阿含宗総本殿
いえないのです。 わざ正信と断られていました。正法とは仏陀になられたお釈迦さまが実際に説かれた教法であり、 その正法を信じることが正信なのです。歴史上実在の仏であるお釈迦さまが、実際にお教えになられた教法、それが正法です。つまり「阿含経」に説かれている教法です。「阿含経」だけがお釈迦さまの教法を伝える唯一の経典なのですから、当然そうなります。大乗経典という、お釈迦さまの入滅後、四、五百年も経ってから創られた、ニセのお経に書かれている教法は、正法とは
なのだ」 「今、真の回来である自分が説いている教法、これが正法であり、その正法を信じることが正信
ち(創、皮を守り(金)、布施を行い(室)、正法を聞き(地)、聞いた正法を保ち(春)、正法を観断し(歌)、正法に近づき(密だ)、正法に向かう(序)行です。これが優婆塞の八法です。
優婆塞の八法の筆頭は信ですが、その信も正奮でなければならない、と『雑阿含経・一切事昼」には説かれています。お釈迦さまは、「正信を具足して他人を建立し」というように、わざ
お釈迦さまは、ご自身が亡くなられたあとに、ニセの経典が次々と創られることを予知なされて、正改と念を押されているのです。事実、お釈迦さまは、ご自分が無知で髪にぴられたのちに、ご自分の教法(正法)がすたれ、代わりに文芸人の説いたお経が人々の信仰を集めることになるであろう、と「阿含経」の中で予言されております。このことはすでに述べたとおりです (帯・五〇一五二度)、お釈迦さまは、ご自分が入滅されたあと、ニセの教法が横行することを予知されていたからこそ、正信・正法とおっしゃっているのです。
というように、さまはおっしゃっているわけです。お釈認さまは、
かないのです。功を種う」です。どれほどの功徳を種人ても。
きたのかからないような法に基づいているならば、功徳は決して実りませ人。ニャの例米のもとで所を種えても、福が実らないのと同じことです。正法に基づいて修行なな、もたなかありません。正法において功徳を種えてこそ、成仏の福が得られる、 まさにそのとおりだと思います。
聖衆とは正法を歩む師と弟子たちの集い
三(三)の第三として、お釈迦さまは、 「聖来に於て功をう。此の善根尽す可からず」
とおっしゃっております。聖衆とは、ひとことでいえば、生ける如来のみもとで正法を修める人々です。正法を体得した師匠と、その師のもとで成仏をめざしてお互いに励まし合いながら正法を続行している弟子たもの集い、それが聖衆です。この集いを徹館(サンガ)といいます。
要するに三根三道)とは、・・憎の三習それも正しい三宝のもとで行う、功徳を種
える修行なのです。如来が仏、正法が法、聖衆が僧(側)です。
私・法・僧の三宝のもとで功徳を種えるというのは、どの宗旨・宗派でもいっていることです。
、「得」がみられ、「正法」が行じられていてこそ、その教団はありっしゃっているのです。
しいてなければ、修行を行う意味がありません。三善根(三福道)で特なろは、「リ」のもとであるということです。生ける如来がいらっしゃらないでは、旅行になります。お釈迦さまは、正しい三宝において功徳を種えよ。 かれているのです。それがです。三根(三福道)によって修行者は無限のを得て、界に入ることができます。ということは、逆にいえば、三善根(三福道) たわれ、界に入るだけの宿は得られないということになります。涅槃界に入るための福によって得られるのです。
善根と優婆塞の八法・十六法
仏教では、功能を雇える行のことを梵行といいます。「阿含経」に「梵行已に立ち、所作已に作し(発行はすべてやり遂げた。なすべきことはなし終えた)」という言葉が頻繁に出てまいりますが、 その発行とは、具体的にはどういうものでしょうか? 梵行にはいろいろな表現。




