導師の声は低く、山の空気にとけるようだった。
「水晶龍神瞑想法——。これは、八科四十一道品の中の最奥部にして、大極秘の行。四神足、すなわち欲・精進・心・観の四つの神力を養い、仏陀の思念に直接つながる回路をひらくもの」
アマネは跪き、水晶を前に座した。導師が唱える真言にあわせ、彼もまた低く声を発した。曼荼羅を目に焼き付け、水晶の奥にいる龍神の気配に心を澄ます。
それは観想であると同時に、召喚であった。
「仏陀は、ただ過去の聖者ではない。いまも思念の海に在り、覚醒を求める者のチャクラを通じて、智慧を注ぐ。王者がその玉座を継がせるように」
アマネの内側に、熱と光が満ちていくのを感じた。額の奥、脳の中枢に何かが注がれていく。それは彼自身の思考ではなく、まるで“彼を通じて語られるなにか”のようだった。
やがて導師は言った。
「この行を修する者は、火界定としての護摩、そして水想観としての滝行を修すべし。龍神は火と水の合一において顕現するからだ。水晶を通して観る世界、その真なる光に触れたとき、おまえは知るだろう。人は知能ではなく、“神足”によってこそ仏に近づくのだと」
アマネの瞳には、すでに曼荼羅が映っていなかった。彼は、自らの内奥に広がる宇宙そのものを、見つめていた。
龍神の目覚めと二つの試練
深夜、霧のような思念がアマネの脳内を満たしていた。水晶の龍神が、彼の内奥へと沈み込み、心の一点と結ばれていく。そのとき、彼は言語ではない光の響きを感じ取った。
――思念は、血ではなく、空間に流れる。
それは“声”ではなかった。思考の芯に、唐突に差し込む“命令”だった。
次の瞬間、アマネの身体が軽く震え、目の裏で白光が爆ぜた。眉間に収束していた念の奔流が、背骨に沿って降下し、臍下、さらに足の裏へと落ちていった。そして、そこから再び上昇する。背骨に沿って昇るそれは、炎でも水でもなく、龍そのものであった。
「……これが、四神足か……」
呟いたアマネの声は、自分のものではないようだった。彼の中にいた“彼”は、もはやただの青年ではなかった。
導師が低く語った。
「龍神と接した者にのみ、次の扉が開かれる。火界定――大日如来の業火に自らを焼かれぬ者に、真の観想は得られぬ。そしてもうひとつ、水想観――滝の一滴に宇宙を観じ、水の音に仏の声を聴く」
翌朝、アマネは山を降り、護摩の道場へと向かった。そこでは、炎の中に仏の姿を見いだす修行が待っていた。薪が積まれ、護摩壇が組まれ、火が放たれるその刹那、アマネは視た。炎の中に踊る無数の顔――怒れる忿怒尊、微笑む菩薩、そして、あの水晶龍神の眼。
灼熱の炎にじっと向かい合うその日々は、彼の肉体を削り、精神を磨き上げた。だが、彼は逃げなかった。なぜなら、すでに知っていたからだ。仏陀の智慧とは、苦の中にこそ宿るということを。
火の修行を終えた日、導師が静かに言った。
「つぎは、水に向かう。水想観は、火と対をなす最後の鍵。滝の底にて、一千の音を聴け。そこに、真なる曼荼羅がある」
アマネは再び旅支度を整え、北の滝へと向かう。道中、彼の背に刻まれた曼荼羅の光紋が、夜ごと淡く光を放ち始めていた。
滝音に宿る曼荼羅 ― 水想観と四神足の成就
水の音は、はじめ雑音にすぎなかった。轟く滝の前に座し、アマネはただ目を閉じた。全身を打つ冷水。肌を刺す寒気。だが彼は一歩も動かない。
その沈黙の中で、ふいに――“音”が分かれはじめた。
一音、二音、三音……
それはただの水音ではなかった。滝の一滴ごとに、まるで違う「意味」が込められている。無数の水の声が語りかけてくるのだ。怒り、嘆き、歓喜、そして――慈悲。
「……これが、水の曼荼羅……」
アマネは意識の深奥で、“水の仏陀”に出会った。
それは姿をもたぬ存在であった。ただ、無限にやさしい響きだけが、彼の心の核に沁みこんでいった。
そしてその瞬間、彼の中の四つの光点が一斉に輝いた。
欲神足――清らかな欲望をもって目標に向かう力。
精進神足――ひとつのことに没入する絶え間なき努力。
心神足――深く澄んだ心を自在に操る統一の力。
観神足――物事の真実を見通す智慧の目。
四神足が完全に揃った刹那、アマネの身体が震えた。
目を開いたとき、滝はもう音を発していなかった。いや――世界全体が、静けさの中で語っていた。音なき音。光なき光。
導師が言った。
「……四神足、成就せり。これより汝は“観自在”の門に至る。そこにはもはや敵はない。ただ、己の“過去世”が、汝に最後の問いを投げかけるだろう」
アマネは黙ってうなずいた。
次なる扉はすでに、彼の中で開かれはじめていた――。




