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ちがいるか。わが帰

ポイントが、生ける卵米の有無です。信仰・修行をするのは結構だが、生けといえれば意味がありません。そのお釈運さまのお言葉を、一人でも多くの人に伝えていかなければな

らない。これがわたくしたち阿含宗信徒の使命であり、かつ、功徳を種える行なのです。

正法とはお釈迦さまの説かれた教法

お釈迦さまは三根三福道)の第二として、

「正法に於て功徳を種う。此の善根尽す可からず」

とおっしゃっています。正しい法とは、生ける如来のみもとで行われる教法のことです。教えとしては縁起の法や四諦の法門などで、法としては上根の成仏法・七科三十七道品、それから下根の成仏法・三善根(三福道)や以前講義した優婆塞の八法・十六法(上巻・「一切事経」九一五六買などです。

お釈迦さまは便要塞の八法・十六法で、まず最初にどのように説かれていますか?

でなければならない、とおっしゃっているでしょう。優婆塞の八法とは、自分が正信を持

ち(個)、彼を守り(郡)、布施を行い(無)、正法を聞き(恥)、聞いた正法を保ち(持)、正法を観夢し(殿)、正法に近づき(次)、正法に向かう(向)行です。これが優婆塞の八法です。

優婆塞の八法の筆頭は信ですが、その信も正信でなければならない、と『雑阿含経・一切事経』には説かれています。お釈迦さまは、「正信を具足して他人を建立し」というように、わざわざ正信と断られていました。正法とは仏陀になられたお釈迦さまが実際に説かれた教法であり、 その正法を信じることが正信なのです。歴史上実在の仏であるお釈迦さまが、実際にお教えになられた教法、それが正法です。つまり「阿含経」に説かれている教法です。「阿含経」だけがお釈迦さまの教法を伝える唯一の経典なのですから、当然そうなります。大乗経典という、お釈迦さまの入滅後、四、五百年も経ってから創られた、ニセのお経に書かれている教法は、正法とはいえないのです。

お釈迦さまは、ご自身が亡くなられたあとに、ニセの経典が次々と創られることを予知なされて、正法と念を押されているのです。事実、お釈迦さまは、ご自分が無余涅槃に入られたのちに、ご自分の教法(正法)がすたれ、代わりに文芸人の説いたお経が人々の信仰を集めることになるであろう、と「阿含経」の中で予言されております。このことはすでに述べたとおりです (上巻・五〇一五二頁)。お釈迦さまは、ご自分が入滅されたあと、ニセの教法が横行することを予知されていたからこそ、正信・正法とおっしゃっているのです。

なのだ」 「今、真の如来である自分が説いている教法、これが正法であり、その正法を信じることが正信

というように、お客さまはおっしゃっているわけです。お釈辺さまは、

 

というように、お釈さまはおっしゃっているわけです。お問

「自分がいた数に基づいて、功徳を種えなさい」

と説かれているのです。それが「正法に於て功徳を種う」です。どれほどの功徳を種えても、

どこのだれが説いたのかも分からないような教法に基づいているならば、功徳は決して実りません。ニセの如来のもとで功徳を種えても、福が実らないのと同じことです。正法に基づいて修行しなければ、まったく意味がありません。正法において功徳を種えてこそ、成仏の福が得られる、

まさにそのとおりだと思います。

聖衆とは正法を歩む師と弟子たちの集い

三根三福道)の第三として、お釈迦さまは、 「聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」

とおっしゃっております。聖衆とは、ひとことでいえば、生ける如来のみもとで正法を修める人々です。正法を体得した師匠と、その師のもとで成仏をめざしてお互いに励まし合いながら正法を移行している弟子たちの集い、それが聖衆です。この集いを何体(サンガ)といいます。 要するに三根三福道)とは、・・憎の三でそれも正しい三宝のもとで行う、功徳を種

える修行なのです。如来が仏、正法が法、聖衆が信(信)です。

仏・法・神の三宝のもとで功徳を積えるというのは、どの宗旨・宗糸でもいっていることです。

 

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