ニューヨークより世界に向けて発信す
つ片時も生じないのだ。
というのもじじつ、戦争にしても内乱にしてもいろいろの争闘にしても、それらは、ほかならぬ肉体と、それのもつ欲望が生じせしめているのだからねえ!
なぜなら戦争はすべて財貨の獲得のためにおこるのだが、その財貨を手に入れよ、と強いるのは肉体であり、われわれはその肉体の気づかいにまったく奴隷のように終始している以上は、どのみちそうせざるを得ないのだからだ。こうして結局は、すべてそういったことのゆえに、(知を求めること)へと自分を向ける暇をわれわれはほとんどなくしてしまうわけな
のだ――」(『パイドン』66B・C)
すなわち、そのいうところによれば、哲学が根本においてもとめている智な
るものは、われわれがこの現世の生活条件によって束縛されているかぎり、これに到達することはできない。われわれが一切の束縛から解放され、われわれの魂が純粋に魂自身になることによってのみ、その根本の智、あるいは真実の智に到達することができるというのです。
そして、魂が一切の束縛から解き放たれて、それ自体になるというのは、肉体からの解放、つまり、死を意味します。
ですから、われわれの魂は、この死においてのみはじめて純粋に自分だけとなり、そのような純粋さにおいて、真の智というものに到達できるようになるといっているわけです。
われわれがここにみるものは、生の謳歌とならびおかれるような死への讃美などではないのです。哲学の希求するものが、その究極において死のかたちをとらねばならないとしたせっぱつまった絶叫なのです。
それはやがて死ぬであろう明日に備えての心掛けを説くのではなく、この現実の生に処しつつしかもできるかぎりわれわれの魂を、肉体との共有から解放し、それ自身のかぎりなき純粋さにとどめようとする憧憬なのです。
それは、死をこの生のなかに実現しようとする、つまり「死の練習」だったのです。
これを要するに、
純粋の智を得るためには肉体を滅ぼさなければならぬというのが、プラトンの思索のたどりついた究極なのです。
プラトンの哲学において、「死」を以てしか得られない「肉体からの解放」
「純粋に自分の魂だけとなり、そのような純粋さにおいてのみ、真の智に到達することができるようになる」という境地―それこそが、ブッダの説いたニルヴァーナだったのです。
いみじくも、ソクラテスとプラトンは、真の智をどこまでも追求したその果てに、ニルヴァーナの世界に気がついたということでしょう。
生きながらにして肉体の束縛を離れて、純粋な魂と智の世界に入る――。これが、ブッダの説いたニルヴァーナの境地だったのです。ソクラテスとプラトンは、その存在に気がついたのです。(とわたくしは思う)
ただ、惜しくもプラトンは、それは死ななくては得られないものとし、ブッダは、死にまさる六年間の苦行ののち、生きているまま、それを得たのです。
ナに入る) しかし、ソクラテスとプラトンは、死後、かならずニルヴァーナに入ったにちがいないとわたくしは確信しています。それを、「無余依涅槃」といいます。 肉体無くしてニルヴァーナに入る、という意味です。(死んでからニルヴァー
ブッダのように、肉体を持ったまま、(生きているまま) ニルヴァー




