光の塔──アラディンのランプは、仏舎利となった
第一章 アラディンの塔と出会う日
電車は、トンネルを抜けて山あいの小駅に滑り込んだ。
降りたのは、真之介ただ一人だった。
人の声も、車の音も消えた静けさの中で、彼は改札を出て深く息を吸い込んだ。ひんやりと澄んだ空気が、久しく忘れていた感覚を胸に運んでくる。
東京の喧騒に疲れ果て、勤め先に休職願を出したのは十日前のことだった。誰も責めなかった。むしろ、上司も同僚も、どこかホッとしたような顔で送り出してくれた。──ああ、自分はすでに“抜け殻”だったのかもしれない。
無計画な旅だった。たまたま本屋で手にしたガイド本に、この小さな山寺の名前が載っていた。「忘れ去られた仏塔のある、風の道」とだけ書かれていた。
惹かれたのは、“仏塔”という言葉だった。
駅から寺までは、歩いて四十分と書いてあった。途中、舗装の剥げた山道を登り、木々の影に隠れるように、それはあった。
その寺は、あまりにも質素だった。観光案内に載るような由緒もなく、看板もなく、ただひっそりと木の香りをまとって建っていた。
境内の片隅に、小さな塔があった。石で組まれ、苔むしてはいたが、不思議と崩れてはいない。どこかで見たような、けれど思い出せないような、懐かしさを含んだ形だった。
その前に、一人の老人が腰を下ろしていた。白い法衣に身を包み、膝の上に数珠を置いたまま、目を閉じている。
真之介は、声をかけることをためらった。しかし、老人は先に口を開いた。
「……来たな」
「え?」
「ようやく、一人目が来た」
その目は、深く澄んでいた。まるで、何百年も前から、誰かを待っていたかのようだった。
「ここは、ただの塔ではないよ」
老人は、そっと塔に手を置いた。
「これはな、アラディンのランプだ」
真之介は、戸惑いながらも苦笑した。「冗談ですよね?」
「冗談ではない。願いを叶える……いや、“魂の願い”に目覚めさせる塔だ。おまえは、なぜここに来た?」
その問いに、真之介は答えられなかった。理由はない。ただ、なぜか、ここに来るべきだと感じた。
「おまえのような者を、私はずっと待っていた。仏舎利を受け継ぐ者を」
「仏舎利……?」
老人は静かに頷いた。
「これから、おまえは旅をすることになる。三つの塔を巡り、三つの珠を集める旅だ。だがそれは、願いを叶える旅ではない。“願いの意味”を変える旅だ」
そう言って、老人は懐から一枚の古い巻物を取り出した。そこには、サンスクリットの文字が朱墨で記されていた。
「唱えよ。“おん、しんたまに、だと、うん”」
そのときだった。風が吹き、塔の上部から、かすかに光がこぼれた。
真之介は、ただ立ち尽くしていた。理解は追いつかない。それでも、胸の奥に何かが触れた。燃え尽きたはずの心の残火に、風が吹いた。
「行け。おまえの魂が目覚めるまで」
そしてその瞬間、真之介は知った。
これは──“本当の自分”を探す旅の始まりなのだと。
第二章 智慧の道を歩め(スリランカ編)
成田からコロンボへ、十時間あまりの空路。真之介の心にはまだ、現実味のない予感のようなものが漂っていた。
飛行機の窓から見えたインド洋の蒼は、どこまでも深く、彼の過去を飲み込んでくれるような静けさを持っていた。
仏舎利を巡る旅――。
それは、山寺の老僧・玄道が言った、ただの比喩ではなかった。
「智慧を受け取れ。最初の珠は、スリランカにある」
そう言って手渡された巻物には、サンスクリットでこう記されていた。
「南方の光の地に、智慧の門ひらく。
清き塔にて、欲望の雲晴れしとき、
第一の珠、まことの種となるべし」
空港でピックアップしたタクシーの運転手に見せると、彼はすぐに理解したようだった。
「ミヒンタレーへ行くのですね。仏教がこの島に初めて伝わった場所です」
運転手の名はチャミンダ。小柄な男で、目が優しい。英語と少しの日本語を話す。
「あなた、仏教徒ですか?」
「そうかもしれない。いや……これから、なりたいのかもしれない」
真之介の言葉に、チャミンダは微笑んだ。
道中、車は緑深い森を抜け、古都アヌラーダプラを越え、丘陵地帯へと入った。ミヒンタレーは、静かな岩山に築かれた聖地だった。
石段を登りきった先に、真っ白なストゥーパ(仏塔)が静かに聳えていた。
風が吹き抜ける。
真之介は、塔の前に立ち尽くした。言葉を失っていた。
白亜の塔は、空とつながっているようだった。
そのときだった。
背後から、老僧のような男の声が聞こえた。
「欲を捨てるのではない。欲を照らしなさい」
振り返ると、ひとりの僧がいた。茶褐色の衣を身にまとい、裸足のまま、光を背にして立っていた。
「あなたは……?」
「わたしはただの案内人だ。この地で“智慧”を預かる者」
僧は、真之介をストゥーパの裏手へと案内した。そこには、丸くくり抜かれた岩の瞑想室があり、内部は静寂そのものだった。
灯りもない。音もない。だがそこに坐ると、不思議なほど心が鎮まっていった。
僧が言った。
「ここで一夜、欲と向き合いなさい。明け方、珠は姿を見せる」
夜は長かった。
だが、真之介の心の中にある“願い”は、次第に形を変えていった。
──仕事で成功したい。誰かに認められたい。自分の価値を証明したい。
そんな欲望の声が、ひとつずつ剥がれていく。
そして浮かび上がったのは──
**「ただ、生きて、誰かの光になりたい」**という、小さな祈りだった。
夜明け。
瞑想室の中央に、一粒の光る珠が置かれていた。誰が置いたのかは、わからない。
真之介は、そっとそれを手に取った。
指の中で、かすかに温かく脈打つ珠。それはまるで、自分自身の内なる命が、形を変えて現れたかのようだった。
僧はすでにいなかった。
外に出ると、朝日が塔を照らしていた。
その光の中で、真之介はひとり、巻物の言葉を思い出した。
「智慧の門ひらかれしとき、
真なる珠、はじめて生まれる」
第一の珠を得た彼の旅は、まだ始まったばかりだった。




