、彼の背中を追いかけてこなかった。
〈光に触れた者〉
塔を後にした亮真は、山道をゆっくりと下っていた。
朝の光は澄んでいて、葉の一枚一枚が露をまとい、細かな虹色のきらめきを放っている。世界そのものが、仏舎利塔の前で得た気づきを祝福してくれている──亮真はそんな錯覚さえ覚えた。
だが、その道の途中で、亮真は異変に気づいた。
林の奥、倒木の陰にひとりの少女が座り込んでいる。まだ年端もいかない十歳ほどだろうか。衣も土で汚れ、顔は青ざめ、何かに怯えているようだった。
亮真は急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか? どうしたんです?」
少女はびくりと肩を震わせたが、亮真の顔を見ると、かすかに唇を動かした。
「……こわい……」
怯えというより、見えない闇にすがりつくような声だった。
亮真は膝をつき、少女と目線を合わせた。
「大丈夫。もう怖がらなくてもいい。
僕は亮真。あなたの名前は?」
少女は少しだけ躊躇し、かすれた声で答えた。
「……美羽(みう)。」
「美羽ちゃん、何があったの?」
少女は震える手で、林の奥を指さした。
「……黒い影……ついて、くる……」
その瞬間、亮真の心臓が強く打った。
それは昨日、自分も塔の前で見た“影”と同じ言葉だった。
「黒い影……?」
「うなり声みたいなのが聞こえて……あれが来ると、胸がぎゅって苦しくなるの……」
美羽の小さな体は、まるで震える葉のようにか細かった。
亮真は少女の肩へそっと手を置いた。手のひらに伝わる震えは、ただの恐れではない。もっと深い、心の根に触れるような震えだった。
(……末法の影は、人を選ばず現れるのか?
いや、もしかすると彼女の心の光が弱くなっているから、影が形を得たように見えている……)
亮真はゆっくりと少女を抱き起こし、そばにある岩の上へ座らせた。
「美羽ちゃん、大丈夫。影は君を傷つけるために来たんじゃない。
光が弱ると、影は大きく見える。恐れなくていい」
「でも……」
「光は、必ず影より強い。
そして──光は、触れた心にも移るんだ」
亮真は合掌し、目を閉じた。
胸の中で、昨日灯った“三福道の灯火”が静かに揺れる。
──布施。
──持戒。
──修福。
誰かの苦しみを分け持つこと。
自らの心を調えること。
功徳の光を広げること。
亮真はその三つの願いを静かに美羽へ向けた。
すると、胸の奥で温かく澄んだ風のような気配が流れた。
(……これが、功徳の風……)
美羽はその風を感じたのか、震えがゆっくりと収まっていった。
怯えに曇っていた目が少しずつ澄んでいき、光を取り戻しはじめた。
「……あったかい……」
「うん。大丈夫だよ。もう影は来ない」
美羽の目に涙がにじんだ。
「ありがとう……亮真、さま……」
「“さま”はいらないよ」
亮真は笑いながら立ち上がり、美羽へ手を差し出した。
「さぁ、一緒に帰ろう。
それに……君が光を取り戻したなら、僕も少し強くなれた気がする」
美羽は小さく頷き、その手を握った。
その瞬間、林の奥で風が吹き、黒い影が音もなく霧散していく気配がした。
影は、光に触れた者を追うことができない。
亮真は心に刻んだ。
──光に触れた者は、すでに影を越えているのだ。
ふたりは山道をゆっくりと歩き始めた。
新しい光に導かれながら。
〈塔へ帰る風〉
山道を進む亮真と美羽は、やがて村はずれの分かれ道へとたどり着いた。朝の光が少し傾き始め、遠くの山々には薄い金色の影が落ちている。
「ここまで来れば、もう大丈夫だよ」
亮真が言うと、美羽はまだ少し不安げに彼の袖をつまんだ。
「……影、ほんとに、もう来ない?」
亮真はしゃがみ込み、優しく微笑んだ。
「怖さが消えたとき、影は形を保てなくなるんだ。
さっきの風……あれを感じたでしょ? 美羽ちゃんの心が少し明るくなった証だよ」
美羽は小さく頷いた。
その頷きにはまだ弱さが残っていたが、同時に“光が戻り始めた者”だけが持つ微かな強さもあった。
「さあ、お母さんが心配してる。村まで一緒に行こう」
村の入り口まで美羽を送り届けると、母親が深々と頭を下げた。娘の腕を抱きしめるその姿を見て、亮真の胸に静かな温かさが広がった。
(……光に触れた者は、また別の光を生むんだ)
そう思った瞬間、亮真の心にふと塔の姿がよぎった。
白い塔、揺らぐ影、そして自分を導いた功徳の風。
──塔へ帰ろう。
そう思った。
村を離れ、再び山道へ足を向ける。
昼を過ぎた太陽は真上から降り注ぎ、長い影を生み出さない。森は風に満ち、葉がさわさわと響いていた。
(……あの影は、まだどこかに残っているのだろうか)
亮真の胸の奥で、ほんのわずかに不安が揺れた。
美羽には「影はもう来ない」と言ったものの、自分自身の内には、まだ確信しきれない部分がある。
──影が再び姿を現したら?
──自分はそのたびに恐れないでいられるだろうか?
そんな思いを抱えたまま、亮真は塔の前へ戻った。
塔は変わらず静かに佇んでいた。
白い表面は日差しを受けて輝き、その下に落ちる影は短く淡い。先日見たような濃い闇は、どこにもなかった。
亮真はそっと合掌した。
「……帰命頂礼、仏舎利尊」
その瞬間、風がふっと吹いた。
鳥が木々の上を横切り、空気の色が一瞬だけ変わったように感じた。
風が塔の周りを円を描くように巡る。
まるで塔が息をするかのように──風は亮真の周りにもやさしく降りてきた。
その風に包まれた瞬間、亮真の心が揺らぎ、胸の奥に眠っていたある感情が浮かび上がった。
(……僕は、まだ怖いんだ)
影を見たときの恐れ。
美羽を守ろうとしたときの不安。
それらはまだ、完全には消えていない。
しかし、次の瞬間、風はその不安を静かに撫でていった。
(影があるのは、光があるから。
恐れがあるのは、進もうとしているから)
その気づきが胸を満たした。
塔の前に立つ亮真の影が、ゆらりと揺れ、太陽の向きに合わせてゆっくり形を変えた。だがもう、黒い塊のような恐ろしさはなく、むしろ柔らかく、どこか優しい色をしていた。
そのとき、風の中に声のような響きを感じた。
──灯火を絶やすな。
──影は道を示す。
──光を見失うな。
言葉ではなく、風の震えが響かせる“言霊”のような感覚だった。
「……塔は、僕に教えてくれているのか」
亮真は胸に手を当てた。
美羽を助けたとき感じた温かさが、今はより明確な形で灯っている。
(この灯火は、塔から受けたものじゃない。
人を想ったとき、自分の中に自然に生まれた光なんだ)
風が一層強く吹いた。
木々が一斉にざわめき、塔の壁面に光が流れるように走った。
まるで塔が頷き、祝福しているようだった。
亮真はゆっくりと目を閉じ、深く合掌した。
「……ありがとうございます。
この光を、必ず人のために使います」
風はその言葉を運び、山の向こうへ消えていった。
塔へ帰る風は、亮真の心にも帰る場所を見つけていた。
〈円玄の試問〉
山の朝は、いつもより静かだった。
梢を揺らす風すら、どこか言葉を潜めているように思えた。
青年は、庵の前に立つ。
扉は半ば開いており、薄明の光が一筋だけ奥へとのびていた。
その光の先に、円玄は座していた。
背筋は岩のように揺るがず、しかし空気のように軽やかでもある。
老僧は目を閉じ、まるで青年の訪れをとうの昔から知っていたかのように静かに言った。
「よく来た。――さて、今日は試問の刻である」
その声は低く、しかし深い谷を渡る鐘の響きのように澄んでいた。
「試問……とは?」
「うむ。修行者は“みずからを照らす光”を持たねばならぬ。
その光が揺らいでおるか、あるいは消えかけておるか――今日はそれを見極める。」
青年は息を飲む。
成仏法の学びを進める中で、心の深層を覗くような問いに幾度も向き合ってきた。
しかし今日は、何かが違う。
庵の空気そのものが、ひとつの大きな問いを発しているように感じられた。
「まずは、答えではなく“状態”を見せてみよ」円玄は言った。
「状態……?」
「そうだ。お前が“今”どのように立ち、坐り、息をしておるのか。
それはお前がどれほど三福道を身につけたかの証となる。」
青年は姿勢を正し、ゆっくりと息を吸った。
しかし円玄はすぐさま言葉を投げる。
「――その息では、まだ自分を守ろうとしておる」
青年の胸がぎくりとした。
「守ろうとして……?」
「うむ。試されるのを恐れ、正しく見られたいという心が息に滲んでおる。
それでは“福”は開かぬ。
修行者の息は、他者に向かってひらくものだ。」
青年は小さくうなずき、もう一度、息を整えた。
すると円玄の声がゆるやかに変わった。
「よい。では、最初の問いだ。」
庵の奥にかかる古い鐘が、ひとつだけ、遠くで鳴った。
■ 第一の試問
「――お前が最も恐れているものは何か。
ただし、“言葉で答える”のではない。
心にその恐れを映し、私に“見せて”みよ。」
青年の胸が強く鳴った。
逃げられない。
内側に隠した闇を、今ここでさらすしかない。
青年は目を閉じた。
記憶の底から、ある光景が立ちのぼってくる。
――失敗。
人を裏切り、期待を壊し、自分を責めつづけるあの暗闇。
その影は形を変え、青年の背後に重く立ち現れた。
円玄はゆっくりとうなずく。
「見えたぞ。その影は逃げてはならぬ。
だが、その影と“対話”はできる。」
青年の胸の奥がかすかに崩れ、涙がにじむ。
「では、第二の試問に移ろう。」
■ 第二の試問
「――お前が“願い”と呼ぶものは、誰のためのものか。」
今度は青年はすぐに答えられなかった。
願いはいつも曖昧だ。
人のためと思っていたことが、実は自分のためであったこともある。
やがて青年は静かに答えた。
「……まだ、分かりません。」
「よい。分からぬというのは、誤魔化さぬという誠実の証じゃ。
三福道の“敬”は、ここから始まる。」
老僧は微笑んだ。
「では、最後の試問だ。」
■ 第三の試問
「――今日、お前がここに来た“理由”を、もう一度、思い出してみよ。
それは他の誰でもなく、“お前自身”が知っている。」
青年は目を開けた。
その刹那、庵の天井から差しこむ光が青年の頬を照らし、心の奥に小さな灯がともる。
――自分は、成仏法の道を歩むと決めたのだ。
誰かに褒められるためでも、過去を隠すためでもなく。
ただ、恐れを抱えたままでは誰も救えず、そして自分も救えないからだ。
青年は円玄を真っすぐ見つめる。
「……理由は一つです。
私は、私自身を変えたい。
このままでは、誰の光にもなれないから。」
円玄の目がわずかに柔らいだ。
「――それでよい。」
庵の外で風が吹き、木々の葉がそっと揺れた。
空気が一変する。まるで試問が終わったことを山そのものが告げているかのようだった。
「今日の試問はこれで終わりじゃ。
次に進むための門は、すでに開いておる。」
青年は深く頭を下げた。
胸の奥に、ひとつ新しい光が芽生えていた。
〈恐れが名を失う時〉
夜の山門は、風もなく静まりかえっていた。
亮真は、仏舎利塔へ向かう石段の下に立ち、深く息を吸った。胸の奥で、何か細い糸のような緊張が震えている。だがその震えは、これまでの“怯え”とは異質のものだった。
——恐れとは、まだ名を与えられぬ影。その影が見えるのなら、踏み出せばよい。
円玄に言われた言葉が、ふっと灯のように蘇る。
石段を登るたび、足裏から冷たい夜気が伝わってきた。塔の白い輪郭が、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
塔の前に立つと、身を包む空気が変わった。まるで、森の奥に隠れていた何百年もの祈りが、ひと息に自分へと流れ込んでくるようだった。
亮真は両膝をつき、掌を合わせる。
指先が微かに震えた。
——また、だ。
自分の弱さが、影のように寄り添って離れない。
しかし、その影に対して、亮真ははっきりとした違和を感じていた。
この震えは、拒絶ではない。むしろ、何か大きなものに触れる前の、自然な反応のように思えた。
「……恐れよ、お前はいま、名を持たない。ならば——」
亮真は目を閉じ、言葉を絞り出した。
「わたしの歩みを止める名ではなく、進むための名に変わってくれ」
その瞬間、塔の上をかすめる風が、柔らかく衣を揺らした。
塔の内側から、わずかに光が漏れた気がした。錯覚かもしれない。
だが、亮真は“見た”と思った。
光は言葉を持たず、ただ静かだった。
静かであるがゆえに、まっすぐ心へ届いた。
胸の深いところに、何かひとつ落ち着くものがあった。 恐れは消えたのではない——ただ、その輪郭が変わったのだ。
触れるのが怖かった影が、温度を持つ“何か”になった。
人は、名のないものを恐れる。
ならば、名を与えればいい。
亮真はそれを、強く理解した。
「……仏舎利尊。わたしは、逃げません」
掌を額に寄せたとき、全身の震えはすでに止まっていた。
塔の光が、わずかだが確かに強くなったように見えた。
亮真は立ち上がり、背筋を伸ばした。
歩き出す足は、以前よりもずっと自然で、迷いがなかった。
恐れは失われたのではなく——
“名を失い”、ただの風のように背を押す存在へと変わっていた。
塔の前を離れるとき、亮真は小さく呟いた。
「これでようやく……始まりに立てた気がする」
その言葉に応えるように、夜空のどこかで、風がひとつ鳴った。
続いて 第十一話〈円玄の影灯〉、または別の方向への展開も執筆可能です。
次はどう進めましょうか?




