弟子たちが旅立ち、
ブッダはひとり、鹿野苑の大樹のもとに座していた。
世界は静かだった。
だが、その沈黙の奥で、何かが蠢いていた。
それは、かつて菩提樹の下で滅したはずの存在。
欲望と恐怖、無知と慢心の化身――マーラ。
彼はまだ、完全には滅びていなかった。
深い闇のなかから、マーラの声が響いた。
「シャーキャ族の子よ。
なぜ、こんなことを続ける?
お前が救おうとする人間たちは、
結局、また苦しみの輪に堕ちるだけだ。」
ブッダは目を閉じたまま答えた。
「たとえそうであっても、
たった一人でも、闇から目覚める者があれば、それでよい。」
マーラは嗤った。
空気が震え、鹿野苑の木々がざわめいた。
「お前の弟子たちは脆い。
世俗の欲に絡め取られる。
名声に溺れ、真理を汚すだろう。
そして、お前自身も……」
マーラの声は、不気味に囁いた。
「――孤独になる。」
一瞬、空が翳った。
風が止み、あたりは死んだように静まり返った。
ブッダは静かに立ち上がった。
彼の眼差しは、はるか彼方を見つめていた。
「孤独であろうとも構わぬ。」
「この身はすでに、すべての存在と一つである。」
その声は、確かな大地の響きのようだった。
マーラの姿が、闇の中にうごめいた。
嫉妬と怒りと絶望が渦巻く、黒い嵐となってブッダを飲み込もうとする。
だが――
ブッダは、一歩、地を踏みしめた。
その一歩が、大地を貫いた。
マーラの幻影が、裂けるように消えていった。
「マーラよ。」
ブッダの声が、静かに夜を満たした。
「汝の力は、もはやわたしを縛らない。
わたしはすでに、すべての欲望を超えた。
わたしは、ただ道を歩むのみだ。」
闇はしだいに霧散し、
新たな朝の光が、静かに大地を照らしはじめた。
マーラは、遠い彼方へと消え去った。
だがその残り香は、まだこの世界にわずかに漂っていた。
これからも、弟子たちの心に、
新たな誘惑と試練をもたらすために――。
ブッダは静かに瞑想に戻った。
どんな闇が訪れようとも、
この心は、もはや揺らぐことはない。
そして、また一つ、世界に新しい一日が始まった。




