夜更けの部屋で、青年はひとり机に向かっていた。ランプの灯りは弱々しく、ページに落ちる影がゆらめく。彼はふとペンを止めて、胸の奥に奇妙なざわめきを覚えた。
――おまえは、本当におまえ自身なのか。
誰の声ともつかぬ囁きが、心の底から立ち上がる。それは彼の声でありながら、彼の知らぬ声だった。
「馬鹿げている。自分はひとりだ。自分以外の自分なんて……」
そう打ち消そうとした瞬間、彼の手は勝手に動き、ノートに文字を走らせた。そこには、自分の意識とはまったく無関係な言葉が並んでいく。
《わたしは、おまえの中にいる他人だ》
青年は凍りついた。手を止めようとするが、まるで自分の身体が自分のものではないかのように、ペンは動き続ける。
人間とは、ひとつの統一とは信じたくなかった。だが、今まさにその「他人」が自分の指を動かしている。
彼は恐怖と同時に、妙な確信を覚えた。人はみな、自分の知らぬ自分を宿しているのだ。意識の奥底に沈む影のような心が、意志や決意をすり抜け、ふとした瞬間に姿を現す。
思い出す。かつて本で読んだフロイトやジャネの言葉――「無意識」「意識の下部形態」。それは学説でも空想でもなく、いま自分の身に起きている現実なのだ。
青年はノートを閉じ、震える息を吐いた。
闇の中で、誰かが自分を操っている。いや――その「誰か」は、紛れもなく自分自身なのだ。
哲学的独白調バージョン
人間とは、決して統一されたひとつの人格ではない。
わたしの中には、わたしでありながら、わたしではない者が潜んでいる。いや、潜むどころか、しばしばその者がわたしを動かし、語らせ、選ばせているのだ。
わたしが「自分の意志」で行動していると信じているとき、その背後で、まったく別の声が指揮をとっていることがある。わたしは一体、何者に導かれているのだろうか。
ふとしたときに思う。
怒りに駆られて口を開いたとき、それはほんとうにわたしの言葉だったのか。
愛や憎しみの衝動に押し流されるとき、そこにいるのは誰なのか。
――その瞬間、わたしは「わたしでないわたし」にすり替わってはいないか。
哲学者たちは「意識の主体」を語り、心理学者たちは「無意識の力」を説いた。けれど、学説を越えて、わたしは日常のなかでそれを知る。
理性の衣をまとった自分の下に、無数の声が渦巻いていることを。
そして、それらの声は、まるで「アカの他人」のようでありながら、どうしようもなく「わたし自身」なのである
わたしは一人ではない。
わたしの中に他者が住む。
その他者と、わたしは折り合いをつけ、あるいは闘い続けながら、今日も生きているのだ。
哲学的随筆風
人間は、ひとつの統一された人格で成り立っているわけではない。むしろ、わたしたちは幾人もの自分を抱え込んでいる。ときには、自分の中に自分ではない自分――まるで他人のような存在――がひそんでいることさえある。
多くの人は、その事実を意識せずに生きている。自分を動かしているのは、自分自身の意志だと信じて疑わない。しかし現実には、そう単純ではない。むしろ、自分を動かすものが「自分ではない自分」である場合の方が多いのではないだろうか。
無意識の作用。これを最初に本格的に論じたのはフロイトである。彼は、わたしたちの精神生活の背後に「意識されない心」が存在し、それが意識的な決意を超えて行動を方向づけていることを示した。フランスの心理学者ジャネもまた、人間の心を多層的な階層として捉え、表層の意識の下に「意識の下部形態」があると述べた。
こうした学説は、わたしたちが体験として感じることを裏づけている。たとえば、思いがけない言葉が口をついて出るとき、あるいは理性では抑えきれぬ衝動に突き動かされるとき、そこに現れているのは、意識している「わたし」ではなく、無意識にひそむ「別のわたし」である。
人は誰しも、「自分のほかに自分はいない」と思い込んでいる。しかし実際には、自分の奥深くに「もう一人の自分」を宿している。そしてその声は、ときに協力者として、ときに敵対者として、われわれを動かし続ける。
わたしはひとりであり、同時に複数である。人間の本質は、この分裂を抱えつつ生きるところにあるのかもしれない。
哲学的随筆風
人間は、ひとつの統一された人格で成り立っているわけではない。むしろ、わたしたちは幾人もの自分を抱え込んでいる。ときには、自分の中に自分ではない自分――まるで他人のような存在――がひそんでいることさえある。
多くの人は、その事実を意識せずに生きている。自分を動かしているのは、自分自身の意志だと信じて疑わない。しかし現実には、そう単純ではない。むしろ、自分を動かすものが「自分ではない自分」である場合の方が多いのではないだろうか。
無意識の作用。これを最初に本格的に論じたのはフロイトである。彼は、わたしたちの精神生活の背後に「意識されない心」が存在し、それが意識的な決意を超えて行動を方向づけていることを示した。フランスの心理学者ジャネもまた、人間の心を多層的な階層として捉え、表層の意識の下に「意識の下部形態」があると述べた。
こうした学説は、わたしたちが体験として感じることを裏づけている。たとえば、思いがけない言葉が口をついて出るとき、あるいは理性では抑えきれぬ衝動に突き動かされるとき、そこに現れているのは、意識している「わたし」ではなく、無意識にひそむ「別のわたし」である。
人は誰しも、「自分のほかに自分はいない」と思い込んでいる。しかし実際には、自分の奥深くに「もう一人の自分」を宿している。そしてその声は、ときに協力者として、ときに敵対者として、われわれを動かし続ける。
わたしはひとりであり、同時に複数である。人間の本質は、この分裂を抱えつつ生きるところにあるのかもしれない。
文学的随筆風(漱石・三木清ふう)
人間は決して、単一なる人格にて完結するものではない。われわれの胸中には、幾人もの「われ」が潜み、互いに相克し、あるいは和合しつつ日々を営んでいる。ひとつの身体にして、心は群像のごとし、といえば言い過ぎであろうか。
しばしば思う。われは自らの意志にて行動すると思い込んでいる。しかし、ふとした折、その意志を裏切る衝動に駆られる。口を衝いて出る言葉は、はたして「われ」のものか。怒りに燃え、あるいは愛に惑うその時、そこに立つのは果たして誰なのか。――その姿は、もはやわれに似て、しかして他人のごとし。
フロイトはこれを「無意識」と名づけ、ジャネは「意識の下部形態」と呼んだ。名はどうあれ、要は意識の光の及ばぬ深みより、別なる声が絶えずわれに呼びかけているのである。その声は理性をあざむき、決意を翻し、ときにわれを己ならぬ方角へと導く。
ゆえに人間は、己ひとりでありながら、また己にあらざる他者を抱く。かの他者は、敵にして友、異邦にして血族。われわれはその声に抗い、また従いながら、ひとつの生を紡いでゆくのである。
人間の本質とは何か。――それは、己の中の「己ならざる己」との終わりなき対話にほかならぬ。
詩的思想随筆
人間はひとつの顔で立っているように見える。けれど、その奥にはいくつもの影が寄り添い、折り重なっている。ひとりの中に幾人もの「わたし」がいるのだ。
あるとき、それは「夢の旅人」として現れる。眠りの深みに降りるとき、旅人は言葉を持たぬまま歩き出し、わたしの知らぬ景色を彷徨う。そして目覚めたとき、わたしの胸に不可解な余韻だけを残す。
またあるとき、それは「声なき同居者」としてわたしを見つめる。怒りに駆られて口を開いたとき、その声はほんとうにわたし自身のものだったのか。愛に震える指が差し伸べられるとき、それを導いたのは誰だったのか。同居者は沈黙しながら、しかし確かにわたしを操っている。
哲学はそれを「無意識」と呼び、心理学は「下部意識」と名づけた。けれど、名を変えても実相はひとつ。――わたしの中には、わたしであってわたしでない者が住んでいる。影のように寄り添い、ときに友となり、ときに敵となり、わたしの行いを左右する。
人間の生とは、己の中の「影」との果てなき対話にほかならぬ。光があるかぎり、影は消えぬ。われわれはその影を追い払いながら、しかもその影に導かれつつ、一歩一歩、人生という道を歩いてゆくのである。
「純粋詩」のかたちにしてみます。思想の骨格は残し純粋詩化バージョン
ひとは
ひとつの顔をして
いくつもの影を抱く
夢の旅人は
夜の奥で歩き
知らぬ景色を残す
声なき同居者は
怒りを語り
愛を震わせる
――だがそれは誰なのか
影は
わたしであり
わたしでは
光があれば
影は消え
影があれば
わたしは揺らぐ
わたしは
影と共に
ひとつの生を
紡いでゆく




