📘群盲の象 ――四宗教対話編
第一節 出会いの夜
砂漠の夜は、冷たくも透きとおっていた。
月は銀の盃のように天頂に懸かり、風が砂を撫でるたびに、遠くで祈りの声が微かにこだまする。
そのオアシスのほとりに、ひとつの古びたテントが立っていた。
光を映す水面のそばに、四つの影が集う。
一人は、胸に十字を刻む男――ガブリエル神父。
白い法衣の裾をたくし上げ、焚き火の熱に手をかざしている。
彼の瞳は温かく、だがその奥には、赦しの炎が燃えていた。
二人目は、深い緑の衣をまとうハーリド師。
彼は砂上に祈祷布を広げ、沈黙のうちにコーランの句を紡ぐ。
唇が静かに動くたび、月光がその額を照らした。
三人目は、黙して語らぬ慧玄(えげん)僧。
頭を剃り、黒衣の袖を結び、焚き火の炎をじっと見つめている。
その心は水面のように澄み、すべてを映していた。
そして四人目――
白装束の真砂(まさご)神主が、榊の枝を手にして立っていた。
彼の眼差しは柔らかく、夜の風の気配を聴いている。
遠い祖霊たちが、この場に集うのを感じているかのようだった。
四人は互いの名も知らず、旅の途上でこの地に辿り着いた。
だが、そこに一頭の象がいた。
黒曜石のような瞳をもつ巨大な生き物。
その体は夜の闇に溶け、ただ月光の線がその輪郭をなぞっている。
神父が最初に口を開いた。
「奇しき導きだ……砂の果てに象がいるとは。
これは、神の御心なのだろうか。」
ハーリド師は祈りを止めずに答えた。
「アッラーの御名において言う。
この象もまた、主の意志のもとに生まれたもの。
人は何も知らずして判断してはならぬ。」
慧玄僧が目を細めた。
「象を見る目も、我らの“心”がつくる幻なり。
形あるものはみな、縁起によって現れる。
されど、それを観る心が濁れば、象もまた異なって見えよう。」
真砂神主は、榊をそっと掲げ、風を感じながら言った。
「この風……象の尾が揺れているのかもしれません。
神々の息吹が、この場に通っている。」
四人は言葉を交わしながら、象に近づいた。
しかし、彼らの目は皆、砂塵に覆われて見えなかった
第一節 出会いの夜
砂漠の夜は、冷たくも透きとおっていた。
月は銀の盃のように天頂に懸かり、風が砂を撫でるたびに、遠くで祈りの声が微かにこだまする。
そのオアシスのほとりに、ひとつの古びたテントが立っていた。
光を映す水面のそばに、四つの影が集う。
一人は、胸に十字を刻む男――ガブリエル神父。
白い法衣の裾をたくし上げ、焚き火の熱に手をかざしている。
彼の瞳は温かく、だがその奥には、赦しの炎が燃えていた。
二人目は、深い緑の衣をまとうハーリド師。
彼は砂上に祈祷布を広げ、沈黙のうちにコーランの句を紡ぐ。
唇が静かに動くたび、月光がその額を照らした。
三人目は、黙して語らぬ慧玄(えげん)僧。
頭を剃り、黒衣の袖を結び、焚き火の炎をじっと見つめている。
その心は水面のように澄み、すべてを映していた。
そして四人目――
白装束の真砂(まさご)神主が、榊の枝を手にして立っていた。
彼の眼差しは柔らかく、夜の風の気配を聴いている。
遠い祖霊たちが、この場に集うのを感じているかのようだった。
四人は互いの名も知らず、旅の途上でこの地に辿り着いた。
だが、そこに一頭の象がいた。
黒曜石のような瞳をもつ巨大な生き物。
その体は夜の闇に溶け、ただ月光の線がその輪郭をなぞっている。
神父が最初に口を開いた。
「奇しき導きだ……砂の果てに象がいるとは。
これは、神の御心なのだろうか。」
ハーリド師は祈りを止めずに答えた。
「アッラーの御名において言う。
この象もまた、主の意志のもとに生まれたもの。
人は何も知らずして判断してはならぬ。」
慧玄僧が目を細めた。
「象を見る目も、我らの“心”がつくる幻なり。
形あるものはみな、縁起によって現れる。
されど、それを観る心が濁れば、象もまた異なって見えよう。」
真砂神主は、榊をそっと掲げ、風を感じながら言った。
「この風……象の尾が揺れているのかもしれません。
神々の息吹が、この場に通っている。」
四人は言葉を交わしながら、象に近づいた。
しかし、彼らの目は皆、砂塵に覆われて見えなかった。
それでも、それぞれの手が、ゆっくりと象に触れる。
神父の手は、象の耳に触れた。
柔らかく温かいその感触に、彼は言った。
「ああ……神の愛のようだ。
すべてを包み、人を赦す翼のように。」
ハーリド師は象の足に触れた。
「いや、これは柱のようだ。
世界を支える律法――アッラーの秩序に他ならぬ。」
慧玄僧は象の胴を撫で、静かに微笑んだ。
「大いなる壁のように見える。
これが“空”の広がりか……
触れることも、触れぬことも、同じことだ。」
真砂神主は象の尾を掴み、軽く揺らして言った。
「風が生まれます。
命の循環……すべての神々は、この風に宿るのです。」
焚き火が小さく爆ぜた。
夜の静寂の中で、四人の声だけが響く。
やがて風が止み、象は微動だにせず立っていた。
その姿は、まるで“真理そのもの”が沈黙しているようだった。
――この夜、
四人の盲なる聖職者は、
それぞれの宗教の心を通して、ひとつの象を見ていた。
第二節 対話の夜明け を続けて執筆いたします。
第一節の静寂を受けて、ここでは「それぞれの真理の主張」と「共鳴の芽生え」を描きます。
宗教的対話が緊張と理解の間をゆっくりと行き来する構成です。
第二節 対話の夜明け
焚き火の炎が静かに小さくなっていく。
砂漠の東の地平には、薄い藍が差しはじめていた。
四人の影が象のまわりに円を描くように座り、
夜明けを待ちながら、それぞれの沈黙を抱えていた。
最初に言葉を破ったのは、ガブリエル神父だった。
「われらが触れたのは、同じ象でありながら、まるで違うもののように思えた。
しかし、もし神が全体をお造りになったのであれば――
そのすべてが愛によって貫かれているのではないでしょうか。」
その声はやわらかくも、どこか確信に満ちていた。
ハーリド師は、深く頷いてから口を開いた。
「神父よ、あなたの言葉は美しい。だが、愛だけでは秩序は保てぬ。
世界には戒律があり、人には義務がある。
愛の名のもとに混乱が生まれた時、アッラーの法こそが人を導くのだ。」
神父は静かに微笑む。
「法なき愛は盲目かもしれません。
しかし、愛なき法もまた、冷たく人を縛るでしょう。」
二人の言葉が砂の上で交わるとき、慧玄僧が穏やかに目を閉じた。
「愛も、法も、“ある”とも“ない”とも言えぬ。
それらは縁によって起こり、心の中で映る影にすぎぬ。
執着がある限り、象は常に分断されたままだ。」
ハーリド師がやや眉をひそめた。
「師よ、あなたの言葉は深い。だが、あまりに人の力を信じすぎてはいないか。
神の前で、人はただの砂粒だ。真理を悟るなど、驕りではないのか。」
慧玄は微笑んだ。
「驕りを離れるためにこそ、我らは“空”を観る。
すべての存在を等しく見るとき、神も人も、ただ“法”としてひとつになる。」
その時、真砂神主が静かに榊を立て、
風に鳴る葉の音を聴きながら言った。
「皆さまの言葉を聞いておりますと、
まるで四つの流れが、一つの大河を探しているようです。
この風、この砂、この光――
どれも異なれど、皆、天(あめ)につながっております。
神々は、その多様さをもってひとつの調和を奏でるのです。」
四人の間に、柔らかな沈黙が広がった。
遠くで夜明けの鳥が鳴く。
ガブリエル神父が低く呟く。
「……神道の“和”とは、美しいものですね。
それは愛や法、あるいは空とも異なる、静かな受容の光を感じます。」
真砂神主は微笑み、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。
けれど、“和”もまた、形を持てば壊れる。
調和とは、争いを拒むことではなく、
争いの中に在っても、共に歩む力を忘れぬことなのです。」
慧玄が頷いた。
「まことに――それは“中道”の心に通ずる。」
ハーリド師は、胸に手を置き、静かに祈りを結ぶ。
「アッラーは偉大なり。
我らは異なる道を歩むが、もし心が一つの方向を向くなら、
神はそれを悦ばれるであろう。」
焚き火の最後の火が、ぱちりと弾けた。
四人の影が、朝の光の中で淡く重なり合う。
「我らが見た象とは――
それぞれの信の姿であり、同時に、ひとつの真理の影なのだ。」
慧玄の声が、やがて風に溶ける。
そして、東の空が黄金に染まり始めた。
第三節 光の昇る時
東の空が、ゆっくりと朱に染まっていった。
砂漠の冷気はやわらぎ、
遠くの砂丘の稜線に、太陽の輪郭が浮かび上がる。
象は、まだそこにいた。
夜の闇をまとっていたその巨体は、朝の光を浴び、
金の粉を散らすように輝き始めた。
その姿はもはや、ただの動物ではなかった。
まるで「世界の形」そのものが姿を変え、
四人の心の中で再びひとつになろうとしているようだった。
ガブリエル神父が立ち上がり、
胸の前で十字を切りながら小さく祈る。
「天の父よ、あなたの愛は、
我らの狭き目をも開かれます。
この光が、すべての魂を包みますように。」
ハーリド師もまた、
砂の上に額をつけ、低く唱えた。
「アッラー・アクバル(神は偉大なり)。
我らはただ、あなたの御心に従う者。
その御名のもとに、すべての争いが沈まんことを。」
慧玄僧は両の手を胸の前で合掌し、
朝日に向かってひと息を吐く。
「生ずるものは、滅す。
だが滅するものもまた、
この一瞬において、かけがえのない“法”なり。
光と闇、愛と苦、すべて空に帰す。」
真砂神主は、榊の枝を太陽に向けて掲げた。
「天(あめ)つ神々、地(つち)つ霊(みたま)、
今ここに和(なごみ)の息吹を与えたまえ。
八百万の祈り、ひとつの風とならん。」
四人の祈りが重なった。
言葉は違えど、響きはひとつ。
空を渡る風がそれを拾い、
砂丘の上を流れ、
遠くのオアシスの水面を震わせた。
その瞬間、象が静かに動いた。
巨体が朝の光を裂きながらゆっくりと歩み出す。
砂に足跡を刻み、
やがて、太陽の彼方へと消えていった。
誰もその後ろ姿を追おうとはしなかった。
ただ、四人は同じ方向に向かって立ち尽くしていた。
彼らの胸には、
ひとつの理解が静かに宿っていた。
「真理は、一つではない。
だが、一つの光から、無数の色が生まれるように――
それらは、もとをただせば同じ源に帰る。」
慧玄が呟いたその言葉に、
神父が微笑み、ハーリド師が祈り、
神主がうなずく。
朝の光は、四人の頬を照らし、
砂に散る金の粒が、まるで天からの祝福のように舞っていた。
――そのとき、風が言葉を運んだ。
「すべての道は、同じ大地に通ず。」
やがて、オアシスの水面が光を返す。
そこに映るのは、象の影でも、四人の姿でもない。
ただ、澄みきったひとつの光――
“真理”という名の、かぎりない空(くう)であった。




