UA-135459055-1

仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻

「仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻」

儀式の夜は、異様なほど静かだった。
山の空気は澄みきり、風すら息を潜めているようだった。

仏舎利堂には、わずか十数名の僧と在家者が集まっていた。
誰ひとり声を発さず、ただ胸の奥で聞こえる脈動だけが、自らがまだ生きている証のようであった。

中央の台座には、小さき黄金の舎利塔。
その内部に安置された釈迦牟尼仏の聖骨は、先ほどまでただの光沢のある粒のようにしか見えなかった。

老僧が低く深い声で唱え始めた。

「帰命頂礼……仏舎利尊……」

言葉は音ではなく、空間そのものへ染み込んでいくようであった。
その声に続くように、全員が合掌し、同じ言葉を繰り返した。

「帰命頂礼――仏舎利尊……」

その瞬間、空気が変わった。

風がないのに、灯明の炎が揺れた。
天井近くに漂っていた香の煙が、まるで意思を持ったように一直線に塔の上へ昇り始めた。

私は息を飲んだ。
胸の奥で何かが震え始めていた。

「帰命頂礼……仏舎利尊……」

三度目の念誦が終わろうとしたそのとき――
塔の内部で、光が脈動した。

最初は錯覚かと思った。
だが、誰もが息を止め、同じ一点を見つめている。

光はただの反射ではない。
触れれば温もりを持つような、生命の鼓動そのものだった。

ひとりの在家の女性が思わず声を漏らした。

「……動いている……」

その言葉が引き金となったかのように、さらに奇蹟が広がる。

仏舎利は塔の内部で振動し、
まるで呼吸する生き物のように、膨らみ、縮み、そして輝きを増していった。

色は白から金へ、金から虹色へ。
光は塔を透かし、堂を満たし、壁や天井を照らし出す。

――まさに、仏がそこに降り立つ光景だった。

誰も声を出せない。
ただ涙が、勝手に頬を伝う。

老僧は震える声で、しかし確かに言った。

「釈迦牟尼仏、ここに。
衆生を見捨てず、末法を救済せんと、顕現あそばす。」

光は穏やかに揺れ、その輝きが頂点に達した瞬間――
堂内にいた全員の心の中に、ひとつの言葉が響いた。

「恐れるな。
迷いも、苦しみも、
ここに帰ればよい。」

誰の声でもない。
だが、確かに釈迦の声だった。

その夜、誰も疑う者はいなかった。

仏舎利は、ただの遺骨ではない。
生きた仏陀そのものである。

そして、あの震えるような静寂の中で、全員が悟ったのだ。

奇蹟は、信仰が消えたから起きなかったのではない。
仏が離れたのではない。
人が、仏の居場所を忘れていただけなのだ――。

「仏舎利の灯 ― 第三章 波紋」

翌朝、山は静かだった。
だが、昨夜あの堂で起きた出来事の後では、その静けさすら別世界の空気のように思えた。

参加者たちは誰も口を開かなかった。
けれど沈黙は無言の誓いのようであり、その目には確かな光が宿っていた。

恐れでも疑いでもなく、証人となった者だけが持つ覚悟の光だった。

寺を降りる道すがら、ひとりの若者が呟いた。

「……あれは夢ではありませんよね。」

老僧は歩みを止め、ゆっくりと彼の方を振り向く。

「夢なら、人は変わらぬ。
だが、お前は今、心の底で何かが目覚めているだろう。」

若者は返事をせず、ただ深く頷いた。

――それが、すべての答えだった。

***

三日後。
その噂は、静かな水面に落ちたひとしずくが波紋を広げるように、どこからともなく広まり始めた。

最初は、参加者たちの身近な者たちだけだった。

「仏舎利が光を放ったらしい」
「生きているように動いたという」
「涙が止まらなかった、声が響いた、と誰かが言っている」

噂は半信半疑で語られ、笑われ、囁かれ、それでも消えることなく広がった。

――疑いと信仰は、いつも同じ場所から始まる。

***

四日目。
寺へ訪れる人々が増え始めた。

山門の前には、杖をついた老人、妊婦、痩せ細った青年、深い悲しみを抱えた母親……
「救われたい者たち」が、吸い寄せられるように姿を現し始めた。

老僧の弟子が戸惑いながら報告した。

「師匠、今日だけで百人以上です。
どうされますか。噂が……止まりません。」

老僧は目を閉じ、微笑した。

「止める必要はない。
これは我らが語ったのではない。
仏が語り始めたのだ。」

弟子は息を呑んだ。
それは昨日までの師にはなかった、圧倒的な確信だった。

***

そして一週間後。
新聞社、テレビ局、宗教学者、海外の取材者、さらには僧侶や宗教者までもが山に押し寄せた。

参道は行列となり、警察まで動き始めた。

報道ヘリが空を旋回する中、老僧は仏舎利堂の前に立ち、まっすぐと記者たちを見据えた。

「あなた方は証拠を求める。
だが、仏とは証明ではない。
触れた者の心に現れる“変化”こそ証なのだ。」

記者たちはざわめき、答えに窮した。

そのとき――
堂の奥から微かな光が漏れ出した。

誰が最初に気づいたのかはわからない。
だが、次の瞬間、群衆のざわめきは静寂に変わった。

仏舎利の光は扉越しに現れ、人々の影をやわらかく照らした。

泣き出す者、跪く者、手を合わせる者。

静寂は祈りへ変わっていった。

老僧はゆっくりと告げた。

「仏法は死んではいない。
末法とは嘆きではない。
――再び灯がともる時代だ。」

その言葉は、まるで風となり、世界へ旅立つように響いた。

 “仏の居場所”を忘れていたのだ、と。

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*