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雑阿含経・応説経

 現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脫を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏尽解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法(四念処む)・四正勤法(四正断法)・四如意足法(四神足法)・五根

街・五力法・七覚支法・八正道を修行していないのです」

解説

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

漏尽解脱とは、漏(煩悩)がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したということです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

す。

〇六八

この四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七秒三下、七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

わたくしは法話でしばしば、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」 と、お話ししています。みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と考えている人がいるでしょう。しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。仏教の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対に成仏しないと説かれているわけです。

もよいでしょう。 日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、この七科三十七道品を修行した人は皆無といって

 

「彼の比丘はついに成仏することがで

と、おっしゃっておられます。「彼比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。

ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

ただし、わたくしは、曹洞械の祖である道で縦師(二〇〇―一二五三)と真言宗の開祖弘法大 (七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、

うぱうげんいろと考えております。と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、

「この、(七科三十七道品の別名 著者注)、すなわち伝習の駅が孔、皮肉なす。組一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

と成仏法を壊しておられます。また、弘法大師空海は『密二教」で、

功番なり。いわゆる三十七菩提分法なり」 出来なり。第二の法宝とは罪く恋、管置ののめ、

と記しておられます。ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけ

 

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているかもしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったならば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏させることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信

仰・修行に励むわけです。成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなければいけないと考えます。だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家といえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。しかし、ここ一番、これこそ大切なことなのだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないとわたくしは思うのです。その宗教家が璧であることを重々承知の上で、信者に真実ではないことを真実であるかのように説教をする。これは絶対に許されないことです。

続きを説明いたしましょう。

 

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