愛のために智恵のために愛を
仏教に求められるもの
わたくしは、日本の仏教、そして仏教徒に欠けているものが一つあると思う。
それはなにか?
「愛」である。
もっとも、それは、仏教および仏教徒だけではない。ひろく現代の人間すべてにいえることであろうと思うのだが、とくに宗教としての仏教そして仏教徒に、「愛」が欠けていると思われるのである。
そういうと、そんなことはない、仏教には「慈悲」があるではないか、とただちに反論されるであろう。いや、わたくし自身、仏教徒としてだれよりもさきにそう反論したいところである。 しかし、それでも残念ながら、そういわざるを得ないのである。
それでは、わたくしのいう「愛」とはどういうものであろうか。
わたくしは、ジェス教会におけるピタウ神父のことばに、目のさめるような鮮烈な感動をうけた。
「犠牲をともなわない愛はない」
わたくしのいう愛はこれである。
ビック神父はいった。
「ほんとうの愛は犠牲なしではあり得ません。犠牲をともなわない愛はないのです。私たちも全世界のために何か犠牲をはらわなければなりません。それが私たちの成長であり、進歩なのです」 このことばには二つの意味がある。つまり、愛の定義だ。
なんらかの犠牲をともなってこそ、ほんとうの愛といえること。
その愛によって自分が成長し進歩するものであること。
この二つである。
キリスト教じたいの説く「愛」が、どういうものであるか、わたくしはよく知らない。それはどうか神父のことばのものと、おなじかちがうか、それは知らない。しかしわたくしのいう愛は、 まさにビック神父がジェス教会で言った愛である。
なんらかの犠牲をともなってこそ、ほんとうの愛といえること。
その愛によって自分が成長し進歩するものであること。
この二つの定義を持つ愛、これがわたくしのいう「愛」である。
ここのところをよく知ってほしい。この愛こそが、日本の仏教、いや現代に
に必要なこころではなかろうか。
ここで、仏教の「慈悲」についてふりかえってみたい。




