仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻 ― (改稿)」
その夜は、不思議なほど静まり返っていた。
風は止まり、梢の影すら動かない。
まるで山が呼吸を忘れ、世界がこの瞬間を待っているかのようだった。
仏舎利堂には、十数名の僧と在家者が集っていた。
誰ひとり声を発する者はいない。
ただ胸の奥に確かに響く鼓動だけが、自分がまだ凡夫として生きていることを知らせていた。
堂の中央には、小さき黄金の舎利塔。
内部に納められた釈迦牟尼仏の聖なる御骨は、つい先ほどまで微かな光沢を放つ粒にすぎなかった。
その前で、老僧がゆっくりと息を吸う。
そして、深く沈み込むような声で唱え始めた。
「帰命頂礼……仏舎利尊……」
声は空気を震わせたのではない。
むしろ、空気そのものが声となり、堂を満たしていくようだった。
続いて、参列者全員がその偈を唱える。
「帰命頂礼――仏舎利尊……」
――その瞬間、空気が変わった。
風は吹いていない。
しかし灯明の炎は、不意に微かに揺らぎ、
香炉から昇る煙はまっすぐ塔へ向かい、まるで導かれる魂のように吸い込まれていった。
胸の内側で、何かが震え始める。
それは恐怖ではなかった。
もっと古く、もっと深く、魂の底に眠っていた懐かしさのようなもの。
「帰命頂礼……仏舎利尊……」
三度目の偈が響き終わろうとしたその刹那――
塔の内部で、淡い光が脈動した。
最初は、誰かの錯覚かとさえ思えた。
だが全員が同時に息を止め、ひとつの輝きに心を縫い付けられた。
光は反射ではない。
それは温度を持ち、呼吸するように揺らぎ――
生きていた。
ひとりの在家者が震える声で呟いた。
「……動いています……」
その声を合図にしたかのように、奇蹟は加速度を持ちはじめた。
仏舎利は塔の内部で脈動し、
まるで涅槃を破って蘇る胎児のように、膨らみ、縮み、息づいた。
光は白から金へ、金から虹へと変化し、
堂を満たし、壁を照らし、天井に仏の相を浮かび上がらせた。
――その光景は、言葉の届かぬ領域だった。
声は出ない。
涙だけが、静かに、温かく頬を伝う。
老僧は震えながらも声を絞り、宣言した。
「釈迦牟尼仏――ここに。
衆生を捨てず、末法を救済せんと顕現あそばす……」
その言葉に答えるように、光はさらに柔らかく揺れ、
そして頂点に達した瞬間――
声なき声が、全員の心に響いた。
「恐れるな。
迷う心も、苦しむ心も、
すべて――ここに帰ればよい。」
それは誰の声でもない。
しかし疑いようもない。
仏陀そのものの声だった。
その夜、誰も否定する者はいなかった。
仏舎利は、ただの遺骨ではない。
生きる仏陀そのもの。
そして私たちは悟ったのだ。
奇蹟が消えたのではない。
仏が遠ざかったのでもない。
――ただ、人間が“仏の居場所”を忘れていたのだ、と。




