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曼荼羅の、、人

 

唐の都、長安の街は賑わいに満ちていた。広い大通りには行き交う人々の声が絶えず、あらゆる国からの商人たちが商品を並べている。彼、空海もまた、ここにたどり着いた一人であった。

それは彼が31歳の時。日本から遣唐使として派遣された若き僧侶、空海は、唐の地で密教の深遠なる教えをめていた。幼少より仏教に傾倒し、その探求心は尽きることを知らなかったが、密教の本質に触れる機会はまだなかった。それゆえ、彼は長安での学びに全てを賭けていた。

ある日、空海の耳に、密教の巨匠、恵果(けいか)の名が届く。彼は唐の仏教界で知らぬ者はいない高名な師であり、その教えを受けることができる者は限られていた。だが、空海は迷わずその門を叩いた。

恵果は、門前に立つ空海を一瞥し、静かに彼を招き入れた。空海の深い眼差しと静かな決意は、何かを感じさせるものがあったのだろう。師弟の縁は、こうして始まった。

その後の3ヶ月間、空海は恵果のもとで昼夜を問わず修行に励んだ。密教の教えは、言葉や理論を超えた深淵なものであり、一度理解すればその力は無限大であると言われる。恵果はそのすべてを惜しみなく伝授し、空海もまた、それを全て吸収しようと努めた。

やがて、恵果は彼のもとに空海を呼び寄せた。師は静かに告げた。「お前は、真言密教の師である。これからはお前がこの教えを守り、広めていくのだ。」

空海は深く頭を下げ、師への感謝を胸に刻みながら日本への帰途についた。

806年、空海は日本に戻った。彼の心には恵果の教えが確固たる形で根付いていた。帰国後、彼は早速、密教の教えを広めるために活動を始めた。山々の霊地を巡り、やがて彼は高野山にたどり着いた。その地にこそ、彼の思い描く理想の場所があった。険しい山道を登り、霧の中に浮かぶ金剛峰寺を築いた空海は、ここで真言密教の教えを確立し、日本全土へとその光を広めていった。

彼の教えは瞬く間に人々の心を捉え、多くの弟子たちがその門下に集まった。空海の姿は、単なる僧侶を超えて、まるで神の使いのように崇められるようになった。

時は流れ、空海がこの世を去ってからも、彼の教えは人々の心に生き続けている。高野山の金剛峰寺は、今もなお彼の精神が宿る聖地として、多くの信者たちに敬愛されているのである

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