五力編
『魂の灯火 ~四つの道を歩む者たち~』
第三部:五力編
序章「揺るがぬ力の在処」
夜明け前の都市――まだ陽が昇りきらぬ灰色の空の下、静寂を裂くように一人の青年が走っていた。
その名は漣 真輝(さざなみ まさき)。かつて深い迷いに沈んでいたが、「念」を礎に再生の道を歩みはじめた一人だ。だが、目覚めた意識を日々の荒波の中で保つことは容易ではない。
ビルの谷間をすり抜け、人気のない公園にたどり着いた真輝は、ベンチに座り込むと、自問するように目を閉じた。
「この道を歩む力は、本当に私の中にあるのか……?」
そこにふと現れたのは、和服姿の小柄な老人だった。名を**安慧(あんね)**という。真輝がかつて出会った導師、蓮真の師であり、老いてなお鋭いまなざしの奥に静かな慈悲を宿している。
安慧は、真輝の問いに答えることなく、そっと問い返した。
「その問いを抱えて、なお歩む者にこそ、五つの力は宿る。そなたは、それを確かめに来たのだろう?」
真輝は黙ってうなずいた。
こうして、五つの力――信・精進・念・定・慧――を深く体得する旅が始まる。
第二章「精進 ― 越えゆくもの」
朝の光が、静かにカーテンの隙間から差し込んでいた。
漣 真輝は、目覚ましよりも早く目を覚まし、枕元の時計をぼんやりと見つめた。
午前5時45分。
起き上がるにはまだ少し早いが、横になっていても昨日のことが脳裏をよぎるばかりだった。
――利用者の一人、山崎さんが転倒した。
ほんの一瞬、真輝の気が逸れた隙だった。声をかけようとしたときには、彼女の体が床へと傾いていた。
「あなた、見てなかったの?」と、同僚から鋭く言われた声が胸に残っている。
何度も頭の中で繰り返された場面。
どこで止められた? どうして声をかけなかった? そもそも、俺は……。
「また、失敗した……」
その言葉が、真輝の心の底に染みついていた。
職場での朝礼はいつもどおりに始まったが、真輝の耳にはほとんど入ってこなかった。
目の前にいる利用者一人ひとりの顔を見るたびに、あの日の失敗が蘇る。
「精進、か……」
真輝は、昨日読んだ安慧の書き記した言葉を思い出していた。
《精進とは、過ちを悔やみ続けることではなく、過ちを抱えたまま進むことだ》
それは、柚季と安慧に出会った夜に贈られた言葉でもあった。
その日の帰り道。
職場を出た真輝の足は、なぜか自然と柚季の家へと向かっていた。
柚季の母親・遥子は、驚いたように出迎えたが、真輝を見るとすぐに笑って言った。
「また夢を見たらしいのよ。お坊さんが、“次は火をくぐれ”って言ったんだって」
柚季は廊下でぺたぺたと足音を立てながら現れた。
「“火をくぐる”って、なに? 燃えない?」
「それは……燃えるかもしれないな。でも、焦げた分だけ、強くなるかも」
そう答えた真輝の声には、どこか本気の響きがあった。
「お兄ちゃん、きっとまた立ち上がれるよ」
柚季が何気なく言ったその言葉が、真輝の胸の奥に、ゆっくりと沈んでいった。
翌朝。
真輝は、前夜に何度も反芻した言葉と共に、利用者の前に立っていた。
「……山崎さん、おはようございます。今日は、どうですか?」
山崎は、無言だった。表情にはまだ不安の影があった。
だが、真輝は静かに微笑んだ。逃げずに、そこにいることを選んだ。
――過ちを抱えたまま、それでも向き合い続ける。
――それが、精進。
「今日は手を、しっかりお支えしますね」
真輝の掌が、山崎の手を包んだとき、彼女の顔にふと、微かな笑みが戻った。
その夜、真輝は一人でノートにこう記した。
《火は怖い。失敗も、怖い。でも、燃えることを恐れて何もせずにいたら――、心は凍えてしまう》
《だから、今日も一歩だけ、火の中へ足を踏み出してみた》
第三章「念 ― 今ここを歩む」
カップに注がれた温かいお茶から、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
漣 真輝は、職場の休憩室でその湯気を見つめていた。
時間にしてわずか5分の小休憩。それでも、彼にとっては大切な「間(ま)」だった。
「心が、今ここにあるか?」
安慧から教えられた問い。それを胸に刻んでから、真輝は一日に何度も立ち止まるようにしていた。
仕事は、介護という名の連続した“対応”である。
認知症の利用者の急な言動。転倒の危険。食事の介助、排泄の見守り。
職員間の連携もまた、注意が必要だ。焦りや苛立ちが、すぐに現場に影を落とす。
「“今”にいないと、心がすぐに引き裂かれる」
それを痛いほど感じたのは、ある日の午後だった。
その日、真輝は思考を巡らせすぎていた。
「あの時、山崎さんが転倒したのは――」
「昨日のあの職員の指示、ズレてたかもしれない」
「明日の研修、間に合うように記録をまとめなきゃ」
意識が“過去”と“未来”にばかり向かっていたその瞬間――
小柄な女性利用者が、立ち上がろうとしたのを見逃
支えようとした時には、彼女はすでに体を傾けかけていた。
幸い大事には至らなかったが、真輝はその夜、深く自分を責めた。
翌朝、真輝はふたたび安慧庵を訪れた。
「念とは何ですか……?」
そう問うと、安慧は何も言わず、一枚の紙と筆を差し出した。
「ここに、“今、ここ”と書いてみよ」
真輝は筆を持ち、「今、ここ」と書き記した。
「では、それを見つめながら、今の自分の呼吸を感じてみよ」
言われるままに呼吸に意識を向けると、不思議なほど胸が静まり、心が身体に戻ってくるのを感じた。
「“念”とは、“今・ここに・在る”という智慧だ。
人は多くの時間を、“いま”を通り過ぎて彷徨っておる。だが、道は“いま”の足元にしかない」
その言葉が、真輝の心の中心に刻まれた。
その日から、真輝は仕事の合間にそっと深呼吸するようになった。
利用者の目を見るとき、手を添えるとき、「いまここにいます」と心で唱える。
――目の前にいる人に、心を届けるために。
――過去にも未来にも逃げないで、いまを生きるために。
ある日、柚季がふらりと職場の玄関前に現れた。母親の遥子が近くで買い物している間だという。
「お兄ちゃん、いる?」
「……今、ちょっとだけね」
玄関前のベンチに二人で並んで座った。
沈黙のあと、柚季がふとつぶやいた。
「“今ここ”って、難しいね。すぐ、どっか行っちゃう」
「うん。でも、気づいたら、また戻ってくればいいんだよ」
「……帰ってくる場所があるって、いいね」
真輝は笑った。
「うん、“今ここ”は、帰ってこれる場所なんだ」
その夜、真輝のノートにはこう綴られていた。
《念とは、心の定位置を知ること。
流されても、迷っても、ここに戻ればいい。
第三章「念 ― 今ここを歩む」
カップに注がれた温かいお茶から、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
漣 真輝は、職場の休憩室でその湯気を見つめていた。
時間にしてわずか5分の小休憩。それでも、彼にとっては大切な「間(ま)」だった。
「心が、今ここにあるか?」
安慧から教えられた問い。それを胸に刻んでから、真輝は一日に何度も立ち止まるようにしていた。
仕事は、介護という名の連続した“対応”である。
認知症の利用者の急な言動。転倒の危険。食事の介助、排泄の見守り。
職員間の連携もまた、注意が必要だ。焦りや苛立ちが、すぐに現場に影を落とす。
「“今”にいないと、心がすぐに引き裂かれる」
それを痛いほど感じたのは、ある日の午後だった。
その日、真輝は思考を巡らせすぎていた。
「あの時、山崎さんが転倒したのは――」
「昨日のあの職員の指示、ズレてたかもしれない」
「明日の研修、間に合うように記録をまとめなきゃ」
意識が“過去”と“未来”にばかり向かっていたその瞬間――
小柄な女性利用者が、立ち上がろうとしたのを見逃
支えようとした時には、彼女はすでに体を傾けかけていた。
幸い大事には至らなかったが、真輝はその夜、深く自分を責めた。
翌朝、真輝はふたたび安慧庵を訪れた。
「念とは何ですか……?」
そう問うと、安慧は何も言わず、一枚の紙と筆を差し出した。
「ここに、“今、ここ”と書いてみよ」
真輝は筆を持ち、「今、ここ」と書き記した。
「では、それを見つめながら、今の自分の呼吸を感じてみよ」
言われるままに呼吸に意識を向けると、不思議なほど胸が静まり、心が身体に戻ってくるのを感じた。
「“念”とは、“今・ここに・在る”という智慧だ。
人は多くの時間を、“いま”を通り過ぎて彷徨っておる。だが、道は“いま”の足元にしかない」
その言葉が、真輝の心の中心に刻まれた。
その日から、真輝は仕事の合間にそっと深呼吸するようになった。
利用者の目を見るとき、手を添えるとき、「いまここにいます」と心で唱える。
――目の前にいる人に、心を届けるために。
――過去にも未来にも逃げないで、いまを生きるために。
ある日、柚季がふらりと職場の玄関前に現れた。母親の遥子が近くで買い物している間だという。
「お兄ちゃん、いる?」
「……今、ちょっとだけね」
玄関前のベンチに二人で並んで座った。
沈黙のあと、柚季がふとつぶやいた。
「“今ここ”って、難しいね。すぐ、どっか行っちゃう」
「うん。でも、気づいたら、また戻ってくればいいんだよ」
「……帰ってくる場所があるって、いいね」
真輝は笑った。
「うん、“今ここ”は、帰ってこれる場所なんだ」
その夜、真輝のノートにはこう綴られていた。
《念とは、心の定位置を知ること。
流されても、迷っても、ここに戻ればいい。
“今ここ”に心を置く。それが、歩く力になる》
“今ここ”に心を置く。それが、歩く力になる》
第四章「定 ― 揺るぎなき静けさ」
――波立つ水面に、月は映らない。
その言葉を、真輝は繰り返し思い出していた。
静寂を知らなければ、物事の本当の姿は見えない。
安慧がそう語ったのは、ある月夜だった。
季節は秋の入り口。夜風がひんやりと頬を撫でる。
ある日の勤務後、真輝は久しぶりに安慧庵を訪れていた。
「お前の心は、今、波立っておるか?」
安慧の問いに、真輝は答えられなかった。
仕事にも少しずつ慣れ、焦りや自責からは離れつつある。
けれど、その分だけ、ぼんやりとした“空虚”が心に滲んできていた。
「やっても、終わらない気がするんです。
がんばっても、報われるかどうかもわからない。
それでも、ただ繰り返して……」
すると安慧は、笑って言った。
「よくぞ気づいたな。
お前の心にあった“恐れ”の雲が薄れ、今は“倦怠”という風が吹いておる」
「……どうすれば、止められるんでしょうか。この風を」
「止める必要はない。ただ、その風の中に“坐る”ことじゃ」
その日、真輝は初めて坐禅を体験した。
足を組み、背筋を伸ばし、目を半眼にして呼吸を数える。
最初は、呼吸を数えるたびに雑念が押し寄せた。
過去の場面、明日の仕事、柚季の言葉、自分の不安。
けれど、それを打ち消そうとせず、ただ“気づいて、戻る”を繰り返すうちに、心が次第に鎮まっていった。
風はまだ吹いている。けれど、その風に巻き上げられない“核”のようなものが、自分の中にあると感じた。
「……これが、“定”なんですか?」
「そう。“定”とは、何も考えない状態ではなく、何があってもそこに在るという“静けさ”じゃ」
それからの日々、真輝は朝の10分だけ、自宅で静かに座る時間を作るようになった。
雑念は相変わらず湧いたが、それを追い払おうとしないことで、逆に心の芯が見えてくる気がした。
ある日、職場で同僚が感情的に怒鳴る場面に出くわした。
かつての真輝なら、心が強く揺さぶられたはずだった。
だがそのとき、真輝は深く息を吐き、ただ“そこに在る”自分を感じていた。
――ああ、今、ここに、揺るがずにいる。
その静けさは、言葉にはならなかったが、周囲にも伝わっていくように思えた。
その夜。真輝はふと、柚季の描いた一枚の絵を思い出した。
それは、穏やかな湖の水面に、月が映る絵だった。
「これ、心だって。お兄ちゃんの」
そう言って彼女が笑った顔を思い出しながら、真輝はノートにこう記した。
《心を落ち着けることで、世界の本当の姿が映る。
揺れないことではなく、揺れても戻れる“静けさ”を持つこと。
“定”とは、戻る場所を知る智慧だ》
第五章「慧 ― 闇を照らすもの」
――闇を恐れる者は、まだ灯火を手にしていない。
だが、闇を見つめる者は、光を探している。
漣 真輝は、静かな覚悟を抱きながら、ある訪問先へ向かっていた。
それは、しばらく顔を見せなくなった柚季の母、遥子の家だった。
数日前、施設の玄関で柚季が泣いていた。
いつも明るく、どこか達観していた少女が、その日だけは小さな肩を震わせていた。
「……お母さん、最近、ずっと寝てばかりなの」
真輝は胸の奥が締めつけられるようだった。
彼女の家庭に複雑な事情があることは、言葉の端々から察していた。
だが、真輝自身もまた「誰かの苦しみに踏み込む」ことに臆病だった。
――自分に何ができる?
――下手に手を出して、余計に傷つけてしまうかもしれない。
その問いが、かつての“失敗への恐れ”を呼び覚ました。
だが、心はもう、逃げなかった。
「怖さに気づけるのは、智慧のはじまりだ」
安慧の言葉を思い出しながら、真輝は行動を選んだ。
それは、勇気ではなかった。ただ、「照らしたい」と願う心が、彼を動かした。
遥子の家は、古びた団地の一角にあった。
ピンポンと鳴らしてもしばらく反応がなかったが、ようやく扉が開いた。
現れた遥子は、かつての姿からは想像もつかないほど憔悴していた。
化粧もせず、視線は定まらず、声も弱い。
「……あんた、誰だったっけ」
「漣です。柚季ちゃんのことで、少しだけお話を――」
そう言いかけたとき、遥子の目に、かすかに警戒の色が走った。
しかし、その中に、「助けて」という微かな火も見えた。
しばらく沈黙が続いたのち、遥子はぽつりと漏らした。
「……わたし、もう、どうしていいかわからないの」
真輝はその場で、何も語らず、ただ座って向き合った。
相手の沈黙を埋めることなく、ただ“在る”という静けさを携えて。
やがて遥子は、ぽつりぽつりと語りはじめた。
仕事を失ったこと。自分を責め続けていたこと。柚季に手をあげてしまったこと。
「母親でいる資格なんてない」と、涙ながらにこぼした。
その言葉を、真輝は静かに受け止めた。
「……僕も、何度もそう思いました。
誰かにとって、自分は“害”なんじゃないかって。
けど、だからこそ、“照らす心”を持ちたかったんです。
過ちの中にも、灯りを見つけられることを、信じたかったんです」
遥子は、ハッとしたように真輝を見た。
その目に、初めて“他人の言葉”ではないものが映った。
その夜。真輝は安慧庵に戻り、師に報告をした。
「私は、誰かの闇に、そっと光を灯せたでしょうか」
安慧は笑って、こう答えた。
「灯火とは、“正しさ”ではなく、“共に居る心”じゃ。
人の苦しみに照らされて、なおも歩もうとする心。
それが“慧”という名の、光じゃよ」
後日、遥子は少しずつ生活を取り戻しはじめた。
柚季の笑顔も、以前より柔らかくなった。
真輝は、自分の心に起こった変化を、手帳に記した。
《慧とは、知識ではない。
闇を否定せず、光を探す心だ。
照らすとは、“正す”ことではなく、“寄り添う”こと。
そのとき初めて、真の力が芽生える》
光と闇は、対立ではない。
光があるから、闇が見える。
闇があるから、光を求める。
そのことを知ったとき、真輝は本当の意味で、**「五力」**の最後にたどり着いていた。




