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還る者 ― 運命反転の夜 ―』

『還る者 ― 運命反転の夜 ―』

夜は、異様なほど静かだった。
山の庵。
風は止み、木々は息を潜めている。
炉の火も消え、
ただ闇だけが、そこにあった。
青年は座していた。
呼吸は細く、ほとんど消えかけている。
だが――その内側では、何かが激しくうごめいていた。
それは、怒りだった。
昼間の出来事が、何度もよみがえる。
理不尽な言葉。
否定された自分。
踏みにじられた誇り。
「……違う……」
青年は歯を食いしばる。

抑えようとするたびに、怒りは形を変えて膨らむ。
正しさとして。
正義として。
あるいは――悲しみとして。
そのとき、不意に声がした。
闇の中からではない。
もっと近く――
自分の内側から。
「それは、お前か?」
青年の意識が、わずかに揺らぐ。
怒りを見つめる。
燃えている。
だが――どこか不自然だ。

「観よ」
老師の声が、記憶の奥から立ち上がる。
「それに巻き込まれるな。
それを“自分だと思うな”」
青年は、はじめて“それ”を観た。
怒りが、どこから生まれるのか。
それは――
「傷つきたくない自分」だった。
否定されたくない。
価値を失いたくない。
その恐れが、怒りという火になっていた。
その瞬間。
何かが、静かにほどけた。
怒りは、まだある。

だが――
それを見ている“別の何か”がある。
「……これは……」
青年の内側で、言葉が消える。
怒りは燃え上がることなく、
ただ揺らぎ――
やがて、崩れた。
まるで、最初から実体などなかったかのように。

そのとき。
世界が、わずかに変わった。
音が消えたのではない。
だが、すべてが遠くなる。
身体も、感情も、思考も。
どれもが――

“自分ではないもの”として現れている。
そして気づく。
これまでの人生すべてが、
「反応」によって動いていたことに。
怒りがあれば怒りに従い、
欲があれば欲に従い、
恐れがあれば逃げていた。

だが今――
それは、止まっている。
「……選べる……」
その理解は、雷のように走った。
反応しなくてもいい。
怒らなくてもいい。
求めなくてもいい。

その瞬間。
運命が、反転した。
それまで青年は、流れの中にいた。
因縁に押し流され、
無意識に未来を繰り返していた。

だが今――
流れの“外”に、立っている。

遠くで、戸が静かに開いた。
老師が、闇の中に立っている。
しばらく青年を見つめ、
そして、わずかに頷いた。
「……一度、還る者となったな」

青年は、何も答えなかった。
答える必要がなかった。
ただ、静かに座している。
怒りも、恐れも、欲も――
完全には消えていない。
だが、それらはもはや
彼を支配してはいなかった。

夜は、深く続いている。
だがその闇は、もはや恐れるものではない。
なぜなら――
闇を見ている光が、内にあることを知ったからだ。

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