仏教のすばらしいところは、最初は仏さまを礼拝するところから始めるけれども、仏さまが修行された内容を自分も実践し、自分自身も仏になることを究極の目標としている点です。 お釈迦さまご自身が、
「おまえたちも私が修行したとおりに修行すれば、私と同じ仏陀になれる」
とおっしゃって、仏になる方法 成仏法を「阿含経」の中にお残しになられたのです。このよ
うなすばらしい宗教は仏教しかありません。しかし、仏教と名乗ってはいるものの、自分自身が成仏するという本当の仏教を修行しているのは、成仏法の修行をしているわたくしたち阿含宗信徒だけです。たとえば、阿弥陀如来を信仰している浄土教の人たちは、
「自分たちは一生懸命に修行して、阿弥陀如来になるんだ」
などとは考えません。ひたすら阿秀陀如来の恋にすがり、極楽に生ずることを願って、
と唱えるのみです。密教の場合は、自分が大日如来になることをめざすからまだよいのですが、 しかし、それもお釈迦さまの成仏法を修行しているわけではありませんから、実際には成仏できないわけです。
仏教とはいうものの、本来の仏教の趣旨とは異なった、おかしな宗派がずいぶんとあります。 正しい仏教とは、お釈迦さまが教えてくださっているように、修行によって自分自身も仏陀になるというものでなければならないのです。
世間福と出世間福
「三供養品」の内容に戻りましょう。
お釈迦さまは、サーヴァッティーの祇樹給孤独園(祇園精舎)にご滞在の時、弟子の阿難に、 次のようにお告げになられたわけです。
「三善根(三福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る」
さきほども述べたように、「涅槃界に至る」とは、本来は成仏する、阿羅漢になるという意味です。お釈迦さまは、三善根(三福道)によって涅槃界に至るぞ、とおっしゃっています。ただし、ここでいう「涅槃界に至る」とは何渓になることではなく、阿那含になることを指してい
る、とわたくしは考えます。このことについては、あとで詳しく説明します。
それでは、三善根(三福道)とは、具体的にはどのような修行法なのでしょうか? 前述のように、わたくしは三善根を三福道と名づけているのですが、三福道とは文字どおり「三つの福の
道」です。それでは福と成仏の間には、どのような関係があるのでしょうか? またこの福とは、 どのような福なのでしょうか?
だいたい世間一般に福という言葉を使い、だれもが福を求めていながら、あらためて、 「福とはなにか?」
と問われると、なかなかひとことでは答えられません。福を幸せと表現する人もあるでしょう。 いろいろよいものを得ることが福である、という人もいます。福に客の一字をつけて幸福ともいいます。福の表現はじつにさまざまです。
人間である以上、だれもが幸せでありたいと願います。幸せを願わない人はいません。かなり以前のことになりますが、北海道に幸福と愛国という名前の駅があり、「愛の国から幸福へ」のキャッチコピーで「愛国から幸福ゆき」の切符を売りだしたところ、それを買うために、若い女性の観光客が殺到した、と新聞記事で読みました。これは一つの縁起担ぎでしょうが、だれもが幸せを望んでいることを表わす好例ではないかと思います。
さて、仏教では、福には世間帯と出「世間帯の二種類があるとしています。世間福とは一般世間における福です。たとえば財福や寿様のように世間的な福です。財福とは読んで字のごとく金銭的な福で、寿福は長生きをする福です。病気をしないで長生きをする福が寿福です。それ以外にも高い地位を得る福、権力を得る福、すぐれた肉親をたくさん持つ福などがありますが、いず
福の源は徳
お経には、
経文中に「窮尽す可からず」という言葉があります。直訳すれば、極め尽くすことができないということですが、ここでは広大・無限と考えてください。広大の反対は狭小です。狭く小さければすぐに極め尽くしてしまいますが、無限で広大だから極め尽くすことができません。「三善根(三福道)有り、窮尽十可からずして、漸く涅槃界に至る」は、「三善根(三福道)を修行するならば無限の功徳を得て、涅槃界に入ることができる」という意味になります。
それでは、三善根(三福道)とはどのような修行法なのでしょうか?
「如来の所に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根材尽
才可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」
とあります。つまり三善根(三福道)とは、
①如来のみもとで功徳を種える
③正法において功徳を植える
聖衆において功徳を種える
の三つの修行です。
お釈迦さまは、まず第一に、如来のみもとにおいて功徳を種えよ、とおっしゃっておられます。 功徳という語を、単に徳としてもさしつかえありません。前記のようにだれもが福を持ちたいと
願っていますが、福はなんの理由もなく突然にやってくるものではありません。福が授かるからには、陽が授かるだけのもとがなければならないのです。福のもとはいったいなにかといえば、 それは徳です。福徳といいますが、福は徳から生じるのです。徳がなかったならば福は得られないのですが、一般世間の人はこのことをよく理解していません。世の人は、 「お金が欲しい。財福を得たい、長生きがしたい。権力を得たい。高い地位に就きたい」
ど次々に願い求めて、それなりの努力をしているようですが、それだけでは福は生じません。 たとえ努力をしても、徳のない者には福は生じないのです。仏教には「薄福少徳」という言葉がありますが、お経によっては、「火」となっています。福が薄いから徳が少ないのではなく、実際は逆で、徳が薄いから福が少なくなるのです。徳がないから不幸になるのです。なんの理由もなく不幸になるのではありません。徳が少ないから不幸になり、徳が多いから幸福にな
るのです。わたくしたちは、その点をよく理解しなければなりません。
「幸せになりたい。福を得たい」
といっているだけではしかたがありません。福を得て幸せになりたかったならば、徳を身につければよいのです。
それをお釈迦さまは二千数百年前に、はっきりと教えてくださいました。
っているのです。 「三善根(三福道)という、出世間福を受けるための三つの方法(道)があるのだ」とおっしゃ
それから、お釈迦さまは「功徳を種える」とおっしゃっています。たしかに徳を種えなければ、 幅は実りません。普通、感あるいは功徳という場合は、「積む」という言葉が用いられます。「功徳を積む」「徳を積む」というでしょう。あるいは積徳という熟語があります。
ところがこのお経では、じつに微妙ないいまわしがされます。艦と書いて種えると読ませています。「功徳を種える」となっているのです。大差はないように思うかもしれませんが、意味はまったく違います。「功徳を種える」と「功徳を積む」では、ニュアンスが違うのが分かるでしょう。
「功徳を積む」というと、もうすでにいくらかの徳があって、その上にまた徳を積み重ねるような感じがします。たしかに、だれもがなんらかの徳を持って生まれてくるわけですが、生まれながらに出世間福を得るほどの徳を持っている人など、ほとんどいないといってよいでしょう。わたくしたちはみな、徳を種えるところから始めなければなりません。徳を積むなどというのは、 本来はとてもおこがましいことなのです。
「徳の種まきをせよ」
というニュアンスで、「功徳を種う」とされているのは、じつに表現の妙です。
お釈迦さまは三善根(三福道)の第一として、「如来の所に於て功徳を種う」とおっしゃっています。一見簡単そうですが、実際には非常にむずかしいことです。それはなぜでしょうか?
如来の真義
お釈迦さまは、如来のもとで功徳を種えるならば無限の出世間福が生じる、とおっしゃっているわけです。なぜ、お釈迦さまは、まるで念を押されるかのように、「如来の所に於て」とおっしゃっているのでしょうか? 不思議に思いませんか?
わたくしはこの部分を読んだ時、これには深い意味が込められている、と直感しました。たしかに功徳を補えることは大切です。仏教系の宗旨・教団であるならば、功徳を積めと必ず教えます。それは結構なことであり、お釈迦さまの教えにかなっています。どの仏教教団でも、 「功徳を積みなさい」




