仏陀と阿羅漢
無明を克服すると、いよいよ阿羅漢になります。阿羅漢というのは、仏陀のことです。
大乗仏教の人たちは、この阿羅漢を、「小乗の悟り」として菩薩の下に置いてしまいましたが、 大変な間違いです。阿羅漢というのは、サンスクリットの「arhat」で、漢訳して「お供」といい、如来の十号の一つです。
大乗仏教が、どうしてそういうことをしたのかといいますと、わたくしの考えますのに、お釈迦さまの亡くなられた後、しばらくして教団を飛び出した人たちは、次々と新しい経典を創作し始めた。ところがその経典では、釈尊の成仏法、七科三十七道品が抹殺されております。
そこで、仏教の究極の目標が阿羅漢であるとしますと、そこに達する過程、「須陀洹」「斯陀含」「阿那含」「阿羅漢」(これを「四沙門果」といいます)を出さなければならなくなる。ところがこの四沙門果を出しますと、その四沙門果を得るための修行法として、七科三十七道品を出さなければならなくなる。そうすると、なんのことはない、結局、「阿含経」に戻ってしまうわけです。それでは、新しく創った経典の立場がなくなってしまう。
それからもう一つ、「阿含経」を奉持する長老たちは、お釈迦さまの教えにしたがって、阿羅漢を目指して修行しており、実際に阿羅漢も何人か出ている。そうすると、自分たちも同じように阿羅漢を目ざすことになると、長老たちの方が正統ということになってしまう。そこで、長老たちが目指す阿羅漢というのは小栗の低い香りで、菩薩(これも大乗仏教がつくり出したより下
だということにしてしまったわけです。
以上の二つの理由で、大乗仏教は阿羅漠を、小乗で低い悟りとしてしまったのです。
阿羅漢とは仏陀でありお釈迦さまなのです。その阿羅漢を小乗の低い悟りとしてしまったのであったので。
は、根本的に、仏教は成り立たなくなってしまいます。それを、今の人たちはほとんど知らない。
仏教徒が知らないのです。わたくしたちは、この間違い、というより捏造を世に明らかにして、
本当の正しい仏教というものを世に広めなければならないのです。
苦行と瞑想
無色食の解説で、苦行について触れましたが、大乗仏教では、お釈迦さまは苦行を無益のものだとして捨て去った、ということになっています。しかし、それは間違いです。
わたくしは、お釈迦さまの教法とは、帰するところ、
苦行
と
瞑想
であると思うのです。
お釈迦さまは決して苦行は無駄だなどとはいっておられぬのです。それどころか、苦行は修行
に不可欠なものであるとして、弟子たちに釜
「スッタ・ニパータ」には、
「この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて策跡する者、精励する賢者――そのような人
が〈策助する者〉(修行者)と呼ばれるのである」
とあり、また、
「苦行と清らかな行ないとは水のいらない沐浴である」
といって苦行を勧めている詩句があります。
お釈迦さまは六年の苦行ののち、「苦行だけでは真の悟りは得られない」として苦行から離れ、
深い(智慧の)瞑想に入られて悟りを得られたのです。
悟りの後、お釈迦さまはこう語っておられます。
「(わが身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉がなくなると、心はますます
澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安定するに至る。
もろもろわたくしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸の欲望を顧
みることがない。
見よ、わが心身の清らかなことを」
この詩句の出ている『スッタ・ニパータ』においては、お釈迦さまは苦行によって悪魔を追い払ったことになっていますが、お釈迦さまの何十倍もの悪魔をその心身に持っているわれわれは、 どれほどの苦行をしたって、それでよいということはないでしょう。
苦行を否定するのは間違いです。
これほどの害だをにだって それでよいということはないでしょう。
苦行を否定するのは間違いです。
ないのです。 苦行を否定する人々は、「苦行」という言葉にひっかかって、吉行の真に意味するものを
この人たちは、「苦行」とは、お釈迦さまの時代の苦行主義者たちがもっぱらやっていた、苦行と称するもの、炎天の下で一日中、裸体をさらしていたり、一日中、四足で歩きまわったり、日中は用便の時以外は逆立ちをしていたり、といった行を「苦行」だと思っているのです。 それらは本当の「苦行」ではなく、「荒行」ともいうべきものです。そういうただ単に身心を痛めつける荒行は、お釈慮さまも無意味なものであるとされたのです。当然のことでしょう。
いったい、「苦行」の「苦」とはなにか?
いったいなにが「苦」なのか?
世の中に、これが「苦行」なのだと決定されたものはないのです。わたくしは修行中、大寒の京都伏見の五社の滝で五日間断食を続け、その間中、一日四回の滝行をしたことがあります。まさに無謡ともいうべき常行でしたが、決して「苦」行とは思わなかったのです。少しも苦とは感じなかったのです。むしろ、快く楽しい行でした。
しかし、求道生活に入る以前、若いころ、寒中の早晩、水で洗顔することに苦痛を感じたことがしばしばありました。彼の中に、これが「苦行」だなどと決定されたものはないのです。一つ道の行為があるだけで、それが苦なのか楽なのかは、やっている本人しか分かりません。 それは、行だけではありません。普一般の日常生活においても、よそ目にはさぞ楽しいことであろうと思われても、本人にとってはこれ以上の苦しみはないということだってしばしばあるのです。たとえば、一本万円もするワインやコニャックを勧められたら、上戸は舌なめず
苦行を否定する人々は、「苦行」という言葉にひっかかって、苦行の真に意味するものを知らないのです。
この人たちは、「苦行」とは、お釈迦さまの時代の苦行主義者たちがもっぱらやっていた、苦行と称するもの、炎天の下で一日中、裸体をさらしていたり、一日中、四足で歩きまわったり、日中は用便の時以外は逆立ちをしていたり、といった行を「苦行」だと思っているのです。 それらは本当の「苦行」ではなく、「荒行」ともいうべきものです。そういうただ単に身心を痛めつける荒行は、お釈迦さまも無意味なものであるとされたのです。当然のことでしょう。
いったい、「苦行」の「苦」とはなにか?
いったいなにが「苦」なのか?
世の中に、これが「苦行」なのだと決定されたものはないのです。わたくしは修行中、大寒の京都伏見の五社の滝で五日間断食を続け、その間中、一日四回の滝行をしたことがあります。まさに無謀ともいうべき荒行でしたが、決して「苦」行とは思わなかったのです。少しも苦とは感じなかったのです。むしろ、快く楽しい行でした。
しかし、求道生活に入る以前、若いころ、寒中の早晩、水で洗顔することに苦痛を感じたこと
がしばしばありました。世の中に、これが「苦行」だなどと決定されたものはないのです。一つの求道の行為があるだけで、それが苦なのか楽なのかは、やっている本人しか分かりません。 それは、修行だけではありません。普通一般の日常生活においても、よそ目にはさぞ楽しいことであろうと思われても、本人にとってはこれ以上の苦しみはないということだってしばしばあるのです。たとえば、一本数万円もするワインやコニャックを勧められたら、上戸は舌なめず
りをして喜ぶでしょうが、下戸が強いられたら地獄の苦しみなのです。それをただ単純に、寒中に復に入ることは苦であろうと考え、だからそれは苦行であり、いたずらに身心を苦しめることは無意味であるなどと断定することがいかに愚かなことであるか、よくお分かりでしょう。実際に「行」をしたことのない人たちには、それが分からないのです。
お釈さまが絞められたのは、外見だけの無意味な「行」のことなのです。本当の意味の苦行は勧められているのです。
習気(じっけ)を取り除く苦行
では、なぜ、苦行が必要なのか?
想だけでは、本当のものをつかむことができないからです。(それは、苦行だけでは本当のもの
とっかむことができないのと同じです)
身心落(しんじんだつらく)の「成行」なくして、真の「定」(仮想)は得られないのです。
身心脱落とはなにかす
心と身体に染みついた「気」を一切抜き去ることです。
気とはなにかす
潜在的な楽の余力です。それは、しばしばを起こしたことによって事になってしまった
しほしに増幅を起こしたことによって静になってしまった頃
気の余力です。私の回といってもよいでしょう。つまりう。つまりに染みついた習慣的な(悪)であるといったら理解できるでしょう。 、意
難しいのです。 行いの上ではべつに欠点はないが、心の中にはまだ悪かった形跡が残っている。腹を立てないが、腹の立ちそうな気分だけは残っている。少しも欲張ったりはしない。しかし、欲しいなとい気持ちだけは残っている。相当深い悟りを開いた人でも、習気まで断つということはなかなか
――ある時、お釈さまが数人の弟子を連れて托鉢に出られました。ふと、お釈迦さまが立ち止まって例を指さされました。弟子たちが見ると、一本の縄が落ちています。
なんでしょう? というように弟子たちがお釈迦さまのお顔を仰ぐと、
「拾ってごらん」
とおっしゃる。それで、一人が腰をかがめて拾い上げると、
「匂いをかいでごらん」
42 手にした補を鼻のそばに持っていった弟子は、思わず、不快そうな表情をして顔をそむけまし
「どうした?」
「誠にイヤな匂いがいたします。おそらく、腐りかけた魚でも持っていたものと思われます」 お釈さまは黙ってうなずいて、また歩み始められました。
「捨ててよろしゅうございますか?」
一
お釈迦さまがうなずかれるのを見て、弟子は、絶を投げ捨てると、手拭きを出して、さも気持ち悪そうに何度も手をふきました。
しばらく行くと、また、お釈迦さまは立ち止まって、路傍を指し示しました。見ると一本の紐が落ちています。今度は黙っていても弟子の一人が拾い上げ、鼻のそばに持っていきました。 「どうだ?」
とお釈迦さまが聞かれますと、
がいたします」
「おお、いい香りがいたします。多分、香だか香料を縛っていたものでしょう。とても良い匂い
弟子は、そういうと、紐を折りたたんで懐中にしまいこみました。それをご覧になったお釈迦
さまは、再び歩み始めながら、弟子たちにこういわれたのです。
「実体はなくなっても、その影響は永く残る。誠の梵(清らかな悟り)を目指す者は、薰習をも断たねばならぬ」
薰習とは、習慣によって心に染みついたもののことをいい、薰習の残っているものを習気といいます。わたくしたちは、なんとか行いは慎めても、心の奥まで慎むことは至難です。しかし、 本当の悟りを得るためにはそこまで目指さなければいけない、ということです。
この習気を取り去ることを身心脱落といいます。この身心脱落をすることが、仏教の修行に絶対欠かすことのできない戒・定・駅の三学のうちの「戒」なのです。そして心の因縁を断ち切る身心脱落の修行なくしては、真の「定」には入れません。
一
方法は一つです。
身心脱落の修行なくしては、真の「定」には入れません。
しかし、気を取り去ることはじつに苦しいことです。考えてみればすぐに分かるでしょう。喫煙という気を取り去ることがいかに苦しく困難なことか。酒でも麻雀でも、朝寝、夜ふかし、なんでも一つの習気を取り去ることがいかに苦しいか。
胃気を取り去る苦しさに匹敵するか、またはそれ以上の苦に耐えられるように、自分を訓練
自己規制するよりほかにないのです。
それをわたくしは「苦行」と呼ぶのです。
だから、その「苦行」(身心回落のための「旅行」)の内容はさまざまです。
要は、その修行者の「習気」習慣的な悪癖)が、「苦」と感ずるものであることです。
わたくしのところでは、腹を立てるな、グチをこぼすな、というような、ごく単純な修身の科目のような場合もあり、また、少社実業家やエリート官僚に道場の内外、便所の清掃を課すこどもあり、また、時には実際の意味での苦行を課すこともあります。
煩悩を止滅させる大善地法(だいぜんじほう)
その主体となるものは、「大地法」です。大善地法とは、「阿含経」において説かれたものを、 その注釈であるアピダルマが「おもいお」の中にとり入れ、体系的に編成したものです。こ




