普賢の名を継ぐ者

風が鳴いていた。
それは、ひとつの旅が終わることを告げる風だった。
慧真は、ふもとの村を見下ろす丘に、ひとつの庵を建てていた。
白木の柱に藁屋根をのせた、質素な庵。
その前には、小さな蓮池があり、春の陽を浴びて青葉が揺れている。
あれから幾年が過ぎたのだろう。
旅を終え、法を説くことも少なくなり、ただ静かに、祈る日々が続いていた。
だが、その静けさを破るように、ある日、ひとりの訪問者があった。
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「お師匠さま――」
その声に、慧真は振り向く。
そこに立っていたのは、かつて病から救った少女、沙良だった。
あのとき、命の灯がかすかに揺れていたあの小さな少女が、
いまや堂々とした衣をまとい、自らも教えを伝える僧侶になっていた。
「今日から、この庵の隣に、小さな道場を開こうと思います。
ここで、普賢さまの祈りと教えを、子どもたちに伝えていきたいのです」
慧真は、静かに笑った。
「そうか……命は、こうして渡っていくのだな」
沙良は、そっと慧真の膝に座った。
「私にとって、命が延びたあの日からずっと、
生きるということは、“誰かに灯すこと”でした。
だからこそ、今度は私が――」
慧真は頷いた。
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その夜、慧真は夢を見た。
白象が、雲の上を歩いていた。
その背には、かつての師、桂雲尼、少年烈――
命の途中で出会った多くの面影があった。
やがてその象は、彼のもとに近づき、こう語った。
「名とは、灯の名。
普賢とは、すべての命を照らす者の名。
その名は、お前ひとりのものではない。
歩みし者に、受け継がれる名なのだ」
慧真は、ゆっくりと目を覚ました。
庵の外では、朝日が蓮池に差し、
白い花が、そっとひとつ、咲いていた。
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数日後――
慧真は、沙良に僧衣の襟を正してもらいながら、静かに語った。
「わしの名は、今日で終わる。
これより先は、お前が“普賢の道”を継ぎなさい。
わしの延命は、お前のなかに生きているのだから」
沙良は涙ぐみながら深く礼をした。
「はい、慧真さま。
私の命がある限り、あの祈りを灯し続けます」
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結び
慧真の旅は終わった。
だがその灯は、沙良に、烈に、名もなき人々に――
無数の蓮の花のように、静かに広がっていった。
そのすべてを、白象に乗る菩薩は、やさしく見守っていた。
「命とは、渡る火であり、咲く蓮であり、歩みつづける道」
それが、普賢の名であった。




