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大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行

それはひと口にいって、大脳辺縁系・新皮質脳を殺す修行である。

インスピレーションたように、霊性の場であり、霊感の座なのである、ここが開発されることにより、ほんとうのインスピレーションが発生するのである。ただし、間脳を開発するためには、しばらくの間、 大脳辺縁系と新皮質脳を閉ざさなければならぬのである。間脳が開発されたとき、新皮質脳はあ

大脳辺縁系と新皮質脳を殺さなければ、間脳は作動せず、第三の目はひらかないのである。

ただし、誤解してはいけない。大脳辺縁系・新皮質脳を殺すということは、究極において、大

脳辺縁系、殊に新皮質脳を生かすということなのである。新皮質脳は「創造の座」であるといわ

れる。しかし、ほんとうの創造の座は間脳にあるのである。間脳はこれまでくりかえし説いてき

たらしくよみがえる。あたらしくよみがえった新皮質脳こそ、霊性を基盤とした超人的なインス

ピレーションと創造力を持つ頭脳となるのである。

ではそれはどんな修行か?

 

霊性完成の方法と体系

シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、わたくしは、「成仏法」とよんでい

る。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒトを「ブッダ」とよぶ。だからわたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。

それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから成る成仏のための方法と体系である。これを、阿含経では「七科三十七道品」あるいは「三十七菩提分法」とよぶのである。この二つの名称は、わたくしが勝手につけたのではない。古来からの仏教用語である。

わたくしが、阿含経以外のお経――法華経、アミグ経をはじめすべてのお経を、皆せものの経

負であるといささかはげしい表現で批判するのは、阿含経以外のお経には、どの経典にも、この成仏法がないからである。シャカがじっさい説かれたのは阿含経だけであるという歴史的な事実のほかに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うのである。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめることはできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろうが、本流ではない。修説というべきである。この

 

ことに関しては、わたくしの他の著書を読んでいただきたい。

七科三十七道品とはつぎのようなものである。

四念処法

————

身念処法

受念処法

心念処法

法念処法

四正断法

————

断断法

律儀断法

随護断法

修断法

四神足法

———

欲神足法

勤神足法

心神足法

観神足法

五根

——

信根法

精進根法

念根法

定根法

慧根法

五力

— —信力法

精進力法

念力法

定力法

慧力法

七党支法

—————択法

党支法

精進覚支法

喜覚支法

軽安党支法

捨覚支法

定覚支法

念覚

支法

以上である。

1、联想

2、実践

八正道法——正兒法正思維法 語法 正業法 正命法 正精進法

正念法

正定法

この七科目、三十七種のカリキュラムは、

3、tapas(線行)

に分類できる。

四念処法・五根法は、瞑想である。

四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想である。

四神足法は、特殊な tapas である。

神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然の神通力を得るための四種

修行法である。前に述べたわたくしの tapas はこれに属するものである。

この七つの科目のうち、tapasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修行するのである。どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、聖師が決定する。修行者それぞれ、

霊性の洗礼

みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるのである。

この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよう。

まず、まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れてもらうことである。それができたら、この修行は八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということである。

グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈を教わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊的能力を持つ聖師のたすけなくしては、 は、ぜったいといっていいほど、できないのである。

すようたとえば、インド近代の聖者ラーマナ・マハリシが、入門者にたいして、「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時としては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は

感じたともいわれる。

れないものである。 こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたいするあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。霊性の洗礼である。その人の素質にもよるけれども、一 、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひらかれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚されるのである。霊性開顕への第一歩で、これが非常に大切なのである。わたくしなども、弟子にたいし、わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ問題は、ほんとうに霊性開顕したグルは非常に稀れだということである。にせもののグルや、未熟なグルにかかわり合うと、とりかえしのつかぬことになる。まず、まちがいなく霊性を開顕したブルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れてもらうことだ。グルはなかなか弟子を受け入

わなければならない。 グルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことである。心から尊び敬

いる尊い存在なのである。 グルは弟子にとってブァグそのものなのである。グルは弟子にとって、過去に出現したブッダたちの変化身であり、未来のブッダたちが生まれでる母胎であり、いまここにブッダを体現して

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。

感じたともいわれる。

れないものである。 こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたいするあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。霊性の洗礼である。その人の素質にもよるけれども、一 、霊的な洗礼を受けた者は、霊的感覚がひらかれ、霊的世界への憧憬が芽ばえる。いままでとちがう高い次元の存在が、感覚されるのである。霊性開顕への第一歩で、これが非常に大切なのである。わたくしなども、弟子にたいし、わたくし独自の受け入れの方法をおこなうが、ただ問題は、ほんとうに霊性開顕したグルは非常に稀れだということである。にせもののグルや、未熟なグルにかかわり合うと、とりかえしのつかぬことになる。まず、まちがいなく霊性を開顕したブルを見つけること、つぎにそのグルに受け入れてもらうことだ。グルはなかなか弟子を受け入

わなければならない。 グルに受け入れてもらったら、弟子は、そのグルに心からしたがうことである。心から尊び敬

いる尊い存在なのである。 グルは弟子にとってブァグそのものなのである。グルは弟子にとって、過去に出現したブッダたちの変化身であり、未来のブッダたちが生まれでる母胎であり、いまここにブッダを体現して

さいわいに、受け入れてもらった弟子の心がまえについて、のべておこう。

る。 よい あやよりさきにのべた大脳辺縁系脳・新皮質脳を殺す修行とは、この二つの脳が生み出す(あるいはこの二つの脳がいだいている)迷妄と妄想とそこから生ずる煩悩を抹殺する修行である。ひと口でいうと、こころのまよいとけがれを一掃する修行である。その修行が須陀洹の階梯でおこなわれ

聖者への四つの階梯

1 きよめられた聖者・須陀洹脳ホラーキーのバランスをとりもどす

グルは、特殊な瞑想と実践とをもって、修行者のまよいとけがれを取り去る。仏教でいう「 倒世界」(理解のしかたがさかさまであること。実相の世界とかけはなれた虚仮の世界を実相の世界と思いあやまり執着すること)は、大脳辺縁系脳・新皮質脳がおかすまちがいである。それは「脳ホラーキー」のアンバランスが生み出す迷妄なのである。 てん

さきにのべたように、人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺してしまい、霊的世界の存在を認識する間脳を閉鎖してしまった。現象世界と霊的世界

が共存している実相世界をただしく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系脳)を一時間鎖して、霊的世界を認識できる間筋を動かす訓練をしなければならないのである。

いままでの宗教(仏教をふくめて)はすべて誤っていたのである。まちがいをおかしている心を、まちがいをおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮質脳を使って新皮質脳を変えさせようとしていたのである。一時は理解し、納得するかにみえるが、すぐに元にもどってしまう。 なつとく

「なんじ悔いあらためよ」といい、「揺れ」という。すべて心が対象である。

こころを変えるのではなく、脳を変えるのだ。まちがった脳を閉ざして、ただしい脳のはたらきをうながす。

それによって、「脳ホラーキー」はバランスをとりもどすのである。

そうすれば、「悔いあらためよ」も「悟れ」も必要ないのだ。間脳がひらき、霊的能力がはたらき出せば、そんなことはわかりきったあたりまえのことになってしまうのであり、聖書もお経もまったく不要になってしまう。なぜならば、聖書や経典の説く世界がそのままただちに自分の世界になってしまうのだから、いまさら読んだり理解しようとする必要など無くなってしまう。

大経典あたりが一生けんめいに説いていることなど、幼稚しごくなものになってしまうのであ

第三章開発一第三の目をひらく224

しし、実践したのだ。 七科三十七道品の成りとは、そういう方法なのである。わたくしはそれを発見

つぎに、「きよめられた型者」は、いまのべた内的なものだけではなく、外的にもきよめられなければならないのである。

それはどういうことかというと、自分の持つ「霊的なけがれ」もとりのぞかなければならないということでああ。

煮的合けがれとは、自分にかかわりのある不成仏霊・霊のホーケのことである。これをことごとくどりのどかなければならない。

自分にかかわりのある不成仏霊・霊障のホトケを持っていると、それらが持つ罪まな性格や想赤い影響からのがれることができないのである。さらにおそろしいのは、それらの不幸な存在がたどった運命の、「運命の反面」をするおそれがつよいのである。「運命の反覆」とはカルマの反援にほかならない。これが最もおそろしいのである。これは修行者にかぎらず、ふつうの人の生活においても、悲惨な人生をおくった霊障のホトケの人生を、そのまま反覆するケースを非常にあく入るのである。

世界的な心理学者で、フロイト、ユングのあとをうけてあらわれたあたらしい心理学、「運命心理分析学,家族的深層心」(Schicksalsanalyse)の創始者リポット・ソンデイ博士は、「家

霊光の発生

族的無意識」により、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が子孫の恋愛、友情、職業、疾肩、および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と説いた。これが 「運命の反覆」である。わたくしは、この「運命の反覆」が、霊的現象をともなって特に顕著にあらわれるのをつきとめている。

つまり、ソンデイ博士のいう「家族的無意識」とは、霊的にいうと、不成仏霊・霊障のホトケということになるとわたくしは確信するのである。くわしいことは、抽著『チャンネルをまわせ』『守護霊を持て』(以上、平河出版社)を読んでいただきたい。

この不成仏霊と霊障のホトケの排除は、修行者自身では不可能なので、このとき、霊力あるグルの助けが必要なのである。この霊的な「きよめ」がないと、修行者は一歩も進めない。この霊的な「きよめ」によって、聖者、須陀洹は誕生する。

聖者須陀洹は、また、「預流」の聖者、「逆流」の聖者ともよばれる。

「預流」とは、あたらしく聖者の流れに入った(預)という意味であり、「逆流」とは、生死・ 因縁の流れに逆う聖者という意味で、つまり、凡夫であるかぎり生死・因縁の流れのままに生きてゆくよりほかなく、その流れに逆うことはできない。須陀洹は、その流れに逆う、つまり、生

死・因縁の法則から超越する聖者である、という意味である。

ところで、わたくしは、須陀洹が「預流」とよばれ、「預流」とはあたらしく聖者の流れに入

った者、という意味であると知ったものの、どうして須陀洹になると聖者とよばれるのか、その理由がわからなかった。まあ、そういうものなのだろうくらいにうけとっていたのである。ところが、霊眠を持つようになって、すぐにその理由がわかったのである。

オーラそれは、須陀洹の境界に入ると、特殊な霊光が生じるのである。あるいは、その特殊なオーラが生じたから、須陀洹になったということなのであろう。

ご承知の通り、人間のからだをとりまく特殊エネルギーの雲、つまり、『オーラ”の概念は、 何十世紀もむかしにさかのぼる。聖人をえがいた古い絵は、キリスト教徒が光輪を考え出すずっと以前から、聖人たちが光りかがやくものの中に立っているのを示している。東洋の仏像は二十世紀もむかしから、光輪・光背というかたちで表現している。神秘的な性質を持つこのもやは、 ロンドンの聖トーマス病院のウォルター・キルナーによって最初に研究された。かれは、一九一一年に、色ガラスのスクリーンを通して見ることによって、ほとんどの人のからだのまわりに約六インチのかがやいた縁を見ることができた。かれは、このオーラはそれを身につけている人の心の安らぎに応じて、形や色を変えると主張した。かれは、それを医学的診断の補助として用いて、著名になった。

つづいて、ケンブリッジの生物学者、オスカー・バグナルは、オーラを物理学によってつかもうとした。かれは、コールクール染料であるジシアニンまたはビナシアノールの溶液をとおしてしばらく眺めることで目を増幅させると、オーラはずっと容易に見えるようになると主張 、さらに、これをもっと容易にするために、トリエタノールアミンに溶かした染料をみたすことのできる中空のレンズのメガネを設計した。

さらに、ソ連の電気技師のセミヨン・キルリアンは、かれの妻と二十五年かかって、二つの電極間に、毎秒二〇万回も火花放電して振動する高周波電場をつくり出す特殊な機械装置をつくった。一九六四年、この装置は完成され、ソ連政府の援助のもとに、この装置を使った研究計画が開始され、多くの成果をあげはじめた。『生物学や超心理学の多くの分野で大きな変革を起こしそうである。電気的なオーラは、地位を確立したのだ』と、ライアル・ワトソンはその著書『スーパー・ネイチュア』(樹書房)で書いている。

オーラは霊気であって、電気ではないとわたくしは思うのだが、電気を用いた装置でとらえることは可能であるかも知れない。聖者は、特殊なオーラをからだ全体、とくに頭上に放射している。須陀涙のオーラは、青い、すきとおったきよらかな光のもやである。やや力の弱い感じがするが、一見、きよらかさに打たれる感じがする。わたくしが須陀誕を「きよめられた聖者」 ぶのは、そこからきているのである。

ひと徳とは力である。ほんとうの力は、徳から生じたものである。ほんとうの力とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである、徳から生じたのではない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろばし、他人を傷つけ、社会を毒する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、権力とよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。 けんりよく

2 高められた聖者・斯陀含

高められたとはなにが高められたのか?

徳と力が高められたのである。聖者としての徳と力がそなわることである。

凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。不徳の者は力がないから、なにをやっても中逾半ばになり、また、まわり合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。

ばんすよきよめられて須陀洹となった聖者は、つづいて、徳を高める斯陀含の修行に入るのである。 こある。グルの指示にしたがって、仮想と実践(梵行)の修行をする。阿含経にしばしば『……………我が生ずでに尽き、梵行すでに立ち、所作すでに作し、自ら後有(後の生)を受けざるを知る』とある梵行

 

と所作は、この旅行のことをさすのである。

新陀合のオーラは、須陀涯よりやや光が強くなり、すこし黄色みを帯びる。

3 次元を飛躍した聖者・阿那含

霊性開顕の体験をし、霊界と交流する力を持つようになった聖者である。

オーラは生き生きとしたオレンジ色である。ジェット複の吐き出す炎を想い起こさせる色とパ

ワーを持っている。

4 次元を超越した聖者・アルハット

ブッダのことである。ブッダでないわたくしには、ブッダのことについてあれこれ書く資格は

ない。霊界の最上界に位置する仏界の体現者であるとだけ言っておく。

ブッダのオーラは、左様、つぎのようなものである。

開発――第三の目をひらく

230

 

 

 

 

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