UA-135459055-1

輪転生联想: 30

その結果、あのとき、わたくしに啓示をあたえた体臭の異常、また、わたくしの生体をささえるため必死にたたかっていたのが、副腎とよぶ機能の高まりであったこと、そうしてそれは、クンダリニー・ヨーガで、ムーラダーラ、およびマニプーラとよばれるチャクラの部位であることがわかったのである。

以来、わたくしは、クンダリニー・ヨーガの体得に深く没頭していったのである。

・以上、護摩行と滝行、この二つの行だけで、わたくしは、だれでも、斯陀含 /にまでは到達できるであろうと思っている。

四神足の修練によってニルヴァーナへ

さらに、輪廻転生瞑想法の原典である釈尊の成仏法、その真髄たる四神足法を修練していくとどうなるのか?

釈尊の体験を見てみよう。

バーリ文「スッタ・ニパータ」を、中村元先生の訳によって載せてみる。

/ このように四神足を修練し、豊かならしめたならば、多様なる神変を身

に受ける。一身にして多身となり、多身にして一身となり、あるいは現わ

れ、あるいは隠れ、牆壁や山岳をよぎって、願げなく、行くこと空中にお

けるがごとく、地中に出没すること水中におけるがごとく、水中を行きて

壊られざること地上におけるがごとく、虚空においても結跏趺坐してそぞ

ろ歩きすることは飛鳥のごとく、このように大神通・大威徳あるこの日月

する。

を手でとらえて揉んでしまい、梵天の世界にいたるまでも身をもって支配

こ このように四神足を修練し豊かならしめたならば、清浄にして超人的な天の耳の本性をもって、遠近にある天的なまた人間的な声をともに聞く。

このように四神足を修練し豊かならしめたならば、他の生存者、他の

人々の心をば心によって了解して知る。貪りある心を貪りある心であると知り、貪りを離れた心を貪りを離れた心であると知り、また怒りある心を怒りある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、迷妄ある心を迷妄ある心であると知り、迷妄を離れた心を迷妄を離れた心であると知り、収縮した心を収縮した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、偉大な心を偉大な心であると知り、偉大ならざる心を偉大ならざる心であると知り、上ある心を上ある心であると知り、 無上の心を無上の心であると知り、定にあらざる心を定にあらざる心であると知り、定のうちにある心を定のうちにある心であると知り、解脱していない心を解説していない心であると知り、解脱している心を解脱している心であると知る。

3 このように四神足が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想いおこした、すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生

のである。 涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」 と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこした

このように四神足が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、

「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪った見解をいだき、邪った見

解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。 かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」 と。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを〔明らかに]知った。

そうして最後につぎのように結んでいる。

5 このように四神足が修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚

れがほろぼされることによって、汚れなき心の解説・知慧の解説をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。

けっきょく、四神足の修行によって、釈尊は解説を得たというのである。つまり、四神足の修練によって、ニルヴァーナに到達したというのだ。

ニルヴァーナにまで到達するのは、至難の業である。わたくしといえども、 そこまで修行者を導く自信はない。しかし、準・ニルヴァーナにまで到達させる自信はあるのだ。すべては、修行者の努力と熱意しだいだが――。

311 第八章想法のカリキュラム

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*