仏教的短編物語
『藤綴(ふじつづり)の船』
一 海辺の庵(いおり)
その庵は、海のそばにぽつりと建っていた。老僧ユシャは、朝の光に手を合わせ、いつものように波の音を聞いていた。
弟子のシュリは、近くの森から帰ってくると、そっと師のそばに座った。
「師よ。昨日の瞑想では、また怒りが湧きました。
あれほど静かに座っていたのに、心は昔の痛みへ戻ってしまったのです」
ユシャは目を閉じ、しばらく沈黙したのち、ゆっくりと語りだした。
二 大舶の譬(たとえ)
「シュリよ、あの海を見よ」
「はい」
「もし、あそこに大きな船が停まっていたとしよう。
船は藤の綱で浜に繋がれておる。強く編まれた藤は、一見すると切れそうにない。
だが、夏の六ヶ月が過ぎ、風が吹き荒れ、日差しが藤を焼く。
やがてその綱は、一本ずつ、静かに、断ち切られてゆくのだ」
「……その船はどうなるのですか?」
「沖へと流される。そして、束縛を離れ、自由になる」
三 成仏法の道
ユシャは一枚の葉を拾って、土の上に七つの印を描いた。
「これが成仏の道だ。四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道。
この七科三十七の道を、藤の綱に向かう風と思え。
お前の中の怒りも、悲しみも、欲も──やがては断ち切れる」
「……本当に、そんな日が来るのでしょうか?」
「来るとも。それは、刀で断つのではない。
ただ風のように、正しく、繰り返すのだ」
四 解脱の夜明け
その晩、シュリはひとり海辺に立った。
かつて父に打たれ、母に見捨てられた記憶が波のように胸に押し寄せた。
だが彼は、ただ呼吸を見つめた。怒りが去り、次の怒りがまた訪れても──
そのたび、彼は一つの道を歩んでいた。
「これは…風だ」と彼は呟いた。
夜が明ける頃、彼の胸には、ただ静かな光が宿っていた。
五 師の言葉
朝、ユシャは微笑みながら言った。
「お前の藤が一本、切れたな」
【あとがき】
この物語は、お釈迦さまが説かれた「大舶の譬喩」に基づいて構成されています。
私たちは皆、知らぬ間に煩悩という綱に繋がれた船のような存在です。
けれども、日々の実践──
正しく気づき(四念処)、善を育み(四正勤)、心を統一し(如意足)、
信・精進・定・慧を育て(五根・五力)、
覚りへの七支(覚支)を進み、八正道を歩めば、
その因縁の綱は、風に吹かれて自然と切れていきます。
それが、「因縁の鎖を断ち切る成仏法」です。




