第三章 心念住 ― 心のかたちを映す鏡
月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。
「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。
「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」
アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――
ひとつの記憶が浮かび上がった。
それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。
そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。
(怒り……)
彼は、その心を見つめた。
怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。
アーナンダはさらに心を沈めた。
すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。
(これも、また心)
欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。
それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。
(では、“私”とは何なのか?)
アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。
今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。
すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。
心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。
それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。
もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。
なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。




