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の身このまま、いますぐに仏になれるのです。等同流類の仏に―――。

なんとありがたいことではありませんか。

妙なる礼拝供養の徳

「霊処かずあるその中に

仏舎利尊の宝塔は

法身駄都如意宝珠尊

じんべんたえ大悲神変妙にして

けどうりしょ化導利生はてしなし」

神変という語がありますが、これは『大毘盧遮那成仏補效加持

(犬田版)」という経名に由来しております。人間では推し撮

ることができないようなすばらしい力を補といい、一般常識ではとても考えられないような、常と異なったことを変といいます。要するに、神変とは人間の常識では計り知ることのできない、すばらしい力をさします。そのすばらしい力とはなにか?

振になります。また家庭でも、夫と妻の心が感応しあわなければいけない。黙っていても相手がなにを考えているか、それがピーンと感応しあうような家庭だったならば、子供が暴力をふるったりしないてしょう。おたがいのまごころが触れ合うことによって、そういう感応が得られるわけです。

ですから、わたくしたちが仏さまを拝む時も、まごころを込めて拝む。そうすると自ずから感応して、仏さまの心がわが心となり、 にゅうががにゅう そくしんじょうぶっわが心が仏さまの心となる。密教でいう「入我我入」「即身成仏」 の境地に達します。そこまで進むのはなかなか難しいですが、それをめざして努力することが修行ですね。

そのように仏さまと自分の心が一体となると、仏さまの道と自分の道が交わって一つになる。これを道交といいます。仏さまと自分

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仏さまがわたくしたちを助けてくださるお力です。仏の救済力のすばらしいことを、神変と表現しているのです。仏さまがわたくしたちを助けてくださる力、これは人間の常識ではとても考えることができない。ただただ、神変である。この神変という語を、一般に使うことばにすると妙となります。妙法の妙ですね。人間のことばや文字ではとても表現できないことを妙と申しますが、それを「大日経」では神変と表現しております。

それから大悲とは、わたくしたちを苦しみから救ってくださることです。この大悲のお力、苦しみを取り除くお力の偉大なることは、 ただただ神変、妙であるというしかない。まさに神秘的な、人間の常識ではとても計り知ることができない。そういうすばらしいお力をもって、仏さまはわたくしたちを救ってくださるのです。

「化導利生はてしなし」の化導は解脱の徳、利生は宝生の徳のことです。解脱宝生の功徳は、果てしなく偉大なのだということです。

まごころを込めて礼拝する

心はいくよう 「礼拝供養の徳積めば

悪業一切断ち切りて

福徳果報かぎりなし」

「礼拝供養の徳積めば」というのは、一つのただし書きです。さき

ほどお話しした「大悲神変妙にして」という、仏さまのすばらしいお力を戴くには、礼拝供養の徳を積まなければいけない。仏舎利尊さまの功徳を戴くには、礼拝と供養の二つしかありません。礼拝してご供養する。この二つの徳を積まなければいけない、ということです。

れいしさはう礼とは礼すること、拝というのは拝むことです。簡単ですね。しかし、ただちょこんと、おじぎをして拝むだけではいけない。礼とは礼式作法にのっとって拝みなさい、という意味を含んでいます。

解説宝生法のみ次第に入る際に、本宝床尊ととられる

その礼式作法とは、仏舎利宝珠尊さまの前に立ち、

「オン サラバタタギャタ ハンナマンナノウ キャロミ」

と礼拝を三回する。そしてご宝塔の前に座って着座普礼を一回

の際に必ず

行なう。それから、護身法を切って、

の際に必ず

これによて保人のなので、

内容は

行なう。それから、護身法を切って、身体と魂を浄める。不削なるもの一切を浄めるのです。

あとは聖典にしたがって、作法どおり正しく拝めばよろしい。

礼拝で大事なことは、まごころを込めて拝むことです。礼式作法という型の中に信がなければいけません。まごころを込めて拝む。 ひとすじの信心の心をもって拝む。これがいちばん大切です。そこから、感応道交が生まれるのです。

自分のまごころが仏さまに通じると、仏さまはそれに応じてくださる。これを感応という。自分と仏さまが感応しあうようになったら、そこから一つの力が必ず出てきます。

これは職場でも同じでしょう。上司と部下の心が感応しなければよい仕事はできない。おたがい、ソッポを向いていたのでは業績不

第一章の日一

が平行線ではどうしょうもない。まごころによって触れ合いが始まり、そして一休となるのです。

大切なことは、仏さまの心とわが心とが一体になるように、まごころ込めて素直に拝む、礼式作法を行なう。これが礼拝の意味です。 たった二文字の中に、これだけの意味が含まれているわけです。

自分の持てるなにかを仏さまに捧げる

それでは、供養とはなにか?

やしな供養とは、供えて養いとするという意味です。仏さまにお供えして自分の徳の養いとする。とくに仏舎利宝珠尊解脱宝生行の場合は三種供養をさしますが、これはあとで詳しく説明いたします。

 

いつもお話ししているように、わたくしたちの持つ悪因縁は、自分自身の不徳と先祖の不徳から生じます。

先祖の不徳というのは、自分の親、祖父母を見るとよくわかるてしょう。徳の高い、すばらしい両親であるか、それともどうしようちない不徳の両親であるか。もし不徳の親であるならば、なぜそのような親の子として生まれたのか?

それは自分の不徳、自分の前世の不徳が原因なのです。たとえば自分がマイナス5の不徳を持っていたとしますと、必ず、マイナス 5の親を持つ。これが因縁因果の理です。いま、自分は先祖の不徳、 先祖の悪因縁を背負っている。これをタテの因縁という。それに対して前世の自分がなした悪業によって生じる因縁を、ヨコの因縁といいます。タテの因縁とヨコの因縁の交わったところが、現在の自

 

分です。

もしも自分が前世において善い行ないをして、徳をたくさん積んておいたならば、良い徳をたくさん持った家系に生まれ、恵まれた

環境に身を置くことになる。

つまり自分が苦しむのは、すべて自分の不徳が原因なのです。だからその不徳を消さなければならない。徳を積んで不徳を消さなければならない。その徳の養いとするために仏さまに捧げるわけです。

自分の持てるなにかを仏さまに捧げる。時間のある人は時間を、 お金のある人はお金を捧げればよいでしょう。自分にできるだけの、 自分に相応するなにかを仏さまに捧げなさい。自分はなに一つ捧げず(つまり、出さずに)、仏さまからご利益、功徳を引き出そうとするのはおかしい。

 

心から仏さまに帰依してそのお徳にあやかろうと思ったならば、 自分の持っているなにかを捧げるべきでしょう。また、自然にそういう気持ちになるはずです。それが供養なのです。まごころを込めて拝み、仏さまの心をわが心とし、わが心が仏さまに通じる。これが礼拝。自分の持てるなにかを仏さまに捧げる。これが供養。この二つがそろってこそ、「悪業一切断ち切りて 福徳果報かぎりなし」 という解説と宝生の徳が戴けるのです。

疫病苦厄の憂いなし

しょなん 「この塔安置のところには諸難のせまる恐れなく

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